旦那さまは魔王?



(9)わかった……





「お前は分かっている筈だ」



 酷く思わせぶりな科白を俺は吐いた。何もかも分かったような口を利くとは、サナダから伝播したようだ。 それに対してアトベは身じろぎひとつしない。
「人の下につくことを善しとしないお前が、天界の要職にあった地位を捨てて簡単に堕天して しまったサナダに少なからず嫉妬を覚えている。お前の行動理念は総てサナダに帰依するのだろう。 目を背けることも出来ないくらいにサナダに拘って、ヤツが持つ総てを欲した。だからお前がホントウに 欲しいものが見えてこないんだ、俺には」
 断言できると言い放って引導を渡す。そんなことアトベにだって分かりきっている筈だ。敢えて口にする もの心苦しい。
「で、三行半を叩きつけた挙句にオレさまを殺すのか?」
「殺さない。斬りたくない。彼女がどう行動しようがこれは俺の意思だ。だから引いてくれ」
「そんな甘いことを言っていると反撃を食らっちまうんだぜ」
 フワリと微笑み、アトベの剣先はゆるりと大きな弧を描いた。出来の悪いコマ送りの映像を見せられて いるみたいに現実味が薄く、逃げなければと思うのに俺の両足は地面に縫いとめられたまま微動だに出来ない。
「ガキ臭くて結構! バカでなきゃ魔族なんかやってられるか!」
「リリス!」
「危ない!」
 容赦なく迫る白銀の軌跡。
 これは夢だと、まだ叫んでいた。有り得る展開なのに恐怖すら感じない。
 ここで怪我をすると全国大会の予選に間に合わないとか、左腕は避けてくれとか、部のみんなは哀しむ だろうとか、本当に真っ当なテニスプレーヤーに戻れるんだろうかと、まだそんなことを考えていた。
 だから目の前を真っ黒な物体が過ぎったのに気づかなかったし、アトベの切っ先が俺ではなく当然のように そちらに狙いを変えたのも分からなかった。
 そのまま体当たりを食らわされて俺は真横に飛ばされ、一拍遅れて雷鳴するような剣戟の音が 周囲に響いた。



 背中を強か打ちつけて、僅かに目の端で捉えられたのは、サナダの脇から突き出ているサーベルの先端と、そ こにくっ付けんばかりに接近したアトベの苦痛に歪んだ顔。
 血臭がより高くなった。
 魔王だって突かれたら死ぬだろう。
 魔族は簡単に死ねないとアカヤが言っていた。でも絶対ではないだろう。
 出血が多いとふつうに死ぬのだろう。
 ぐうと肺腑からせり上がってきた苦味は胃液だけじゃない。
 俺は絶叫と共にそれを飲み込んだ。



