風蕭々と 〜囚虜





 その身なりで歩き回るのは無謀だと言われ、着衣を替え身をやつした跡部は部下の指し示す方向に 点在する天幕を睨みつけていた。そこまでの両脇には露天が立ち並び、日常品に混じって明らかな盗品も 取引されている。街や住居が焼けてもすぐさま鎬京が廃墟となるわけではない。いつの世も商魂は逞しい。
 おまえたちのモンじゃねぇ、とその胸倉を掴みたいが、いまはそれにかまけている暇はない。跡部は樺地に 表で待つように言い残し、忍足を促してその天幕をくぐった。



 薄暗い路地を通ってきたとはいえ、真昼の輝きから一転した薄闇に目が慣れるまでには時間がかかる。 それでも目を眇めて視力を戻しているうちに、この天幕が二重、三重の構造になっていることが分かり始めた。 一番手前は当たり障りのない盗品が。そして奥へ進むごとに奴婢の売買。さらに進むと同じ奴婢でも後ろ盾を 失った貴族の子弟や妻女たちが売られていると聞く。差し詰め最奥の部屋には王家の至宝あたりか。 いずれにしても陽の目を浴びることのない商いだ。
 様相が一変する次の天幕への入り口で、警備なのか用心棒なのかの屈強な男たちに行く手を阻まれた。 お約束の展開だ。先に進むにはそれなりの身分と持ち合わせが必要という訳なのだろう。
「お子さまがお遊びで来るところじゃねえ。さっさと帰んな」
 刀のコジリが跡部の腹の辺りを押さえにかかった。それを払いのけ、見上げるような大男に顎を上げて凄んだ。
「だれに向って口利いてやがる。違法取引でしょっ引かれないだけでもあり難いと思いな」
「何だと!」
 その恫喝には歯牙にもかけず、跡部は一歩室内へ。その代わりに忍足がさやっと刀を抜き払った。 相手の喉元目掛けて突き立てる。腕に覚えのある筈の巨漢は完全に先を取られていた。
「氷帝国の詮議や。後ろ暗いところがない言うんやったら、黙っとき」
「おまえが、か」
 巨漢の用心棒は忍足の冷えた斜めからの視線に思わず後ずさりした。
 どこかに紅顔さが残り、少年と呼んで可笑しくない年頃だ。しかしその物言いは完全に命令に慣れた者のそれ だった。
 巨漢の様相が一変して卑屈なものになる。あざとく目こぼしの金額を聞いてきた。 そのような権限がなくもないが、管轄外な上にその脅迫による上前のピンハネで、潤さなければならない ほど懐が寂しいわけでもない。また興味もない。
 素通りを許してくれた巨漢に忍足は悠然と笑みを送った。



 一歩踏み込み、奴婢たちの飲み込んだ慟哭を聞く。諦めたような微かなすすり泣き。誰かが身じろぎする度 に鳴る縛めの鎖の音。そこには鬱蒼とした樹海のような思念が渦巻いていた。
 捕らえられている者はみな一様に若い。以前は名のある貴人であろうと、利用価値のある、つまり売り手の 付きそうな者以外の消息は定かではないということだ。
 まだあどけなさの残る少女と目が合った。瞳は何も映していない。恐怖の感覚すら忘れた諦めに、 その方が傷つかずに済むと一人ごちる。心など閉ざした方が楽な筈だと。
 少女の視線を振り切り、跡部は更に奥へと進む。惑うことなく、吸い寄せられるように、その一角を 目指した。
 折り重なるように体を横たえた奴婢たちの中に彼はいた。



