風蕭々と 〜深淵





「必ずお助けします。暫しご辛抱のほどを」



 手塚は振り返ってしまいそうな衝動を懸命に堪えた。
 幻聴かと思うほどの微かな声。海堂ではない。彼の声を聞き違えることはない。いま少し年嵩の。 だが他の誰が彼を救ってくれるというのだろう。
――海堂。
 幼少のころから影のように付き従ってくれた少年を思う。盾となり支えとなり、寡黙に尽くしくれた。 剣技の修得も人一倍努力を惜しまない。華美でもなく己の技を鼓舞するでもなく、一段一段地道に上り詰めていく 確実さがあった。
 無事でいてくれるだろうか。
――もうわたしは太子でもなんでもない。いっそ、忘れてふつうに暮らしていてくれたら。
 彼の気性からすれば届かない願いかも知れない。だが、それだけが気がかりと顔を曇らせた。



 鎬京を出た一行は進路を北東にとり、一路氷帝国の首府を目指す。
 そういえば生まれてこの方、鎬京を出たことは一度もなかったなと、変わりゆく景色を眺めていた。
 一面に広がる砂の塵野。目を凝らせば黄色い大地が砂風と共に揺れていた。
 風は黄砂を巻いて蕭々として流れ、時間をかけて形づくり、瞬時に消してゆく。
 その砂塵にも違いがあるのだと言ったのは、学業の総てを授けてくれた太傳(養育係)だったか。
 一歩京師を出ると民族の姿形のみならず、風景や砂塵の種類、そして沈む夕陽の大きさまで変わってくる のです、とその声が蘇った。
 何れ天子となる御身。あなたさまが治められる国の隅々まで、見て回られるのも宜しかろうと。そのときは 僭越ながらわたしもお供しますぞ、とくしゃりと笑ってくれた太傳はもういない。
――聡明なあなたさまが玉座にお付あそばすまで、いま少し老骨に鞭打つことと致しましょう。
 太傳の慧眼を持ってしても、この状況を予測できなかったろう。あの混乱の中、親しかった人たちの 消息は掴めない。
 枯れた筈の涙。瞳を潤ませるだけでなんとか耐えた。
  ――傳師よ。あなたなしで鎬京を出ましたよ。
 言葉にしても届かない。



 手塚の輜車の横には騎乗の跡部がピタリと寄り添っていた。いつだって薄ら哂いを浮かべていた彼の表情が 幾分硬い。だが、それがどうしたと視線を戻した。人にかまけるほどの余裕がどこにある。 それに衰弱しきった心身では時流の変化に対応できない。この物々しい警備では、助けると言ってくれ た者も手を出せない筈だ。休めるうちに体力を蓄えなくては、と揺れにまかせてまどろむことにした。
 比較的ゆったりとした行軍は、何度かの野営を数えたのち、氷帝国の首府に到着した。
 城市の門から公邸まで一本の大通り。そのまま真っ直ぐに進んで、公邸に入ったところで輜車は下ろされた。 あとは左右を警備兵に固められながら、渓谷を模した庭園を通り過ぎ奥まった私室まで誘われた。
 無言で立ち去る警備兵たち。ガチリと硬質な閂が掛けられた音。薄暗い部屋に彼は囚われた。



