風蕭々と 〜落城





 砂塵混じりの風が悲鳴のような哀切を含んで奇妙に啼く。
 幾つもの丘を越えた先に見えるのは京師、鎬京(こうけい) を焼き尽くす紅蓮の炎。怨嗟の声を上げ、大気を 巻き、捩れるうねりは、天に聞き届けられることはなかった。



 西周王朝十二代天子、幽王十一年の治世の終焉だった。
 悪い王ではなかったなと、縦横家(しょうおうか) (策士)の乾は天をも焼き尽くす炎の行く先を見つめている。
 そう、相変わらず北西の戎狄(じゅうてき) (蛮族)との小競り合いはあったものの、王自身大した失策は犯していない。 ただ一つの執心を除いて。
 身の内と外をも恋情で焦がし、文字通り国を傾ける執心だった。
 幽王の寵愛を一身に受けた皇后の名を褒ジ(ほうじ)と呼ぶ。 その美貌を一目見ようと、渭水の飛ぶ鳥が群がった という逸話もあるほどだ。
 その執着ぶりはまだ幼かった褒ジの懐妊と共に発せられ、恋情で後先の曇った王太子――のちの幽王は王太子妃 を貶斥し嫡男を廃嫡して国外に追放してしまう。
 褒ジの美貌をそのまま受け継いだ子は生まれながらにして太子と称され、両親の寵愛と周囲の羨望に包まれて 健やかに育った。国外追放――国許へと返された先の王太子妃と、妹と甥の不幸を悲しんだ氷帝公の恨みは深く、 その怨嗟が戎狄各国と連呼してこの災いを呼び込むことになる。
 原因はいくつも思いついた。
 幽王は褒ジとのことしか頭にない。皇后を微笑ませ、喜ばせるためには軍隊すら玩具にしてしまう。お遊びで 緊急の召集を何度もかけられ、緊張感の失せてしまった近隣諸侯は、此度の戎狄と氷帝公の連合軍の 強襲にも何の反応も示さなかった。京師、鎬京は寸刻の間に業火に包まれた。
 当然の報いと言ってしまえばそれまでだが、 幽王を狂わせた絶世の美女褒ジは掛け値なしの傾国だ。一目麗しの顔を拝みたかったものだと乾は 踵を返した。



 鎬京を焼き尽くす炎が収まる気配はない。



「太子! 太子は何処におわせられますか!」
 罵声と悲鳴、血臭と煙霧に包まれた城内。崩れ落ちる後宮内にも敵の侵入は始まり、火が掛けられた、城が崩れる、と 口々に叫びながら隋人たちは逃げ惑う。その中を太子の側使えの少年が、主の姿を探して奔走していた。少年の 父親自身も天子直属禁軍将軍。親子二代に渡っての誉れに胸を躍らせていた矢先の落城だった。
「手塚さま! お声をお聞かせください!」
 天蓋が崩れ出した。逃げるばかりの大人たちは頼りにならない。一刻も早く太子を――と少年は広い後宮内に 響けとばかりに大声で主の名を呼ぶ。
「……かい――」
 弱々しいが微かに聞こえた耳馴染んだ声。弾かれたように少年はその方向へと走り出した。
「手塚さま!」
 傾いた支柱の一部が太子に覆いかぶさりその進路を閉ざしている。少年は手近な材木を僅かな隙間に差し込んで、 空間をつくってやった。太子は身を捩ってそこから抜け出す。
「すまない、海堂」
「お怪我は?」
「大丈夫だ。父上や母上はいかがされたのだろう?」
「ご懸念には及びません。きっと父がお守りしている筈です」
「そうだな。海堂将軍は鎬京一の手練。父上もさぞご安心であろう」
 この状況で楽観は出来ない。太子のはにかんだ笑顔に対してまともに顔を合わせられなかった。 海堂は傅いたままで逃げるように促した。
「時間がありません。後宮の抜け通路から城外へ出られます。早く参りましょう」
 主従は王位継承者にしか知らさせていない通路へと急ぐ。悲鳴と金属音は次第に遠ざかる。だが、逡巡して いる暇はなかった。
「海堂、禁軍はいったい何をしてる。どうしてこれほど短時間でここまでの進入を許してしまったんだ?  五覇の諸侯はなぜ助けに来ない?」
「それは――」
 王の奇妙な享楽と皇后のせいだとは口が裂けても言えない。
 十五になったばかりの少年太子はあまりに 世情に疎かった。近隣諸国との関係も、戎狄との軋轢も、そして国内の内情さえも知らされてはいまい。王夫妻が 王太子を溺愛するあまりに遠ざけてきた実情に、これから嫌でも向き合わねばならない。
 後宮を一歩出ると先の見えない闇が広がる。
 王夫妻は行方知れず。どこへ行けばいいのか見当もつかない。
 鎬京の近隣には五覇と呼ばれる公家が王室を守る形で配置されてきた。彼らの最重要任務は戎狄から の盾となること。今回北西から南下した戎狄の軍隊を素通りさせた公家が、少なくとも一つある。 一つどころではないかも知れない。
 裏切り者がいる。
 だが、それを示唆してくれる大人はもういない。
 その重圧から震えがきた。だが、いまはこの危機を脱しなければならない。海堂は太子の手を取った。
「いまはここを逃げることだけを考えましょう」
「どこへ? 父上と母上にはどこへ行けば会える? だれを頼ればいい? だれが助けてくれるんだ!」
 パシン――と気がつけば太子の横っ面を張っていた。皇后瓜二つの切れ長の瞳が驚愕に膨らむ。
「不敬をお許し下さい。処分はここを脱したのちいくらでも受けます。こんなところで議論している 猶予はどこにもないのです! お立場のご理解を」
 わかった、と赤くなった頬から手を離したそのとき――目の前の扉が蹴破られた。