 膝を抱え、胎児のように体を曲げた状態では顔の判別はできない。だが、跡部は彼の左右に横たわる 奴婢たちをぞんざいに足払いして、その前に片膝をつく。奴婢たちが何か呻き声を上げた。
 跡部は徐に無残にも不揃いに斬られた髪を鷲づかみにし、顔を上げさせた。小さな悲鳴が 飲み込まれ、それでも彼は何の反応も見せない。先の少女と同じだった。心など閉ざした方が楽なのだろう。
 昏く閉ざされた瞳。だれが手を挙げたと見え、口の端が切れて血糊がこびり付いていた。 白磁と称された肌理は泥と砂に塗れ、さらに上衣をはだけると、何からの抵抗か体のあちこちに打擲の跡が 残っている。
 跡部の胸にどす黒い澱のようなものが淀む。
 手塚を支えていた手は意図も顕わに、投げ出された下肢を 膝から上に這い上がった。その途端、人形のように動かなかった手塚が弾けるような拒絶を見せた。
「触るな!」
 融点の低い怒り。
 尊いこの身に何が起こったのかは詮索のみでしかない。だが、感情が生きているだけ まだ救いがあると言えた。しかし跡部の口を付くのは低い哂いに 埋もれた侮蔑。跡部の行き場を失った怒りの矛先は、しどけない格好を晒す太子に向けられた。
「元気あるじゃねえか。だれに何をされた? 口にもできないような辱めを受けたのか?  だれだ? どこで? 何人だ? 言ってみろ。おまえを傷つけたヤツはこの俺が屠ってやるよ」
 手塚の瞳に一条の光が宿る。沸々と滾る怒りのみが、生き抜く気力にもなる。跡部の加虐性に 火が灯るのは弱者が見せるこういった反骨さだ。
「無様だな、手塚。それでも意地汚く生き永らえたか。自ら死を選ぶことも叶わなかったか」
「離せ! それを強いたおまえが言うか!」
 うだうだ煩せぇんだよ、と手塚の鳩尾に拳を繰り出す。ぐふっという声を上げてやんごとなき太子は 容易く跡部の腕の中に落ちてきた。
 意外と頭悪りぃな、と次に出た言葉は愁傷に満ちていた。
「あのとき俺と一緒に来ていれば、こんな目に合わずに済んだのによ」
 自然、忍足の眉根が寄る。
「どうするつもりや」
 それに応えは返さず、跡部は自らの被服を脱いで手塚を覆う。刀を抜いて手塚を繋ぎとめていた鎖を斬った。 そして力ない体を抱え上げる。
 騒ぎを聞きつけてこの店の主らしき男が護衛を連れて駆けつけてきた。冷や汗なのか脂汗なのか、女衒生業 が滲み出ているような風体の男だった。
 男を振り返る跡部の視線は厳しい。
「これに手をかけたのはどこのどいつだ?」
「そ、それは私どもには判じ兼ねます。ここに連れてきたときから、既に――」
「言い逃れも大概にしろ。いつ頃の傷かなんざ、分かるんだよ。だが、これを捕まえてくれたことには 感謝しよう。売り飛ばさずによくぞ置いていてくれたもんだ」
 ふんと鼻白らんで跡部は踵を返す。そうだ、と付け加えることも忘れない。
「謝礼が欲しくば氷帝陣営まで来い。おれは公子の跡部だ。たっぷりはずんでやる。思い通りのな」
 にやりと笑みを落として天幕を後にした。忍足が、ご愁傷さまと念を押す。



 天幕を出たところで待機していた樺地が珍しく表情を曇らせた。跡部大事のこの若者が彼に苦言など することはないが、さすがにこの行動には目に余るものがあるのだろう。それでも跡部が抱えている 太子を引き取ろうと腕を伸ばした。それをやんわりと拒絶する。忍足卿、と樺地が矛先を変えきた。 それには肩を竦めるしかない。
「公子は姫をだれの手にも触らせたくないんやと」
 流石、傾国の血を受け継ぐ者だけのことはある。食らいつかれているのは一体どちらだと、思い切り揺さぶって 目を覚まさせてやりたい衝動に駆られた。
「しつこいようやけどな、氷帝国に太子手塚の居場所なんかどこにもないで。氷帝にとっての太子は宣臼さま ただお一人や。どうするつもりやねん。太子は抹殺せぇって命令無視したばかりか、この後に及んで どこ連れてくつもりや。おまえに何が出来るねん。いま助けて、その後も手を差し出し続けられるんか?  後から無理でしたって手ぇ離すくらいやったらな、いま見捨てる方がなんぼ親切か分かってるか!」
 忍足の激昂にも跡部は動じない。
「宣臼、宣臼とお題目みてぇに並べやがって。氷帝にとっての太子は宣臼一人だと? 親父が本気で あの薄らぼんやりした男を据えるために幽王を弑したって考えてんなら、おまえの脳みそ方がよっぽど 目出度いぞ。この世に絶対なんてことがあるのか。だれがそれを保障してくれるっていうんだ。絶対は 己の手で叶えるもんだ。この俺の手でな」
「跡部、おまえ――」
 一歩踏み出した忍足を樺地が制した。害するつもりなどないとその手を払うが、樺地は二人の背後を 視線で示唆した。