「リリス!」
 駆け寄って俺を起こしてくれたのはアカヤ。ヤナギとその他の魔王軍と思しき魔物たちは、俺たちの 周りを取り囲んでいる。そしてサナダは――
 サナダとアトベは互いの身に剣を突き立てながら肩を激しく上下させていた。最初に剣を引いたのは サナダ。アトベの肩辺りに食い込んでいたそれが抜かれると、夥しい鮮血が迸った。
「ぐぁっ!」
「アトベ!」
「王!」
 アトベが仰け反った反動でサナダのわき腹に沈んでいたサーベルも、その身体から離れた。そんな状態でも 二人の異形の者たちは少し傾いだ身体を立て直し、真っ向から対峙している。
 リリス好みの血の饗宴でまた爆発するかと思えば、ただ冷静に彼等を見つめている俺がいる。つまり リリスも見守っているということだ。
「貴様、最初から俺が出るだろうと読んでいたな……」
 背中ばかり見せられてサナダの表情は伺えないが、平静を装った声音でヤツは問うた。
「ハン、当然だ。オレはお前とは違って……リリスを傷つけるような、非情な真似はしねえよ」
「出来ないの、間違いだろう」
「どっちだって同じだろうが……オレは彼女に心底惚れてんだからな」
「テヅカは……リリスではない」
「マテリアだけを宿してんだろ……だがよ、喩え器だろうが傷つけられて彼女が哀しまないとは、 思えねえし……アイツが言ったみてえに、隣の芝は青い状態だっただろうけど……リリスに対する想いだけは ホントウだと信じたい、じゃ、ねえか……」
「破滅神に対してその感傷はいかにも青臭いが、俺が言いたかったのは別の意味だ」
「なん、だと?」
「アトベ! もう喋んな! 傷が開く!」
 オシタリがアトベの背中を支えその身体ごと貰い受けた。巨漢がサナダを牽制しながら二人の後退を援護する。 それと同じような動きをヤナギも取っていた。
「王よ、お下がりください。いかにあなたといえどその状態で敵に向われるのは無謀です。ここは 退却させて頂く」
「手ぬるいことを言うな! この好機を逃してアトベ軍の殲滅は有り得ないぞ!」
「その好機に攻め入って、あなたを失っていたのでは本末転倒だ! アカヤ!」
「はいよ!」
 アカヤの口からエノクの言葉が紡がれると、半透明のサークルが俺たちの周囲を包んだ。脇を刺されたサナダは 何か呪いのような言葉をアカヤに投げつけるが、魔王は既に力を失っているのだろう。アカヤに抵抗出来ない ようだった。
「さて、お騒がせしましたと我等が頭を下げるのも可笑しな話ですが、お見受けする限りそちらも惨たんたるご様子。 これ以上の諍いは殲滅戦でしかありません」
「せやな」
 飄々と撤退宣言を告げるヤナギの言葉を受けているのはオシタリだった。アトベは物憂げに顔を上げている のがやっとといった様子だ。
「我が王やアトベどののご性格からして、このままなかったことにという訳には参らないでしょうが、いまは 兵を引かせて頂きます。決着は次の機会にと申し上げておきましょう。それまでどうぞ、 ご健勝であらせられますよう」
 ヤナギの人を食ったようなバカ丁寧な挨拶が終わると、俺たちを包んでいたサークルの圧力が強まった。 アトベと目が合う。そうだなと呟いた。お前の心情を俺などが分かろう筈もない。その想いは お前だけのものだ。
 そしてアトベの姿が滲んだ。
 かける言葉などなく俺たちは消え失せた。



 時空を越えた瞬間移動とは便利なシロモノだ。瞬く間もなく俺たちはサナダの居城の、しかも 居室に帰りついていた。
 緊張が緩んだのかサナダはドサリと膝から崩れ落ちる。ヤセ我慢ヤロウも失血が多いと当たり前に 顔面は真っ青だ。
 一度俺に向けて何かを口にしかけたが、それは発せられることはなかった。意識がどうとかの問題ではなさそう だ。わき腹を押さえながら大手を振って床についたという感じだった。
 いっそ見事なほどの耐性だ。
 ヤナギたちは押さえつけるようにサナダをベットに沈め、止血やら治癒やらの術を行っている。痛みが 薄れていったのか、術で昏倒させたのか、サナダは意識を失ったようだった。
 俺はただぼんやりとその様子を眺めていた。
 考えることを回避していたともいう。
 血だらけのこの男の、支離滅裂で横紙破りで手前勝手な行動をいまさら理解したいとは思わない。 思わないが、俺を――いや、リリスを庇ってのこの怪我は一体何の手抜かりだ? 不手際だ? 不条理だ?
「こんなこと――お前じゃないだろう」
 つい呟いた言葉をヤナギが聞きとめたようだ。サナダの病床を離れて近づいてきた。
「あなたの方はお怪我はないと見受けましたが、着替えでもされてさっぱりとなさっては如何ですか?  ご心配には及びません。王もじきに目を醒まされるでしょう」
「別に、心配なんか」
「あなたも相当頑固な方ですね」
 クスリと笑ってヤナギは俺の上着を指差した。諭されて初めて気づいたが、魔物たちをぶった斬ったときには 染みひとつ、返り血の一滴もなかった真っ白なシャツが、あちこち血に塗れていた。
 勿論怪我はない。
「お忘れですか? それとも無意識? 一瞬ですけどね、あなた、駆け寄られたから。あのとき。アカヤの 練成陣の中で。そのときについたのでしょう」
「俺が?」
 まったく覚えていない。重力が加圧するようなサークルの中、意識があったのはほんの僅かだ。その 間に俺が――サナダに?
「サナダは――俺を、消滅させ……」
 言葉が上手く紡げなく、俺はシャツの上に点在する血痕に目を落とした。サナダの冴えた容貌と突き出 された切っ先が蘇る。一度は俺の消滅を願い、二度目は身を呈して俺を守った。
 胸中を推し量れないのは、俺もお前も同じという訳か?
 そんな俺を認めてヤナギはニコリと笑みを零した。
「王があなたをも傷つけようとしたと仰りたいのでしょうが、あの場において本気でそう思ってらしたのなら、 アトベを逃がすような真似はなさらなかった筈。誰よりも高邁で鋭敏で無慈悲なあの方ならば、 あなたもろとも串刺しだったと推測されます。どこか怯む部分が、そして間違いなく躊躇と手心が あの方の剣先を鈍らせた。私はそう見ましたが」
 その言葉はコトリと俺の胸に落ちた。



