京師、鎬京が氷帝公の手に落ちたという通牒は、急務を持って各国へと伝えられた。その事実を予測できた者、
驚愕した者、怒り心頭に発した者と反応はそれぞれだが、諸侯の中でその急襲に駆けつけた者は
一人としていない。いかなる理由があれども、結果として己の主を見捨てたも同然だった。 それを罪だと認識するのなら、総てで贖わなければならない。 明けて翌日。昨夜京師を焦がした怨嗟の炎が、そのまま天に届いたかのような烈日。 鎬京からは真西に位置する立海国は周王室との縁戚関係も深く、五覇と呼ばれる諸侯の中では嚆矢的な 存在であることを自負している。周王室と絡むように重ねてきた歴史。その忠節度も並々ならぬものがあった。 その首都と立海公の居城も年数を同じくして栄え、民政も安定を見せ、立海国の民は鎬京の民よりも 裕福であると言われもした。人柄も温厚な立海公の人徳の賜物だ。 その公宮の朱塗りの支柱が林立する回廊を、早い足取りで朝議の間へと進む武官の姿があった。武官の最高位、 若くして太師職に就いた男だった。 険しく眉を引き絞り、一点を見つめて歩く姿に声をかける者はいない。だが、 「真田、聞いたか。鎬京のこと」 親友とも呼べる男が追いかけて、背後から声をかけた。立海国の世代交代が潤滑に進んだ結果、こちらも 若くして太宰に納まっている男だ。 「柳か。明け方に叩き起こされた。それが第一報だからまだ状況は把握できていない」 「みな、そんなものだ。第二報が到着したそうだ。朝議の席で報告するようにと公が仰せになられた」 それにしても厄介だな、と柳は渋面を送る。送られた真田は何の感慨も沸かないといった風情だ。 「王は弑し奉られ皇后は間違いなく氷帝公の手の内。ただ、太子のみが行方知れずだ。安否が気遣われるが――」 「崩落した京師には残党狩りや奴隷商人が徘徊し出している。その中で生き延びておられるとは思えんが」 「そうなると、先の廃嫡された太子、宣臼さまを擁している氷帝公の思うつぼだぞ」 それでいいのか、と柳の瞳が問うてきた。いいも何も、数多の諸侯を統べるには幽王は凡百過ぎた。 特に皇后に入れあげてからの王は統治者とは呼べない。だれかが導火線に火をつける。それに率先する 立海国ではあり得ないが、回避する手立てなどは何も講じてこなかった。 起こるべくして起こった内紛。 後はどの方向へ玉座を転がせるかが当面の重要課題だが、真田はその方向性を見失っていた。 「公に謁見する前に言っておきたいことがあるんだ」 シンと静まり返った回廊で、反響する声を恐れて柳が真田の真横へついた。 「此度の内紛が起こる前から、公は極秘で氷帝公の使者と会われている。一切の官吏を挟まずにだ」 「なんだと」 「わたしは聞かされていない。やはりおまえも蚊帳の外だったのだな」 「氷帝公の軍隊は我が領土を通って鎬京へ入ったというのか?」 「それはあり得ない。断言できる。公もそこまで加担したくはないだろう。恐らくその後の処理の問題だと 思われる」 「つまり次の王にどなたを据えるかという問題だな」 「あぁ、資格の問題では我が立海国公子赤也さまの母上は、幽王陛下の妹君。十二分に備えている。公はその 線で押されたのではないだろうか」 「それを言うなら東の青学の公子も条件は同じ。従兄弟だのまた従兄弟だのが一つの玉座を巡って 骨肉の争いか。たまらんな」 重い嘆息をついて、真田はふと思い当たった。 「柳、太子手塚は行方不明だと言ったな。正式な王位継承者が生きておられた場合、どうなるのだ」 「畏れおおいことだが、だれも後見人にはなるまいよ。いかに太子といえど、その身一つでは如何ともし難い」 いっそお亡くなりになっている方が幸せなのではないかと、柳は呟いた。 