第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る。 特大の嵐が過ぎ去った後の静まり返った部屋にぽつねんと残され、俺は床にしゃがみ込んだままで ヒタヒタと迫り来るうねりを全身で感じ取っていた。 遥か遠くで剣戟の音。自信満々だったアトベは居城に魔王の侵入を許してしまったようだ。なんだ 案外詰めが甘いと、俺はのそりと立ち上がった。 「っう……」 俺がアトベに拉致られたときには、ピクリとも反応を示さなかったくせに、何の警鐘なのかザワザワと 痛みすら伴って肌がさんざめく。出口を求めてまたうごめく。サナダが斬られたあのときと同じだ。 嘔吐感に似た血流が体内を駆け巡り、いまにも俺の身の内を切り裂いて飛び出してきそうな勢いだった。 正直、気持悪い。 だが、なるほどなと俺は得心がいく。 お前、サナダの危機のときにだけ反応するんだ。 アトベ軍の真っ只中にヤツが突っ込んできて、心配だから早く動けと、助けに行けと命令している つもりか。いや、助けるのは俺じゃない。お前自身だ。俺はお前をサナダの傍まで運んでやらなければならない という訳か。 出前持ちか宅配便業者かの扱いだな、まったく。 俺は――多分リリスの強固な意志のなせる業だろうが、居室をぐるりと見渡し、暖炉の上の壁に かけてあった一振りの剣を手に取った。 「ちょっと、待て」 これは俺自身の正直な声。ややこしいな。困惑しきりだ。 こんなものを手にして戦えと言っている。自慢じゃないが剣を振るったことなどないぞ、俺は。 それでもその業物をブンと大上段から振り切った俺がいた。 形になっているのだろうか? 真剣はラケットよりも随分重い。多分綺麗に振るうコツがあるんだろう。 力だけが必要なものでもない筈。そのうち慣れるだろう。 もうどうにでもしろだ。足掻いたところでお前には逆らえない。そうするからにはキチンとサポートしろよと と、俺はアトベの居室を抜け出した。 瀟洒で華麗なアトベの居城といっても地獄の最下層とやらで廊下はやはり薄暗い。おまけに入り組んだ 辻々からどちらの軍勢の魔物なのか、異形の者たちが奇声を上げて襲い掛かってくる。それには先を制した 素早い動きの一撃で床に沈めた。 「きー!!!」 続いて頭上から振ってきた別の魔物も一歩後ろに飛びのき、軸足で反動をつけて突きを繰り出した。 返り血を避けるためにすぐさま右に逃げる。そのまま床を蹴って進行方向にいた一群を斬り捨てた。 ラブゲームだ。息すら乱していない。俺は青学の手塚だ。当然だろう。 でもスゴイ。運動能力はともかく、この情け容赦のなさは俺だけど俺じゃないぞ。 何の因果か地獄に落とされて、身の内に堕天した天使を宿し、いいように扱われて、おまけに魔物殺しだ。 心神喪失状態でもないから、責任問題は俺に派生するんだろう。 裁判にかけられるかどうかは置いておいて、俺のなけなしの良心はシクシクと痛む。 魔物といえども肉を裂いた感触には歯が噛みあわない。それでも俺は前を見据えて先を進んだ。 勝手の分からない居城で、四辻に行き当たって方向を見失う。どの方向からもそれらしい気配と物音 は高く響いていた。 少し躊躇して目を凝らせば、微かな光のようなものが俺を捉えた。その途端に俺の足はそちらへと 向う。何の確信もないが間違いないだろう。彼女はサナダを捜し求める。そして吸い寄せられる。 迷うことなく。 けれどアイツ、ホントウに迎えに来たんだな、と更に数を増した魔物たちを切り捨てながら俺は思った。 しつこいのは生まれ持ってか、魔界仕込みか。とにかく、大切にされていてよかったなと、血飛沫が舞う中 つい口にする。 思い切り棒読みだがな。 そこに俺の意思の付け入る隙はない。アイツとリリスの問題だからだ。 リリスの核を宿す者。俺の取る行動のどこまでが、俺自身の意思を反映しているのかさえも覚束ない。 気づかない内に乗っ取られている可能性だってある訳だ。 気分のいい話じゃない。 こんな宙に浮いた状態を接触者に強いて、器をとっかえひっかえしてきたのだとしたら、リリスも相当 業が深い。 そりゃ、体が消滅しても思念は残るだろう。心残りもあるだろう。そんな芸当が出来るのは 流石高位生命体だと褒めてやる。けれど――生きているうちに思いをぶつけないで、他人の身体を借りて 何が出来る。何が成せる。どう伝わる。 何度転生を続けてもお前が納得できる答えは用意されていないのだろう? いつだって不完全で。 創世神に背き天界を出奔したところで、お前のしていることは神頼みだ。思念だけでは何も手に入らない のではないのか? 俺では手を貸してやることは出来ない。誰にだって出来ない。お前じゃないんだから。 サナダはお前に拘り、お前は神の呪縛から解き放たれてはいない。 哀しいくらいに。 俺は――そんなお前に囚われている訳にはいかないんだ。いまを生きている俺たちを、お前の都合で振り回 すのは、もうこれきりにしろ。 今回が最後だと思え。 どう足掻いたってここではお前の意のままだ。