長い長い悠久の歴史の中で幾度となくめぐり会い引き寄せられ、それでも憎しみと哀しみが総ての感情を凌駕していた。 俺とお前の間には常に氷の刃が横たわる。 奈落のような亀裂が歩み寄りを止める。 正面向いて出会っても突き立てられた剣が二人を別つ。 仕組まれたプログラムのように何度も何度も。 サナダの。 お前の刃を身体に受けたのは多分初めてじゃない。 明確なビジョンを伴ってはっきりと断言できる。 お前に一番近づくときがリリスの器が消滅するときなのだろうか。 少しずつリリスの記憶が俺の中に流れ込む。覚えていて欲しいと、身の内でのたうつ。 きっと何か伝えられなかったことが、果たせなかったことがあったんだ。その都度置き去りにした ものが彼女を苛む。 だから消えない。 こんなにも深く打ち込まれた楔を残して。 これはどちらが先に裏切った罪なのだろう。 俺の中のリリスか。それに相当した魔王か。 分かっていながら、彼女は転生を続けるのだろうか。 サナダの剣先を眼前で捕らえながら、俺はそんなことを考えていた。 出て来いよと。 お前の考えていることは俺には分からないから、心残りがあるのなら、身体を貸してやるから出て来いよと 俺は小さく呟いた。 力をなくした俺をアトベは小さく哂い、背後から絡めていて腕を一旦外し、俺の体の向きを変えた。 そう、すっかり抱きしめられている形だ。 不本意ながらも落ちないようにと俺から抱きつかなかったのは、微かに残っていた矜持がなせる業だ。 それでもされるがままなのだから、アイツの暴挙に自暴自棄になったと捉えられても仕方ないか。 大人しく腕の中に納まった俺をどう思ったのか、アトベの機嫌は最高潮だ。高笑いさえ聞こえてきそ うだった。 「問答無用か。相変わらずおっかないヤロウだぜ」 「貴様と話し合って相互理解が得られるのか? 無駄な徒労だろうが」 「その僅かな徒労を厭ってるから足元がすくわれるんだ。見ろよ。リリスはお前なんか見放しただとよ」 アトベは更に深く俺を抱き寄せ、ほとんど頬同士をくっ付けんばかりの仕草で挑発する。それを受けても サナダはアトベを見ようとしなかった。俺だけを睨み、 「なぜだ?」 と、聞いてきた。 本気か? なぜだときた。自分が他人を害するのは一向に構わないが、人に裏切られるのは我慢ならないと いったところか。まったく三国時代の梟雄の如くだな。 もとい。如くじゃない。魔王だったんだ。 「ありがたくリリスは頂戴してくぜ。魔界のパワーゲームはこれでジ・エンドだ。リリスのマテリアに数多くの 魔が引き寄せられ、また生まれる。これでお前に劣るものは何もなくなったって訳だ」 ところが、軽くあしらわれたというより無視された筈のアトベも、我関せずといった感じで己が世界に 浸りきっている。雰囲気読めないんじゃないか、コイツ。流石魔族の面目躍如だな。ここは自己チユーの巣窟だ。 サナダの堕天に冠された大罪が傲慢なら、アトベはさしずめ貪欲か? 嫉妬という可能性もありそうだ。 そう言えばこいつら、嘗ては天界で仲良く机を並べて天使さまをやっていた訳だろう。机を並べていたか どうかは置いておいて、こいつらの事情とやらもいつか聞いてみたい気がする。 俺のひとときの憩いに似た想像を他所に、高位階級を捨て去った男たちはまだ罵りあいを続けていた。 「お目出度いくらいに能天気なヤツだ。お前は一つ忘れている。絶対的且つ肝心の首魁の力量の差は如何とも し難い。どれ程お前が下っ端をかき集めようが、所詮三下。駒の数が上回ったからといって、この俺に 挑めるなどと夢物語だな。お前は何年地獄の空気を吸って生きてきたんだ」 「過信は身を滅ぼすぜ。嘗ての王よ。リリスが俺に、お前以上の力を与えてくれる」 ニヤリと――恐ろしいくらいに権高くサナダは笑みを浮かべる。俺の背がゾクリと粟だった。 「認識違いも甚だしい。リリスがお前のために力など貸す筈がない」 「それは願望か。この期に及んでリリスに切願か? 頼むから帰ってきてくれと彼女の前にひれ伏すか? 笑わせるな。お前だけのものだった時代は終わったんだよ!」 激しく肩を震わせて哄笑を続けるアトベに、サナダは落ち着き払ったままだ。