 二人して悲鳴を辛うじて飲み込む。頭上から落ちる塵芥と相まって、もうもうと煙ぶる間に じりじりと後退した。相手の姿はまだ見えない。今のうちにと走り出す主従の間を裂いて槍が飛来した。 太子と海堂の脇を掠めて地面に突き刺さる。
「待ちな」
 海堂はその槍を抜いて太子を庇うように前に立つ。この隙に逃げるように示唆するが、次第に認められる 敵の数は三。足止めできないかも知れない。崩れるような絶望の中、それでも海堂は太子を守って 後退してゆく。
 視界が開けた。
 一番前に位置している男がへらりと哂って二人に弄るような視線を送る。
「まだこんなところに人がいたのか。可哀相になぁ。子供だろうが何だろうが、一人残さず殺せというのが 公の命令でね。悪く思うなよ」
「一人……残さず――」
「あぁ。例外は認めず、だ」
「王と皇后はいかがした!」
 それ以上喋るなと海堂の手が太子を押し留める。太子は思いのほか強い力でそれを払った。
「王は近習の者と捕らえられ、氷帝公自らが刀を振るわれた。まぁ。ジタバタしねぇ見事な最期だったと 言っておこう。皇后は――」
「母上に何をした――!」
 ほう、とその男は口の端を上げた。それまで無言だった後方の二人も反応を見せて距離を縮める。 海堂の緊張が一気に迸った。
「おまえが太子手塚か」