 えらく身長差のある二人組みだった。ニヤニヤと好奇心を隠そうとしないのは小柄な方。 警戒心の欠片もなく近づいてくる。樺地が前方に出た。それを推し留めたのは忍足。跡部と手塚を 挟む格好で庇う。臨戦態勢を取る三人に対して、小柄な青年は暢気な調子で話しかけてきた。
「ねぇねぇ、どうしたのその人? 怪我? 病気?」
「おまえには関係ねぇ。そこどきな」
「やだな、そう尖んがらなくってもいいじゃない。いい医人知ってるよ。紹介しようか?」
「しつこいんだよ」
 相手の調子に苛つき気味の跡部を制し、忍足は外交用の笑顔を貼り付けた。視線を上げた先にもう一人の 背の高い男が目に入る。腕組みをしたまま跡部の胸の辺りを凝視している男に、忍足は厄介なことだと苦笑 した。
 嗅覚のいい者はこの地に集う。
 跡部――おまえの想い人は想像以上に求心力がある。
 忍足は小さく呟いた。
「お心遣い痛み入ります。早く連れを手当てしたいので、そこを空けて頂けると助かる。それとも何か 我々に含むところでもおありですか?」
 柔らかな物腰に包んだピシリとした拒絶に青年は肩を竦めて見せた。大人しく道を譲る。狭い路地を 肩が触れんばかりの距離で跡部たちは二人組みをやり過ごした。距離が出ても視線は未だ絡みつく。
「なんか――」
 面白ろいことになりそうや――と忍足は口先だけで哂った。
 その姿を見送りながら小柄な青年はクツクツと肩を震わせている。
 眉を潜めながら近づいてきた男に軽い調子で語りかけた。
「間違いないッスね。あれは手塚だ」
「わたしは太子を存じ上げない。あの状況でかの方であると確認できましたか?」
「何度もね。何度も会ってるから」
「そこまで知れていて、よく我慢されました。三対二だ。勝てる見込みがないと思われたのか?」
「まっ、正直言ってそう。一番後ろの大男を一人で抑えるのは難儀しそうじゃない。時間食うのは 得策じゃないでしょ」
「相手の力量を見極める力と現状分析は慧眼と申しておこう」
「氷帝側が太子を確保したって分かっただけで善しでいいじゃないッスか」
 男が片手を挙げると何処からか飛来した細作風体の男が傅く。なんだ、近くにいるなら三対三だったのに と口を尖らせる青年を横目で制して、男は小声で言い放った。
「太宰に連絡を。二個師団を動かすように。一隊は鎬京へ。もう一隊は氷帝国首都に向わせてくれ」
「お二方はいかがされるおつもりですか?」
「わたしは公子と共に太子の後を追う。復命先は氷帝の首都だ」
 承知――と細作は来たときと同じように飛び去った。それを見送って二人組みは顔を見合わせる。
「さぁ、参りましょうか、赤也さま」
「呼び捨てでいいッスよ。老師真田。あぁ、なんか師と一緒に各地を飛び回るのって久方ぶりですよね。 血肉沸き踊る。剣の修行のために漫遊してたころが懐かしいな。老師も一国の太師なんてツマンナイ責務、 この際捨てちゃって、放浪の騎士に戻りましょうよ」
「それがおまえの夢、だったな」
「まっ、ね」
 師弟関係に戻った二人は彼らの後を追った。



 略取した祭器を携えて一度青学国へ出向かなければならない。
 乾は臥せっている太子の従者であった少年、海堂の看護を不二と英二に任せて鎬京を後にした。
 進路を東にとり、昼夜を厭わす馬を駆り立てる。青学国の首都にたどり着いたときは、まさに 這う々の体。腰も腕も自分のものとは思われない。這うように登城を果たした。
 乾自身この国で高い地位を与えられている訳ではない。ただ、物見高く好事家な公子の雑学指南でしかない。 そういう一興も楽しかろうと年に何度かこの地を訪れた。
 彼の雇い主、少年公子リョーマは世の中の総てが退屈とでも言いたげに、倦怠感丸出しで迎えてくれた。 これでまだ機嫌はいい方だ。物品に当り散らしてウサ晴らししていない分マシだった。
「あぁ、乾サン。戻ったんだ」
 生欠伸に目に涙までためている。京師を襲った激震はこの地には波及していない。気抜けするほど安穏 としていた。
「仕事速いよね。くすねてくれたんだ」
「いま少し厳粛とした仰りようはないのですか。それでは張り合いが失せてしまうというもの」
「じゃあ、猫ババ。置き引き」
 もういいです、と乾は引き下がった。ふと視線を上げると、公子リョーマは、先に差し出されている王家の至宝 を行儀悪い格好で弄り回している。
「公子!」
 それを見咎めて青学国の太宰が窘めた。当の公子はちらと舌を出したが、一向に改める様子はない。 そのさまに祭器に対する敬意の欠片もない。公子には過去の遺品としか見えないのだろう。興味はある。 ただこれの一番最適な使用法を模索しているのだと思った。
「いいものありがとう。でもこれはあくまでも最後の手段でショ。っていうか結果が見えたあとのダメ出しってとこ かな」
 やはり侮れない。
 この年にして、野心に基づく行動で動いている。目的のために何を成すべきか知っている。
 この公子ならどう動く。
 そして自分はどうしたい。
 この場における己の役割とはなんだと自問する。状況を把握し分析して何を成す。
 まず、太子宣臼を擁する氷帝。そして王家姫(キ)氏の血を受け継ぐ、青学国公子と同じく立海国公子。 そして、太子手塚。
――手を離してしまいました。
 海堂の言葉が蘇る。
 彼の行動理由は明白だ。失ったものを取り戻す。では――。
 乾のらしくない逡巡を公子の一言が断じた。
「親父の名代で鎬京に行くよ。あのボンクラこの俺に委細任せただって。乾サンどうする。ついて来る?」



 嗅覚のいい者はかの地に集う。