「よう戻られた。恙無くご政務をこなされた由、お喜び申し上げます」
 跡部は公邸に帰参すると、樺地だけを連れ、疲れた体に重い足を引きずるように、母の住まう離宮に向った。
 季節季節の草花が集い、弦楽遊びのための池の向こうには築山が丹精に手入れされている。氷帝公妃ご自慢の 庭園だった。粋人を名乗るだけあって、ここを訪れた者だれもが、この美麗さに目を奪われる。 目を見張るが心落ち着くとは限らない。跡部もその一人だった。計算し尽された景観になにやらざわつく。 その理由は分からないが。
「榊どのはご健勝であらされますか?」
「はい」
 氷帝公妃は剪定の手を休めて艶然とした笑みを一人息子に送った。
 跡部はまともに母と視線を合わせられない。苦渋の心中から握り締めた手に、否応のない汗をかく。
「何やら風の噂ではかのお方を得られたとか。女人の好みに厳しい方が珍しいと、いまも 女官たちと話しておったところです」
 流石に情報には敏感だ。典雅な笑みを女官たちに振りまき何気ない会話だが、水揚げされ斜めに切られた 茎の鋭さだけが、公妃の心情を顕している。
「榊どのもご酔狂が過ぎます。何も幽王陛下を誑かした魔性を身の内に引き入れなくとも、美女は他にも おりましょう。これから更に登り詰めていかれようというときに、褒ジさまの悲運が氷帝国に及ばなければ よいと懸念に耐えません」
 公妃は小刀でスッと根を落としてゆく。水桶に残された残骸たちを跡部は無言で見ていた。
「それにしましても褒ジさまも節操のない。ご夫君を弑いした者の手に落ちて、それでも生きていたいと 思うのでしょうか。尊い寵を受けた身でありながら、何やら憐憫の情すら沸きます。妾はそのような 経験がない故理解できないのでしょうか」
「生きたいと願うことは何よりも尊いのではないでしょうか!」
 ゆったりと笑む母に珍しく跡部が声を荒げた。公妃は目を丸くしている。
「おや、あなたも魔性に身を食われましたか?」
「そんなんじゃねぇ!」
 席を蹴って立ち去ろうとする跡部の背後に厳しい静止の声がかかった。
「お待ちなさい」
 背後から包み込むように歩み寄る母。それを振り切りたいと願う。いつも。そして何度も。
「おまえはよく出来た公子だと皆が賞賛しております。決断力も統率力も求心力も総て榊どのを上回っている と評判ですよ。おまえの成長に母は心より嬉しく思います」
 跡部の肩に公妃の手が掛けられた。
 戻らなければと思う。聞いてはいけないと思う。なのにその場に縫いとめられて動けない。
 背後からの雁字搦め。
 息が詰まる。それはこの庭園の圧するような花々のせいなのか。
「褒ジさまを得たことで、官吏たちに動揺が広がっておいます。王家の災いが氷帝国にまで及ぶのではないかと。 公も陛下と同じ道を歩まれるのではないかと。分かるでしょう、跡部。一度離れた人心や官吏の忠誠を 取り戻すことがどれ程困難か」
 公妃は一度深く息をついた。さも心苦しいとばかりに。
 跡部の耳奥で何かの羽音が聞こえた。開放してくれとばかりに一斉に唸る。
「氷帝公におなりなさい。あなたに忠誠を誓う者は引きも切りません。そして更に高みを望みなさい。 その器量を縦横に発揮するのです」



 背後で何かを叫ぶ樺地を振り切りって離宮を後にした。途中で忍足とすれ違い腕を 取られたがそれさえ跳ね除け、ほとんど転がるように私室に逃げ込んだ。そのまま牀の上にうっ伏す。 追ってきた二人が扉向こうで叫び声を上げた。
「跡部! どないしてん! ここ開けんかい!」
 来るなと怒鳴りたいが、声が掠れて言葉にならなかった。
 薄暗く、淀んだ深淵。もがけばもがくほど、身動きが取れない。
 右手に握りこんだ小さな包み。父から手渡された痛みが体中を駆け巡る。今更一服盛らなくとも、 この公邸は蠱毒に塗れているではないか。自嘲ぎみに哂い、奥の部屋に掛けられた閂を見つめた。
 手塚を繋ぐ唯一のもの。
 囚人なのはおれもおまえも同じだと、軋む音を立てるそれを外した。



「跡部! 出て来い! 出て来て顔見せんかい!」
 忍足はなおも公子私室の扉を叩く。それを聞きながら、後ろ手で手塚を押し込めた部屋の扉を閉めた。 留める忍足の声が途端に小さくなる。
 物音に牀の上で臥せっていた手塚が身を起こした。薄暗さから入ってきた者が識別できないでいる。 暫く瞬いていた瞳が嫌悪顕わなものに変化していった。
「――跡部」
 この世に母を殺せと迫る父がいる。そして父を殺せとねだる母もいる。それを成せと歓喜する己もどこかにいる。 身の内から迸る血を見ないでは治まらない残虐性に心躍る己だ。
 強いられるのが嫌なら跳ね除ければいい。いや、それよりも自ら望めばこんな罪悪感に苛まれずに 済む。自ら望んでことをおこせばいい。その方がいっそ、らしいというものだ。
 跡部は牀の上に片膝をつき手塚を壁際まで追い詰めた。強い贖いの視線。こんな状況にあっても 手塚は諦めてはいない。背中で壁を伝い何とか跡部をやり過ごそうと模索していた。
 突然腹の底から湧きあがる哂い。
 何をしようとしている。手塚相手に何を。
 欲望はあるのか。欲情したのか。
 けして手に入れたくて開けた扉ではない。では、何のために。
 人が人を穢せるとでも思ったか。無理やりこじ開けて穢れるのは己自身の筈。
 哂いがおさまらない跡部の様子に、手塚の気が散じた。何ゆえの激情かわからないまま、そのまま押さえ込み、 息も付かせないほどの口付けを降らせた。



「忍足卿」
 なおも扉を叩く忍足の肩に樺地が手をかけた。
「ああなった跡部さまは梃子でも動きません。力にものを言わせてもあの方をお救いできない」
「何があったんや」
 一つ嘆息をついて忍足は扉から離れた。
「はい、公妃さまが――」