 人智の及ばない落莫とした地形が広がる地獄の最下層。削り取られたような峻山は幾重にも姿を重ね、 薄い光を斜に受けていまにもうごめきそうな胎動を伝えていた。温く生まれた風は獣の嘶きと咆哮を教えてくる。
 ここの空気は敵愾心そのものだ。
 滅せよ。滅せよ。滅せよと。
 そんな物騒な感覚にも厭世的な気質にも薄闇にも慣れてきた。人の環境順応能力とは凄まじい。
 露台に佇み感傷気味の俺の背後に気配を感じた。振り返ると、立ち尽くしているのは手負いの魔王。 夜着から覗く包帯が少し痛々しいが、失せていた気概は既に回復済みと見受けられた。
「具合はもういいのか?」
「大事ない」
 そう言ってからサナダは俺との距離を近づけてきたが、この場合なんと返していいか俺は口籠もる。 サナダにしたところで謝辞など期待していないだろう。
 対人関係を円滑にするためのと豪語した配慮をすっ飛ばして、俺は真横に並び眼前の風景にだけ視線を送る 魔族の王に、早く帰りたいと核心だけを突きつけた。
 サナダはゆっくりと俺を捉える。
「リリスのマテリアはいつ俺と分離してくれるんだ? ナントカ師というのを招聘するんだろう?  一刻も早く願いたい」
 ヤツは顎に手を置いて少し考えあぐねる仕草をし、そして逆に問うてきた。
「気づいていないのか? リリスはいない」
「えっ、」
「お前いつ、リリスを喰らった?」
「なん、だと?」



「探索を始めたときには確かに存在していたのだろう。そうでなければお前にたどり着けない。 しかし出会ったときには俺はなにも感じなかった。途切れそうな気配、いや、記憶だけが残っていた。 嘗てリリスがお前の中に存在したという記憶だ。だがいまは それすら感じない。リリスはどこへ消えたのだ? いつお前から離れたんだ?」
「だっ、……」
 だって、だってと、老成した部分も超中学級と称された俺とは思えないほどの稚拙な言葉しか出なかった。 だって、あのうららかな日の雑踏で激しい怒りとうねりを感じ爆発したような力を使って、ここへ弾き飛ばされた。 あのときの力はリリスのものではなかったのか――
 ここに着いてからの様々な感情の揺れはリリスとリンクしてのことじゃなかったのか?
 リリスはいつ消えた? 俺が喰らっただと?
 そんなこと俺が聞きたい。
 そう言えばコイツ、最初から俺の中にリリスの片鱗すら見つからないと嘆いていたな、と魔王を伺った。
 俺は一体……
 そしてお前は一体……
 俺の混乱を他所にサナダは小さく微笑んだように見えた。少し跳ねた鼓動は俺だけのものだというのだろうか。
 魔界に確固たる光などない筈なのに、ゆるりと近づくサナダの顔が逆光を受けて判別できなかった。 その大きな両手が俺の頬をすくうように添えられ、間近でなにか呪言を呟かれ、ヤツの両手は――唐突に 俺の背をかき抱く。その力加減のなさに、骨格が軋みそうなほど悲鳴を上げていた。
 骨格だけでなく体中の総てが。
 あまりにも間近過ぎてサナダの表情は窺い知れない。
 ヤツと体温を分け合って俺の血が逆流する。耳奥がガンガンと脈打つ。咄嗟に言葉が出ない。怯えが勝って 反撃も出来ない。
 けれど暴れているのは身の内のリリスではない?
「俺は、リリスではない」
 漸くサナダの肩口にそう吐き出した。
「分かっている」
 分かっていてなぜという問いかけに答えは返らず、このとき、リリスが男の俺を選んだ訳を少しだけ理解できた 気がした。
 転生した先の女性体が彼女の核だけを残して、サナダと接するのが許せなかったんだ。
 こうして抱き寄せられることも、出会って惹かれるだろうと予測する ことも、語りかけられることも、腕を取られることも、そしてその瞳に映ることさえも。
 おまえ――
 サナダだけしか愛していなかったくせに、奔放なフリをして違う誰かを身代わりにして、なぜ自分さえも 傷つけていたんだ? それほど囚われている事実が怖かったのか? 魔族ともあろう者がだた一人だけ を愛することは罪なのか?
 サナダを害する総てのものから守りたいと、けれどそれだけでは収まらない激情を持て余し、お前自身が サナダを手に掛けてしまわない内に消滅してしまった。
 プリマ・マテリアだけを残して。
 それを俺が消滅させた?



