腕の刀傷以外は大したことはない。だが、放置された傷が元で微熱が続くかも知れませぬと医人は告げた。
極度の心身の疲労と劣悪な環境。満足に食事も与えられてはいなかったろう。兎に角安静にと言い残して医人は
立ち去った。 鎬京郊外に展開している氷帝国の陣屋。その中の公子跡部の天幕の牀の上に手塚は横たわっていた。 汚れていた体は清められ、現れた素肌はさながら青白く透き通る。微熱で薄っすらと朱が差し、少し離れて見ていると 仄かに立ち昇る霊気に包まれているようだ。 一歩近づき頬に手を添える。熱い吐息とともに身じろぎ何か言葉が紡がれた。跡部は牀の上に両手を付き 手塚の口元に耳を寄せる。 「……ぶ」 ――だいじょうぶ、だいじょうぶと繰り返されるうわ言。 ただその一言を呟きながら逃げ回り、囚われ、虐げられてきた。認識できない痛みと恐怖。この激変に 心が付いていけていない。 ――だから。 「だからおまえは甘いって言うんだ!」 跡部は思わす吐き捨てた。腹の底から湧き上がる不快感が抑えられない。潰してしまいたい、 壊してしまいたい衝動が体内を駆け巡る。 だが、一体何を怒る。手塚の身に起きた受難は、彼自身が昇華していかなければならないもの。そこに 跡部の感情が入る隙間などない。なのに何に怒る。差し伸べた手を払った手塚にか。それに手をかけた 者たちにか。その事実にか。 気がつけば手塚の首に回した両手に力を込めていた。 頭を預け仰け反る顎先。その華奢な首筋は片手で容易に折れよう。 「くっ、う……」 息苦しさから喘ぐ吐息に跡部は後ろに飛びのく。呆然とするも、入り口近くに気配を感じて振り返った。 「忍足――」 忍足は黙したまま立ち尽くしていた。 いっそ、いつもの軽口で咎められた方がマシだったかも知れない。若き太師は凝視する跡部の視線を一度 外し、淡々と告げた。 「公がお呼びや。はよ、行った方がええで」 一際瀟洒な天幕をくぐると、ここは本当に陣中かと思えるような煌びやかな装飾が施された空間が広がる。 敷物も草案も燭台も総て氷帝公、榊の好みで統一されていた。国許にあるのと何ら変わらないようにと、 これはもうある意味で見事と言うしかない。 座した榊の横に侍り、その手にある杯に並々と美酒を注いでいるのは、魔性を身に宿す前の皇后。 戦の勝敗による慣例とはいえ、意に染まぬ略奪にあい、意に反した男の持ち物と化す。女人にあっての 最高位を経験した者にとっては、屈辱以外の何ものでもないが、生き永らえただけでも重畳と 諦めて身を呈する者がほとんどだ。それが後ろ盾をなくした女の唯一の手段だった。 だが、彼女はけして媚態は晒さない。表情も固く、青ざめて項垂れたさまさえ、男を狂わす。国を傾ける。 それでも欲しいと、見せた男の執着の行き着く先には何があるのか。跡部には計り知れない。 それよりも同じ陣内に母親が囲われていると知って、あの男がどんな顔を見せるかが見物だと、ニヤリと 哂った。 「漸く重い腰を上げる気になったと聞いた。明朝、国許へ向うとか」 「ええ、まぁ。矢のような催促でしたからね。遅ればせながら主命を果たさせて頂きます」 氷帝公、榊は褒ジの耳元へ何かを囁く。彼女は一つ頷くと杯を跡部に差し出した。 それを丁重に受け取り、傾けた杯に美酒が注がれるのを待つ。 やはり似ているとその首筋に目がいった。 青白さが目に痛い。 そこに先ほど手をかけた。 救った命を破砕したいと願うその矛盾。 喘ぐ首筋。 真白い体が跳ね上がり、己の手の中に総てを収めた恍惚感に酔いしれた。 ――だが。 視線を外した跡部の何を気取ってか榊が低く呟いた。 「妙な気は回さぬことだ」 「牽制のつもりか知れませんが、残念ながら興味はない」 「それは結構」 「お呼びになられた訳はそれだけですか? あまり大っぴらには出来ない褒ジさまを自慢したかった だけなような気がする」 「それも言えて妙かも知れん。