文武官が揃ったのを見計らって、立海国公が朝議の席に姿を現す。真田がいつも辟易する過剰な口上が 済んだあと漸く本題に入った。 鎬京から帰った者の報告によると、氷帝公は幽王の亡骸を手厚く葬り、自国で保護していた先の太子 廃墟となった鎬京では王家の至宝、 報告を聞き終えた立海公の顔色が明らかに変化した。側近くに控えている真田には全身の震えすら 見て取れた。 「話が違うではないか!」 官吏たちがざわめいた。新たな下地をと、控えていた伝令も固まっている。察した柳が立海公に近づき収めようとして いた。官吏たちに不信感が波及しないように、真田は彼らに向って睥睨した。 「僭越ながら申し上げる。公におかれては、王家の訃報に痛哭の極みであらせられる。これ以上の朝議は公のお体に差し障りがある。 今後の沙汰は早急に取り計らう。諸官にあってはこのままの体勢でお待ち頂くようお願い申し上げる。 よって、本日の朝議はこれにて散会と致す」 何やら腑に落ちない様子は察せられるが、その後の太師の無言の恫喝にだれもがすごすごと退席していった。 三人きりになった朝議の間。厳しい視線のまま真田は立海公と向き合った。公は柳に肩を支えられたまま 両手で顔を覆っている。 「氷帝公と何やら密談が整われていたとお聞きしました。一体何を吹き込まれたのです。何の約定を鵜呑みに されたのです」 詰問するような言葉尻に柳の眉根が寄った。 「太師、言葉が過ぎます」 「いや、よいのだ、太宰。太師の申すとおりだ。氷帝公の使者は王の在りようを切々と語った。 国権を軽んじられた振る舞いの数々。いまの幽王では 人心は安んじまいと。人民のために王を弑する大罪は統べて受ける。目こぼしして頂きたいと。けして簒奪では ないとの熱弁だったのだ」 「そして次の王位は赤也さまの頭上にとの口約束をお信じになられた」 「そう、そのとおりだ」 やはり――と真田と柳は顔を見合わせた。 王の弑逆に自らが手を汚した訳ではない。ただ盾となりこそすれ、瀕死の王家に引導を渡すために 五覇という役目を担ってきたのでもない。 だが、みすみす目の前で簒奪を許してしまった。 ぶら下げられた誘惑と忠義とを秤に掛けてしまったことに、今更ながら払いようのない悔恨に飲み込まれている のだろう。らしくないことだと、真田は目を細めた。 「お顔をお上げください。簒奪は許せませんが、氷帝公の弁には一理も二理もあると拙官は考えます。 王のなさりようは目に余るものがございました。氷帝公が断罪されなくとも、いずれ蜂起の芽は芽吹いた と思われます。が、それと次期王を宣臼さまに推挙する話は違います。それを黙認することは簒奪に 加担したことと同義と言えましょう」 では、と立海公の瞳が膨らんだ。寵臣から発せられる次の言葉に一縷の希望を馳せている。その甘さを 真田は一刀の元に斬り捨てた。 「わが国は覇者の道を歩むと仰せになられますか」 「何を――」 冷や水を浴びせられたような表情で主は固まっている。 「唯一にして正式な王位継承者であられる太子の存在を無視して、その議論は成り立ちません。 まずは太子の生死の確認を。そしてご存命であられるのなら、太子手塚を擁護することが、わが国の道では ございませんか」 立海公と太宰が凝視する中、太師は見失っていた思惟の行く先を纏めようとゆっくりと歩き出した。 「わたしを鎬京へお遣わせください。この目で確かめて現状を把握しとうございます。 太子の消息と、洛陽遷都の牽制をせねばなりません。これ以上氷帝公の手の内で踊らされるのだけは避けたい」 恥じたように一度顔を伏せ、立海公が決意したかの表情を浮かべたそのとき、 「鎬京へ行くんなら、俺も連れて行ってください、我が師よ」 開け放たれていた議場の入り口に背に曙光を浴びた青年が立っていた。 