 両手を頭上で縫いとめられ、豪雨のような口付けから逃れても執拗に追いかけられる。これは死闘だ。 贖い続けろ。けして流されてはいけないと、願う先から痺れに似た感覚が体中を走りぬける。
 拒絶や力など必要ない世界で生きてきた。傅かれ褒め称えられる賛美の数々。 見目麗しく明晰な御方よとだれもが手を打った。その類稀なき太子が狼藉を働く者の腕一つ下げさせることが 出来ない。
 止めろと叫んだ光景が、封印した筈の痛みがふいに蘇る。あのときの――
 身分に違いなどなく、男たちが力ない者に 宿すのはいつだって残虐を宿した色。力を鼓舞して己の存在を確かめる下卑た色。
 力任せに暴れ男たちの腕から逃げ出し、横っ面を殴られて、口中に溢れる血の味を経験した。 商品に手を出すんじゃねぇと誰かが静止するまで背を丸くして 打擲(ちょうちゃく)に耐えた。
 そして、いま――
 ふと合わさった視線の先の跡部には何の感情も見えない。詰るような激しい動作に反して、心は 冷たく昏い深淵に沈んでいる。
 二人の視線が交錯した。
 跡部の唇が何かの言葉を形どり、手塚の肩に顔を埋め首筋に纏わり付く。頭上で交差されていた両手が 自由になり、纏わる跡部を引き離そうと肩に手をかけた。
 なぜ、欲望のままにねじ伏せる跡部の肩が震える。なぜと狼狽えるうちに、その 動作が急にゆっくりとしたものに変わっていった。耳朶を首筋を鎖骨をと唇が滑る。行きては戻り 翻弄してまた戻る。
「くっ――」
 呼気を求めた筈が喘ぐような声になる。五感がさんざめく。痺れは次第に形どり、手塚の体を支配して いった。



 何ゆえにこの体を抱く。



 跡部は手塚の首に縋りつく。
 手塚は引き離そうとその腕に爪をたてた。
――落ちる。
――繋ぎとめていたものが。
――落としたのではなく。
――互いが望んで、底のない深淵へ。


 墜落するように冷えた激情の後に残るのは、ただざらついた空虚観だけだ。手に纏わりつくような白磁の 肌を朱に染めても、どれほど彼を追い詰めても何も残らない。激しく上下する手塚の肩に顔を埋め、 余韻などではなく、ただ広がる隙間をなくしたかった。
 手塚、と耳元で囁く。届かなくてももう一度囁く。長い睫が震え残り火のような意識が戻っても、 視線がかみ合うことはない。
 いまだけの所有の証とその首筋にきつい烙印を押す跡部だった。



 そうか、と忍足は扉前にどかりと腰を降ろした。
「夫婦喧嘩も大概にしてもらいたい。 なぁ、樺地どっちが幸せやと思う? 持ってたもんが突然消え失せるのと、最初から持ってないのと?」
「忍足卿……」
「太子やからっていうても幸せやったとは限らんけど、両親の愛情を一身に受けてそれを突然奪われた手塚と、 お互いが憎み合ってしかも殺すように唆す環境におった跡部と」
 樺地は僅かに身じろいだ。大きな体をしていても繊細な部分も持ち合わせている。太子の心情を 探るような真似は不敬だと信じてきたものがある。
「失う方が辛いと思います。跡部さまを失うようなことがあれば、わたしは生きてはいけない」
「おまえは優しいヤツやな。失いたくないもんを持ってるってことはそれだけで幸せかも知れん。 けどな、跡部には失くすもんすらないんや。あいつ、公子の地位なんか鼻にもかけてへんしな」
 ガタリと室内で何か物音がした。忍足は顔を背ける。
「――あの二人はお互いを許すことなんかでけへんと思う。どれだけ跡部が手塚に惹かれようが、その一方で 憎悪の方が勝つ。振り子の振れ幅が大きすぎるんや。いざとなったら恐らく太子の方が潔ええ。情が揺れてる分、 壊れてしまうんは跡部の方や」
「では、どうすれば」
「おまえ、太子殺せるか?」
「跡部さまのご命令とあらば」
「俺の命やったら動かんてか。はっきりしたヤツ」
 しゃあないな、と立ち上がった忍足の前に血相を変えた兵士が転がり込んできた。何事かと発言を許すと 兵は早口で状況を告げた。
「立海国に動きがございます。公子の赤也さまが名代として、鎬京へ向われる宣臼さまの護衛を共にと 、我が公子への拝謁を望まれております」
 忍足は目を見張った。だが、次に浮かんだのは満足そうな笑みだった。
「手ぇ早いな。そう来たか。白々しい理由にも程があるけど――」
 利用させてもらお、と忍足は樺地を側近くまで呼んだ。