が、近頃おまえともろくに話が出来なかったからな。慰労と、宣臼さまをこの地に お連れする前に、成して欲しいことがあって呼んだ」 そう言いながら榊は立ち上がった。座した跡部の前に跪き、懐から小さな包みのようなものを 取り出す。それは、との無言と問いかけに榊は後の褒ジを振り返った。 征服者の色とそれに対する慈愛とが入り混じった複雑さが跡部を落ち着かなくさせる。 「離宮に入ることを許されている人間はわたしとおまえくらいだ。残念ながらわたしはこの場を離れる 訳にはいかない」 ――離宮に。 おまえに任せるしかないと渡された包みを、跡部は割れるような頭痛と共に受け取った。 物資の乏しくなった鎬京で、集められるだけの食料を抱えた不二が帰宅したとき、臥せっていた筈の 海堂の姿が消えていた。あんな体でと呆れながらも、動かずにはいられないその心情は理解できる。だが、 闇雲に飛び出したところで、無駄足になるだけなのにと、片づけを始めていると、諜報活動を請け負っていた 英二が息せき切って駆け込んできた。 「たっだいま〜。あれ、海堂は?」 「お帰り。慌てなくっても彼ならいないよ。まぁ、じっとしてられなかったんだろうけどね。あれは きっと無謀で命を縮めるクチだな」 「そう言うなよ。逸る気持は分かるじゃん。海堂ったら、その人のことホントに大切だったみたいだし」 「理解できないなんて言ってないよ。ただ、ここにいるのなら、そういう勝手な行動は謹んでもらいたいって 思っただけ。何かあったら乾に顔向けができないじゃない」 英二は可笑しくって仕方ないというふうにキャラキャラと笑いこける。 「何だかんだと、不二は乾のことが好きだもんね〜」 えーじぃ、と不二は胸倉を掴んでにじり寄る。 「人間関係円滑に進めたかったら、言葉に気をつけようね〜」 情け容赦ない責めに危うく窒息死の危険に晒され、降参の意味で両手を挙げる。乾が絡むと不二の理性が吹っ飛ぶ のは今に始まったことではなかった。 「で、どうだった。太子の足取りは掴めたの?」 締め上げておいて、何事もなかったように不二は聞いてくる。この転換の早さも今に始まった事ではない。 「うん。不二の想像どおりだったよ。止めを刺さずに連れ去ったってのなら、意図も顕わだよね。貴人を 売買する商人も出たって言うから、行ってみたら案の定だった」 ひと悶着が起きてたみたい、と英二は報告を続けた。 「海堂から聞いてた人相でそれらしいのが、えーっと、氷帝国の公子に連れ去られたって言うんだ」 「氷帝――それってマズイんじゃないの」 「うん、太子に生きててもらっちゃ困るんだよね。氷帝国としては」 「手遅れかもしれない」 「そんなことない!」 ポツリと漏らした不二の言葉に激しい反論が返った。 戸口に呆然と佇む海堂。 柱に体を預けなければ立っていられないほどの状態で、それでも怒りに拳が震えている。 拙いなと思った束の間、海堂は踵を返して駆け去った。あの体で、いい加減にしてもらいたいよ、と ごちるが、不二の周りでうねり出した流れを止められない。 時流を肩ですかして生きてきた。 贖わない。気が向いた仕事しかしない。それは生活のためと持ち前の山っ気が満足出来ればよかった。 だれかのために、懸命に奔走するその意気が理解できない。 「不二!」 そう思いながらも次に口をついた言葉は彼の根底を覆すものだった。 「追うよ! 英二! 乾が帰って来るまで待ってられない!」 「よっしゃぁ!」 誰のために駆ける。 今更生き様を変えようなどと青臭い真似はゴメンだが、時にはそれに巻かれるのも楽しいかも知れない、と 海堂の後を追った。 ――滅びのない王朝はないのよ。 しなやかな手が緩やかに彼の髪を撫でる。その心地よさが好きでよく母の膝元に転がり込んだ。官女が 嗜めても時間が許す限り母が与えてくれた至福のひと時。 母は笑わない人だった。父はそれが不服なのだという。 