「跡部! 待たんかい! おまえ命令違反もええ加減にせえよ!」 不穏な空気が充満する廃墟の中を、煌びやかな軍袍を身に纏った氷帝国公子が、後を追う太師忍足 の言葉を振り切るように練り歩いている。 この地における氷帝国人の立場は明らかなる侵略者。恨みに思う者も少なくはないし、その 筆頭たる公子を害しようと企む者がいても可笑しくない。それでも跡部は探さずにはいられなかった。 理由はない。ただの興味からだと自ら戒める。だが、興味本位にしては度が過ぎている。 それも十分熟知していた。 「公の命令や。即刻国許へ立ち返って、先の太子宣臼さまを守護し、こちらにお連れするようにとのきついお達しや。 言うとくけどな、痛いくらい冷たくお怒りやで。それを聞くこっちの身にもなれや」 唯我独尊の公子は、太師の愚痴など耳に痛くも痒くもないらしい。そんな気性は周知しているが、ぼやかずには いられない。 「樺地! おまえも後ろにくっ付いとるだけが能やないで! 跡部が大切ならな、ちょっとは気ぃ利かせて、 どついてでも連れ帰る気概を見せんかい!」 巨漢の主騎はそれでも黙して語らない。氷帝公の命よりも跡部の意思を重視してしまう律儀さに、忍足の 頭痛は治まらない。 「ぎゃー、ぎゃー、うるせぇんだよ。そんなにあの親父が怖えぇなら、不肖の公子の変わりにおまえが 命令を実行すりゃいいだろうが。さぞかし覚えも目出度きことだろうよ。 俺の主命黙殺なんざ今更なんだ。おまえには公子の俺を蔑ろにしたって、主命を遂行する権利だってあんだよ」 「気取って、何エラソウにほざいとんねん」 いっそ頑是無い子供のように、気の赴くままに振舞う反抗も、度重なると公のご不興を買う。 そこには親子の温情など挟む余地のない方だと、それを知らないわけでもあるまいにと忍足は思った。 「ええ加減に諦め」 ポツンと漏らされた言葉に跡部は敏感に反応した。返される言葉などなく、射るような視線を返してくる。 何故の激情か、それを正確に理解しているのだろうか、と忍足は詮無い懸念を振り払った。 「もう無理やって」 重ねた言葉に跡部は、目にも止まらない速さで忍足の襟首を掴み上げる。低い、それでいて激情を飲み込んだ 昏い瞳に、忍足の方が怯みそうになる。 「それ以上何か言ってみろ。おまえのそのよく回る舌ごと引っこ抜いてやるぞ」 「おまえは氷帝国の公子や。与えられた立場以上に、こなさなあかん義務もある。公の命令が どうとかの問題と違う。おまえの使命はなんや。公は荒れた京師の民に希望を与えようとしてる。その ために宣臼さまの存在が必要なんや。それが分からんおまえでもないやろ。何に気ぃ取られてるんや。 ボケるんもええ加減にせえ!」 真っ直ぐに繰り出された跡部の右の拳。痛みに先駆けてパシンという音を聞いた。 忍足の顔面にめり込む寸前で樺地がそれを片手で受け止めていた。 「てめぇ、樺地! 邪魔すんじゃねぇ!」 捻るように押し出したその拳を樺地は事もなげに下げさせた。跡部の悔しそうな顔がすぐ間近にある。 樺地はそれを認めて無言で背後を指差した。跡部につられて、忍足も振り返る。 そこには見覚えのある部下が跪いていた。 悲喜を飲み込んだ度し難い跡部の表情が次の瞬間、束の間綻んだ。 「見つけましてございます」 |
うひょ〜なことに、真田がいっぱい。こんな漢語的な言葉遣いが
しっくりきますね、彼の場合。 わたし、いまになって跡部を書く楽しさに開眼しました。(激遅!) 哀しき略奪者がこれほど似合うキャラもないと思うんスよ〜。 次は3−6コンビが頑張ります。 |