 太子は腰に佩いていた剣を振りぬく。それを認めて男はカラカラと笑った。完全武装で固めたこの男、 存外若いと海堂は目を細める。自分たちと対して変わらないのではないか。
「よせよせ、お飾りの剣で俺に勝てると思ってんのか?」
「母上はどこだ!」
「聞かねぇほうがいいんじゃねぇの」
「貴様!」
「太子!」
 太子の剣は大上段からその男に向って振り下ろされた。切っ先は掠めることさえなく地に激突する。 その衝撃から剣は手から離れてしまった。太子を守るため、海堂が男に斬りかかる。早く逃げろと叫んでも 太子には届かない。取り落とした剣を手にして、いま一度男と対峙した。男の連れらしき二人は 気がなさそうに佇んでいる。
「跡部、遊んでんとちゃっちゃと始末せんかい。子供弄んのもええかげんにし」
 きつい西方訛りの男が揶揄ったように声を掛ける。それには口の端を上げただけで応えている。
「跡部、おまえが氷帝国公子の跡部か」
 海堂の問いかけにも反応せず跡部は太子手塚から目を離さない。
 王を惑わせた傾国の美には先ほど目どおりが叶った。美醜に煩い氷帝公が妹の恨みを忘れて喉を鳴らし、 我がものにと執着を見せたのも頷けた。その皇后の壮絶な美貌から、媚を取り払った怜悧さが具現された姿が ここにある。
 跡部は思わず口笛を吹いていた。
「忍足、ちょっと来い」
「はよせな、城が崩れんで」
「生け捕りにしたい」
 忍足と呼ばれた男は大仰に髪の毛を掻きむしった。
「おまえら親子は! ほんまにエエ加減にせえよ。ちょっと綺麗なもんを見るとすぐこれや。 公と公子は揃って命令違反かい。部下に示しがつきませんわな」
 一番後方に控えていた巨漢が忍足ににじる様に近づいてきた。
「忍足卿。それ以上は苦言は公子への侮辱と見なします」
「こんなどアホ、侮辱の意味が分かっとるかい! 頭ん中すでに色ボケやぞ」
「殺すのは忍びない」
「草を斬るに根を残せば、春には再び芽をふく――や。禍根はここで断たなあかん」
「欲しいものは、欲しい」
 何を――と海堂が色めき立つ。
 逃げ切れなければ、この場においての生は恥辱を意味する。生き恥を 晒させるよりはいっそのことと、海堂の目に涙が溢れた。その涙の訳を理解できない彼らではない。
「忠義に厚いのは結構だがな。太子を傷つけることは俺が許さねぇ」
 逡巡する暇はない。お許しを――と海堂が太子に向かって飛び出した。それを留めようと跡部が駆ける。 その手を忍足が留めた。
「危ない!」
 轟音と共に居室の天蓋が抜け落ちた。



「跡部!」
「太子!」
 崩れ落ちる後宮。降り注ぐ天蓋の欠片たち。足が止まってしまった海堂の腕を引っ張り、ギリギリの頃合 で救ってくれたのは、畏れおおくも太子だった。海堂がつき立てていた刃が太子の腕を裂く。眼前で 迸る鮮血。
「太子!」
 海堂の体を受け取る形で二人は後方へと縺れて倒れこんだ。海堂は何とか体を反転して、太子を 下敷きにすることだけは免れたが、己の刃で太子を傷つけた事実に震えが止まらない。地に頭を擦りつけんばかりに 平伏した。
「申し訳、ございません……玉体を――この、罪は」
「大丈夫だ。早く立て。そんなことをしている暇がないと言ったのは海堂だろう。いましかない。 崩れる王宮の人柱になる気か!」
 二人と氷帝国公子たちの間を埋め尽くす塵芥。総てが煙ぶる。今をおいての好機はなかった。 瓦礫の向こうで襲撃者たちが何かを叫んでいる。
 布を裂いて止血だけを施し、二人は後ろを振り返ることなく駆け出した。



「忍足!」
「アホ! こんな中をどうするっちゅうねん。頭冷やさんかい!」
 巨漢の男が公子を羽交い絞めにして取り押さえている。公子が暴走すると止められるのはこの樺地しか いない。忠義なだけでなく使える男だった。
「樺地! さっさと跡部連れて行き。いつまでもこんなとこにおったら、巻き添え食ってしまう」
「離せ! 樺地! 手塚が!」
 ドーンという爆音と共に一際大きな塊が落ちてきた。忍足も袖で顔を覆って後ずさりをする。
 西周王朝の歴史を二百八十年見守り続けた王宮が崩壊する。
 文王と武王が興し、太公望と周公旦が礎を築いた王朝が一夜にして塵芥と化す。
 政務に携わる者として敬愛して止まない周公旦が、黄泉の下で恨み言の一つでも零しているかも知れない。 忍足は片膝をついて瞑目したあと、 二人の後を追った。





もう、自己満足以外の何物でもございません。
『春秋戦国志』片手に 取り組んでおりますが、時代考証には全然自信ないので、軽く読み飛ばして頂けたら、言うことないっす。
手塚が弱っちくてゴメンなさい。こんなの手塚ぢゃないです。でも成長するお話ということでお許しを (土下座)
せっかくのオールキャストだから、みんな均等に書ければいいのですが。