好きにしていいからさっさと吐き出せ、と彼女に語りかけた。 当然、返事はないが。 感覚が麻痺し出したな。彼女に俺を明け渡してしまったのか、屍を後方に築きながら、どこか非人道的な 高揚感が俺を包む。俺の目には襲い掛かる魔物たちはただの障害物でしかなかった。 薙いで払って突き進んで、漸く広間のような場所にたどり着いた。 アトベととその取り巻きたち。そしてお前が守るべきサナダと、少し後方にアカヤとヤナギの姿も見える。 無数の魔物たちも入り乱れ、ほとんど団子状態での戦闘真っ最中だった。 なるほど、体力バカの魔王は御自ら戦陣を切っておいでだった。襲い掛かる魔物たちを、二割五分ほど 眉間の皺を増して、ただの肉塊に変えてゆく。スピードもタイミングもパワーも、戦い慣れた者のそれだった。 負傷したのか返り血なのか全身を真紅に染めて。 それすら妙に似合って。 見事なほどリリスの鼓動が跳ね上がった。くどいようだけど、俺じゃないと明記しておきたい。 「リリス! 出てくんな、このバカが!」 アトベが俺に気づいて吐き捨てた。それに反応して陰惨な現場が一時静まり返る。様々な色に彩られた 視線たちが俺に集中した。 「リリス! 無事だったんスね!」 「リリス!」 「ヤツらを近づけんな! リリスはオレのもんだ!」 俺の様相を認めてアカヤはニパと笑い、冷静沈着なヤナギもホッとしたように肩の力を抜いていた。 アトベは部下たちを鼓舞し叱責する。 リリスを。リリスを、と。 それらを視線の端で捉えながら、サナダだけは違う言葉を口にしていた。 俺は瞬時に見て取った。 ヤツの唇はただ一人テヅカと動いていた。 お前は最初に俺の名を聞いてきた。 ここではお前だけが俺をそう呼ぶ。 「待っていろ。いま迎えに行ってやる」 サナダは――俺をその手で斬ろうとした癖に、アトベ諸共葬ろうとした癖にエラソウに顎を上げて 当然のように告げてくる。激しい戦闘を偲ばせる凄まじい格好ながら、それがやたらと目に眩しい。 やはり総て返り血かと推測しながら、だが、コイツなら片腕を失っていようが、瀕死だろうが息ひとつ 乱さないできっぱりと言い放つのだろう。 ――待っていろ、と。 惚れた女の前だから大見得を切るにきまっている。格好つけが。 誓って言うが待っていた訳じゃない。けれど身の内から湧き上がってくるのは純然たる歓喜の声だ。 どれ程隔たれようと、リリスが待ち焦がれた言葉。 お前たちホントウに不器用なんだな。 「お前がそれを言うか」 「当然だ。時間は取らせん。少し下がっていろ」 呆れ気味でヤツの言葉を無視し、つと歩を進め、俺はアトベの真横に並んだ。 サナダは視線を絞る。アトベは口の端を上げる。周囲は皆固唾を飲んで見守っていた。 「そりゃ、そうだろう。魔王はバカだからな、己の失策になんか気づきもしないんだ。お前が見限るなんざ、 喩え心臓を一突きされても理解できないだろうよ。あんな手前勝手なヤロウなんか放っておけ。 お前は気に病む必要も、ましてや手を煩わすつもりもねえしよ。一気に魔王軍を蹴散らしてやるから、奥で待ってな」 と、サナダを牽制する。 まるで睦言だ。 コイツは分かり易い。 魔王を厭うからリリスを欲する。リリスが欲しいから魔王を滅する。欲望の赴くまま、心情を覆い隠す こともなく、その根底に根付いているものは、ただ一点に帰依する。 だからなんとなくコイツは憎めないんだ。 アトベはホレボレするような綺麗な笑みを浮かべ、魔王を見据えた。手前勝手という言い分には二人とも 同罪だと思うが、それでも手にしていた剣を放り投げて俺の肩に手なんぞを回してこなかったのは、 さすが一軍の将。 敵が目の前だからな。 けれど俺は済まないと小さく呟いてから、アトベに向って剣を振り下ろしていた。 ヒュンと空が鳴き、遅れて飛びのいたアトベから放たれた一条の血痕が奇妙な弧を描く。ヤツは 態勢を崩すことなくサーベルを突き立て、俺と対峙した。 血塗られた饗宴。喧騒に包まれていた広間に一瞬、静寂が落ちた。 「アトベ!」 「リリス!」 誰かが叫んだ。だが、誰が誰を呼ぶ声なのか分からなかったりする。俺にしてみれば、ほとんど無意識の 凶行。なのに、仕損じて舌打している俺がいる。 リリス。問答無用、斬り捨てご免だな、まったく。 アトベは多分どこか予感していたのだと思う。この至近距離からの一撃を薄皮一枚で逃げ切った。 俺の殺気を感じ取っていたんだろう。さすがに見切れる目を持っている。 「お前……」 大して悔しそうでもない様子でアトベは呟く。お前、やっぱりとその後に言葉は続けられたのだろうか。 この男――リリスに対する惜別は既についているんじゃないかと思えてくる。行動理念は権力欲か、 嫌がらせか、意趣返しか、気晴らしか。あるいはその総てか。 恐らくそんなところだ。 そして俺は、自身の口から出たとは思えないような低い声を絞り出していた。 「お前は分かっている筈だ」
次こそ
ラストです(苦笑)
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