ただ、望みの少ない人だったのだ。 煌びやかな綾布も宝玉も貴重な産物も興味がなければ喜べまい。父にはそれが通じなかっただけの こと。 母は何よりも恐れていたのだといまだから言える。 ――わたしは龍の唾が化けた蜥蜴が産んだ子なのですって。わたしが王朝を滅ぼすのだそうよ。 生を受けた瞬間から傾国を義務付けられた運命。 ――運命なんて信じないで、手塚。 そう呟いた母は笑ったのかも知れない。 それが彼が見た唯一の笑顔だった。 手塚は己の頬を流れる涙で目覚めた。 朧に蘇る温かな懐。手を差し伸べても掴むのは空のみだ。 肩が振るえ溢れるものが抑えられない。それはもう手に入れることは叶わないのだと、目覚める前から 気づいていた。だからこんなにも胸が痛い。 ――臣を以て君を弑す。仁というべけんや。 気を失う前に認めたあの男。父王を弑したと嬉々と告げた男の顔を見忘れる筈もない。 ここは敵地なのだと認識して涙も枯れた。 待つのは安息の死か。屈辱の生か。そのどちらかでしかない。 どちらもごめんだと敢えて口にしてみた。 ふと篭っていた空気が流れた。 天幕の入り口に立つ人影に手塚は目を細める。背の高い厳しい視線にも見覚えがある。 公子跡部と一緒にいた西国訛りの男だ。 ピシリとした緊張が走った手塚に彼は口先だけで哂って近づいてきた。手に持つ盆には湯気の立つ椀が 乗せられている。ぷいとそっぽを向いた手塚の傍らまで進み、彼はその枕元へ盆を置く。 「目ぇ醒めたみたいやな。まぁそんな露骨に嫌な顔せんでも、ここで取って食えへんて。跡部に殺されるわ。 これ、お粥。氷帝の とことん人を食った男だ。真意が読めない。黙したままの手塚に忍足は鷹揚に肩を竦めた。 「毒は入ってへんで。なんやったら食べてみせよか」 確かに、ここで毒殺するくらいだったら、寝ている間に何回となく殺されていた。手塚は頷くと置かれた椀に 手を伸ばした。大きめのそれを持つだけで手に震えがくるほど衰弱している。零さないようにすするだけで 精一杯だった。それを認めて忍足が手塚の横に腰掛ける。 「辛そうやな。震えてんで。あっ、もしかして一人で飯食うたことないとか?」 「そこまで過保護な扱いは受けていない」 「あぁ、よかった。やっと喋ってくれた。俺、無視されんのん結構堪える方やねん」 「巫山戯たことを」 「まっ、太子、目の前にして、ほんまはそうでもないんや」 手に掛けようとしたお人相手に冗談ぶっこいてられるほど余裕もないと、更ににやける。どこまでが 本心なのかまったく読めない。 「なぜわたしを助けた」 「あぁ、それな。跡部に聞いて。もっとも跡部にも答えられるかどうか分からんけど」 「取引材料か、それとも各国への牽制か。この期に及んでわたしにどんな価値があると言うんだ」 「それも跡部に聞いたって」 忍足は立ち上がると肩で大きく息をついた。背に張り付く強張りは手塚の理解の範疇外だった。 「何やったら逃がしてやってもええ。正直言うて跡部の前から消えて欲しい。おれは氷帝大事やから、 あんたがおると跡部の切っ先が鈍るんや。太師としてそれを見逃すことはでけへん。けど――」 忍足はいま一度嘆息をついた。 「悪いけど食べたら支度してくれるか。早々に陣払いするから」 用意された戎服に身を包み、迎えに来た巨漢の後について天幕を出る。 何日ぶりかの旭日。焦げるような苛烈さに思わず顔を顰めた。 一歩出るとその周りを囲むように配置された兵士の数に驚く。逃げようなどという体力も気力も なかったとはいえ、どうしてこの囲みを突破できよう。その現実に眩暈した。 幌のついた 跡部が愛馬に跨ったのを確かめたように、唐突にその手は差し出された。手塚の右に位置する隋人の中から。 その手を支えに輜車に乗り込めという意図を振り切る。この国のだれの手も取りたくはない。頑なに固辞した 背に囁くような声がかかった。 「必ずお助けします。暫しご辛抱のほどを」 |