「リリスはなぜ消えたんだ?」
「さあ、お前に自覚がないのなら、俺が知る由もない」
「自分自身の意思で? それとも俺が何かしたのか? お前は俺を憎くはないのか? 本来なら仇だろう」
 これは新手の拷問かと一気に吐き捨てると、サナダは不思議そうに笑った。
「喰らったと称したのは言葉のアヤだ。仮にも魔王の妻と烙印を押された魔族が、お前のような一般小市民 に飲み込まれることなど有り得ない。消えたとしたらリリスの意志だ」
「いまになって?」
「そう、まさにいまになってだな。足りぬことに飽くなき欲求の深かった女だ。どこかに満足したのかも しれん」
 彼女がどこに着地点を見出したのか分からないが。これで晴れて自由なのだとサナダの夜着を強く掴む。 魔族たちに追いかけられることもない。パワーゲームの駒にされなくて済む。
 青学の手塚に戻れる。
 長かったのか短かったのか、人に言っても信じてもらえないような冒険譚も終章だ。地に足をつけた 生活が待っている。
「さよならだな」
 そうだと呟くと、サナダは閉じ込めていた腕の力を緩めた。そのまま俺の背の位置で指を組み、 俺を閉じ込めたままサークルをつくる。ブワリと下から風に煽られたかの衝撃が走った。
「お前が元いた場所に繋がっている。天界魔界での数日は人間界では一瞬だというから、なんの変化もないだろう。 多分ここでの記憶は消えている。その方がお前にとって幸せな筈だ」
「分かった……ヤナギやアカヤに宜しく伝えてくれ」
「ああ」
 消える。ここでの記憶も想いも抗争も、リリスとして扱われた俺も、手塚と認識された俺も、総てと再認識した 刹那――
 サークルの圧力が強まる。緩やかな輪を描いていたサナダの腕が再び俺を抱きしめた。
 薄れゆく意識の下、何か紡ぎかけたサナダの唇は俺のそこに小さく触れてきた。
 何もかもが霞む。サナダの少し驚いた顔も俺の高鳴りも、そして差し出されかけた指先も。瞬時に 消え失せた。
 跡形もなく消え失せた。
 どこかが悲鳴を上げていた。



 うららかで雑多な人ごみの中、何かを取り落とした気がして俺は我に返った。
 ガットの張替えを頼んでケースに仕舞っていた筈のラケットが、むき出しのまま路上に転がっていた。
 なぜか打ち合ったような形跡が俺を落ち着かなくさせ、思いなおしてそれを取り上げた。
 明日からは都大会に向けての編成で練習が始まる。ぼんやりしている暇などなかった。
 テヅカ、と誰かが俺の名を呼んだ。振り返っても知る人の姿はない。少し躊躇して俺は歩き出す。
 なんだろう、この飢餓にも似た喪失感。
 失ったと感じるのは何かを得た証拠で、それすら分からず俺は家路についた。
 ぽとりと落とした影を気にしながら、手をかざして天を仰ぐ。
 なぜそんな仕草をしたのか、朧気にそう思った。






end







あはは(爆)結構楽しかったです、手塚視点の一人称。
無口な手塚をよくまあ、こんなにくっちゃべるキャラに仕立て上げたものだと我ながら感心したり。
ホントウは手塚に惚れた魔王が魔界から追いかけて来て、迷惑千万、波乱万丈、手塚の貞操危機(?)みたいな 話を書こうと思って、その触りのはずが、またまた長くなってしまいました。
地獄編ってとこでしょうか。
少し暖めて本編(現代編ともいう)が書ければなと思います。(←辞めないつもりか?)
長いお話にお付合い頂き、ありがとうございました。 ♪