災厄と背信と絶望と復讐と破壊と姦通と。 総ての私怨に包まれて。取り囲まれて。 それが――地獄足りえる現実。 鉛を流し込んだような魔界の空はさらに重みを増し、獣の咆哮とかつては瀟洒な天使だった成れの果て たちの雄たけびが辺りを蹂躙する。 両軍の攻撃は止むことなく、一層の激しさを増していった。 俺ひとりを捕らえるために、幾千もの命が飲み込まれ、喰らいあい、肉を焼く匂いが鼻腔にまで届きそう だった。 止めてくれとは言えない。 言葉にしてとても言えない。 目を背けて耳を塞ぐしか手立てはない。 しかし、異様に張り詰めた皮膚感覚や、嗅覚までは防ぎようがなかった。 そんな感傷はあざといと思う。 大きく半円形に開かれた露台からは人智を超えた戦いの様子が一望できた。巨大な城の周りには壕が築かれ ていて、アトベ軍の歩兵や騎馬兵たちは唯一の門を落とそうと躍起になっている。同時に難攻不落の礎である その壕を埋めようとする作業も進められていた。 蒼穹を望めそうもない空を仰ぎ見れば、翼竜同士が牙を剥いての一騎打ちだ。獰猛な肉食獣の喰らい合いは、 現場に身を置いて血沸き肉踊るようなものじゃない。実際、肉が飛び散り血の雨が降っている。 見極めると言ったものの、正直気持ち悪くなって後退した。 早く終わらないかなと、それだけを願いながら。 この大広間のような場所には露台の他に小さな窓がいくつも開いていた。俺は殺戮の場面を見ないで済む ならばと反対方向の窓に近づいた。 「おんや。リリスは殺戮がお嫌いらしい。お優しいこって」 「煩い」 「ご気分が優れないようッスね。ご寝所までお運びいたしましょうか? フラフラしてますよ」 アカヤに思い切り愚弄されてしまった。 そんなこと分かっている。喩え血糊から目を背けても、ただ見ているだけの事実は変わらない。 早期の収束は願っていても、いまも夥しい量の血が流されている。 こんな感傷は似非人道主義だ。言われなくてもわかっている。 窓に近づいて血臭から遠ざかっても、生憎、目の前は真っ黒な森だった。鬱蒼としていて気分なんか 晴れやしない。 そんな俺の動きを捉えたヤナギが制止の言葉を投げかけてきた。 「リリス。あまり窓に近づかないように。危険です」 「綺麗な空気が吸いたい。酸欠を起こしそうだ」 「地獄の瘴気に当てられましたか? 転生までの期間が長すぎた弊害ですね。とにかくこちらへ」 「なぜだ? こちらは森ばかりでアトベ軍の姿は見えないぞ」 「あなたが動くことでパワーバランスが崩れる。出来れば最深部で隠れていただきたいというのは、それ 相当の理由があるのです。こちらにはあなたに知ってもらわねばならない禁忌がたくさん存在します。 あなたが進んでアトベ軍に囚われたいと仰るのであれば話は別ですが、できれば王の近くから離れないで いただきたい」 「全身の毛穴を広げて俺を忌避している男の傍にいろだと? 懇切丁寧、恭しく扱えとまでは言わないが、 対人関係を円滑に進めようとしないヤツには、俺も相当の態度で望ませてもらう」 「それは酷く頑是無いように見受けられますが?」 「郷に入ったら郷に従え。けれど、人は人を映す鏡だという格言だってある」 「それはあなたの世界のルールなのでしょうか?」 「そう。人間関係の基本だ」 えらそうに腕を組んで言うことでもないが、それでも俺の嫌味に魔界の王は微動だにしない。 動かざること山の如しを地でいっている。 俺は別に稚気溢れる性格をしている訳ではないが、こんなヤロウの慌てふためく顔を拝んでみたいと思うのは 人として当然の欲望だろうと思う。嘗て俺もそう言われていたという推測は、成層圏の彼方に放り投げる として、帰る前に涙の一つでも流させて、済まなかったと一言謝らせてやる。 俺の足元へ傅け、魔王だ。 俺は固く握りこぶしを掲げた。 エラク逼塞感のある拙い願いだが、どんな苦境にも僅かな望みを、だ。 それにしても、俺が動くと崩れるとはどういう意味だと、窓を背にした状態でヤナギに問い正す前に 俺は、背後で囁く小さな声に反応してしまった。 『――は』 振り返っても窓の外は先ほどと変わらない風景だ。どうしました、と問うヤナギに首を振って答えたが、 その囁きはさらに大きくなって俺の耳に届いた。 『――名は?』 「え?」 『お前の名は?』 「手塚と言ったはずだが? おまえ、誰だ?」 「リリス!」 ヤナギのらしくもない絶叫が先だった。 背後になにかいる。そう感じたのは半拍ほど遅れて。続いて、いま立っている地面が無音のまま 溶けたように総ての支えを失った。 落ちる。 傾く体を支える術などなく、なぜと何がを反芻しながら、俺はそうかと思い至った。 名前か。 けれど完全に聞きそびれていたな。