俺にしても この男の悠然さの根拠が分からない。 ただ信じているのではないと思った。こいつは誰も信じない。己の力のみで生きている。 そういうヤツだ。 だから知っているのだと。 リリスは――と、サナダの低音が俺の耳に届く。痺れるような媚薬を伴った響きだった。俺の鼓動が 跳ね上がる。疼くような痛みはリリスがサナダに呼応しているからか。 俺には分からなかった。 そしてサナダは続けた。 「リリスは誰にも力を与えない。誰のものでもない。ただ一人のものであった試しはない。ましてや、 俺のものでも」 「ハン! 分かったような口利いて余裕ぶっこいてるようだけどよ、オレさまがコイツを得る意義より、 お前からリリスを奪い、お前が失う意義の方が遥かに重要なんだぜ。お前の都合で害したり失ったり出来ても、他人の手に 委ねることなんか出来ない。そうだろうが」 「お前はなにも分かっていない。いや、分かろうとはしない」 「どうだか。得てして己の感情には瞳が曇るって言うしよ。どのみち、リリス恋しさのあまり堕天した お前だ。総ては彼女に帰結するんだろう。その存在理由をオレさまに奪われて、どう変化するか見ものだぜ?」 ――リリス恋しさのあまり? こいつが? 俺はほとんど唖然として真田を捕らえる。かち合ったヤツの瞳が困惑ぎみに逸らされた。 信じられないことに。 聞いていられないといったふうに。 「今度会うときがあるなら、このオレ様が万魔殿の主だ。引越しの用意でもしとくんだな!」 高らかに宣言めいた言葉を残してアトベは俺を抱いたまま飛翔した。それを援護するかのように アトベの配下がサナダたちに向って攻撃をしかける。 去り際、襲い掛かる魔物たちを尻目にサナダの視線が俺を追いかけていた。少し絞られた瞳に 哀しみが映る。 なんだ、そんな顔もできるんじゃないかと、俺はそれを受け止めていた。 時間と距離を一気に飛び越え到着したアトベの居城は、主に準じて様式美に拘ったつくりの洋館だった。 機能美だけを追求した殺風景なサナダの城とは比べようもない瀟洒な佇まいだ。 中庭にはアールデコ調の噴水と、地獄に生息しているのかというような色取り取りの花を植え込んだ花壇と、 茶を喫するための四阿なんかが配置されている。まったく、ここが地獄だという現実を忘れてしまいそうだった。 中庭に降り立つと、アトベは俺の背を支えながらそのまま居室へと案内する。ここまで大した 抵抗もせずついて来たのだから、大人しく従うしかなかった。 尤も、逃げ出そうにも距離も方向も分からない。無駄な労力は避けるに越したことはない。 室内に入るとアトベは俺の背中から手を離し、凝ったつくりのカウチにドカッと腰掛けた。そして 思い切り所在無い俺に聞いてきた。 「疲れたろ。なんか飲むか?」 まるで長年の友人が訪ねてきたかのような物言いだった。虚をつかれた俺は小さく頭を振った。 アトベの意図が掴めなかったからだ。 そんな俺に大して気にも留めず、ヤツはサイドテーブルのデカンタからグラスに真紅の液体を 注ぎ込んで美味そうに飲み干した。ワインかとも思うが、あまりに濃度の濃さにそれ以外のものを想像 してしまい、俺は目を背けた。 そう言えばコイツに渾身のサーブを何度もお見舞いしてやったんだ、あの時。この場で謝った方がいいのだろう かと思案している俺に、アトベは手にしたグラスを揺らしながら楽しそうに告げてきた。 「テヅカっていったっけか、お前? そんなリキまなくったって、取って食おうなんて思ってないぜ。 人肉は好みじゃないからな。まっ、別の意味で食っちまう可能性はあるかも知れないけどよ」 「余裕だな」 「束の間の休息ってヤツだ。そのうち王が血眼になってお前を追ってくる。修羅場だからな。いまのうちに 英気を養っとかないと、体力バカの王と太刀打ちできねえ」 血戦前といった悲壮感はまったく感じられない。子供同士の取っ組み合いの喧嘩レベルだ。 実際そうなのかも知れない。このアトベという男、リリスが欲しいのではなく、サナダから奪いたかった だけという子供っぽさを覗かせていた。 奪うことに意味があるのだと言っていた。 それがアトベのレーゾンデートル。 では、俺が俺である意味はどこにある? 「サナダ、追ってくるのかな」 思い詰まって俺は別の質問を口にしていた。当然だろ、とアトベ。心待ちにしているようでもある。 「あれほどしつこい男もちょっといないぜ」 「サナダはリリスのために堕天したって本当なのか?」 「アダムの手から、神の呪縛から解き放ちたかったんだろ。それだけで立派な謀反だからな」 「なぜ?」 「なぜだぁ? 一目惚れしたからに決まってるだろうが。変なこと聞くヤツだな」 「違う。なぜお前はそんなに詳しいのかと聞いている。まるで敵でありながら一番の理解者みたいじゃないか」 「有名な話だからだよ!」 「敵を知り己を知れば百戦危うからず、か」 「そう、それそれ!」 違うな。無関心でいられないほどにコイツにとってのサナダは大きすぎるんだ。 たぶん。 したり顔が気に障ったのか一瞥すると、アトベは人差し指をクイクイと曲げて俺を呼んだ。呼ばれたままに 近寄ると更に間近に引き寄せられ、俺はヤツの手で後ろ首を固定されてしまった。 アトベの人目を惹く美貌が目の前だ。俺は振り払おうとするがそれをヤツは許さない。 「無防備だな。考えなしのリリスもどうかと思うが、何度転生してもその切れ長の瞳だけは変わらねえ。 見るものを魅了し離れてなお蠱惑し続けるんだ。お前の魔力に取り憑かれた一番の被害者は、さしずめ魔王 ってか?」 まるでこの俺が諸悪の根源のような言いようだ。憤慨している様相が気に入ったのか、アトベはニヤリと 笑うと羽根が触れるような口付けをしてきた。 「――!!!!」 全身を落雷が通り抜けたような衝撃が包んだ! お、男にするかこのバカ! 俺の反応を面白がっていやがる。なおも口をパクパクさせていると、 「魔族ってなあ、欲望に正直なんだよ」 と、さも当然のように言ってくる。俺が絶句したままなのをいいことに、さらに近づこうとする唇を 俺は両手で阻止した。コイツの享楽にはついてゆけない。それだけなのに、何を勘違いしたのか アトベはハッとするほどの真摯な表情で聞いてきた。 「お前、魔王ともう寝たのか?」 「そ、そんな訳ないだろう!」 声が裏返らなかっただろうか? つまらない心配をしてしまう。 とにかくアトベは俺がサナダに義理立てているとでも思ったのだろう。大体出会ってまる二日もたっていないんだぞ。 それで懇ろな関係になるなんて、ふつう思わないぞ。まぁ、コイツ等に一般常識を当てはめても 虚しいだけだが。 「ふうん。意外だな。魔王がお前を見て平静でいられる訳ないんだがな」 「至ってノーマルなんだろ。お前とは違って」 「ヤセ我慢しやがって」 「お前なにを期待しているんだ!」 「魔王のモノだったものをむしり取る方が楽しいからよ。でも、ま、先に摘んでやるのも一興か?」 「アトベ!」 カウチから起き上がったアトベはホントウに手馴れた早業で俺を床に押し倒した。毛足の長い 絨毯が衝撃を和らげてはくれたが、それでも肉体と精神の両面ショックから、俺の長いだけの四肢は ただ闇雲にジタバタと暴れて、攻撃にもならない防御で精一杯だった。 止めろと叫んで浮かぶのはサナダのしかめっ面。助けを呼んだとしても、狼を退けて虎を呼ぶ羽目に なるかも知れないが、仕方ないだろう。この世界ではアイツくらいしか思いつかないんだから。 アトベの奔放な指がシャツの裾から脇をなで這い上がってくる。ゾクリと肌が粟だったそのとき―― いつの間に入ってきていたのか、眼鏡の男が開かれた扉にノックしていた。 「お取り込み中申し訳ないけどな、待ち人来るやで」 情欲に彩られていたアトベの瞳が不気味な金色の光を宿す。目の前の俺よりも、さらに巨大な得物に 標準をあわせた瞬間だった。 「ちっ。いいところだったのに。アイツお前に目でもくっ付けてんじゃねえか、ったくよ」 新しい玩具に興味を持っていかれた男は、何事もなかったかのように立ち上がると、眼鏡の男を従えて 部屋を出て行った。情けないことに全身の筋肉が弛緩した俺はその場にへたり込んでしまった。 危なかった。ホントウに。
いつまで
続くの〜 |