なぜあれ程サナダたちが、名前を名乗ることに過剰反応したのかを。 理屈はよく分からないが、契約とか盟約みたいなものか。尻軽だとか称していたことから、名を 問われて答えるという行為は、婚姻届に印鑑を押したり、服従の印に叩頭したり裳裾に接吻したり、 あるいはもっと直裁に、お前が欲しい。いいよ、オッケ――のような意味を成すのだろう。 喩えが段々と世俗塗れになってきたのは、その方が現実に近寄れるからだ。けしてアカヤに感化された 訳じゃないからな。 まるで夢の中で階段から落ちたときのように、妙な浮遊感と定めようのない到達点とを感じながら、 俺は精一杯毒づいた。 けれどお前たちだって悪いんだ。 さっさとこの世界の理とやらを説明しないから、つい条件反射で答えてしまったじゃないか。 愚痴っても、もう遅いか。 引きずられるように、墜落するように俺は背中から窓の外へと誘われる。激しい動きはなにもなく、ホントウに 吸い込まれてゆくといった表現がぴったりだ。 エラク落ち着き払い順序立てて思考しているように聞こえるかも知れないが、右脳の半分はパニックを 起こし、両腕は何かにすがるように当然宙をかいた。 ヤナギに、その傍にいるアカヤに。そしてさらに奥に位置していたサナダに。悲鳴を上げることも出来ず、 救いの手を差し伸べる 条件反射のようなものだ。誓って言うが他意はない。誰だって落ちるのは怖いから。 真っ先に俺の元へ飛来してきたのはやはりサナダだった。 流石魔界の王。咄嗟の行動力はある。仮にも妻の大ピンチだ。一応慌てふためいたのか? それは、余り 望めないな。ほんの少しヤツの眉間の皺の数が増えているだけだった。 俺の身体は既に窓の外。しかし、不意に誰かの腕が背後から伸び、抱きとめられ、すっぽりとその懐に収まったまま 宙に浮いていた。なにか反撃をと脳内物質をフル活用したが、さらに強く抱きしめられ、 睦言のように耳元で囁かれて身が竦んだ。 「捕まえたぜ」 後ろを振り返らずとも誰だか分かる。 アトベだ。 俺はアトベを呼び込んでしまったんだ。 そしてヤツと契約してしまった。 「お前は俺のもんだ」 少し血の気が引いたかも知れない。 「アトベか」 「よお。無様だな、魔王よ。だから言っただろうが。あとで吠え面かくなよと。忠告したはずだぜ」 「フン。性懲りもないヤツだ」 「この期に及んでは負け惜しみだな。いい気分だ」 「埒もないことを」 「へっ。焦がれ続けた麗しいのリリスが、まさかこんなに簡単に手の中に落ちてくれるとは思ってもなかったがな。 サナダよ、教育がなってないんじゃねえの」 アトベが哄笑に似た声を上げた。ヤナギやアカヤは色をなしている。怒気すら揺らめいて目に見えるようだった。 「貴様!」 「流石の俺様だって王城の結界には侵入できない。それをコイツが自ら破壊してしまうんだから、 お前の命運も尽きようとしてるってこった。何度めぐり会っても相容れない運命なんだろう。嘆かわしいね」 酷く示唆的な科白。 サナダの眉が深く寄った。 アトベの目的はサナダ軍の殲滅だった訳ではない。俺の確保にあった。だから正面から攻撃を続けながら、 城の背後に回り俺に近づく機会を伺っていたのだろう。 それを知っていたら俺だってこんなに呆気なく囚われたりはしない。 しないと思う。 背後のアトベは、ニヤニヤと音がしそうなくらいに満面の笑みで、俺を挟んでサナダを見下ろしているんだろう。 サナダの低い地響きのような視線が俺を捕らえた。 地を揺るがす直線的な怒りだ。 俺とアトベと双方に対して。 サナダは剣を抜き払いジリと間合いを詰めた。言葉なくふわりと緩やかに飛翔して切欠を待っているようだった。 俺を抱いているアトベの腕が力を増し、冷ややかな緊張が背後に走る。 「王!」 ヤナギが叫んだ。アカヤも臨戦態勢で宙に浮いていた。 サナダの目に迷いはない。一気に間合いを詰めるとほとんど俺に向って剣を突きつけてきた。 たじろいだアトベが瞬時に反応し、それは脇を掠めただけで済んだ。しかし冷静に繰り出された二撃目は、 俺の上着を裂きアトベの羽根を掠って細流のような血痕を残す。 俺はその軌跡を眼で追って愕然とした。 アトベだけを狙ったんじゃない。ヤツは――ヤツは俺ごとアトベを刺そうとしたんだ。 高く口笛を吹いてそれを左右に避けるアトベの鼓動が早い。狼狽を伝えていた。 「ちっ!」 どうにかサナダの攻撃をかわして、そしてそのまま距離を置いた。 置かざるを得なかった。 俺にしても平静ではいられない。 しかし、そうかとも思う。 妻だろうが掌中の玉だろうが、敵の手に落ちるよりもここで抹殺してしまった方が後顧の憂いはないんだ。 必要なのはリリスの核とやら。間違っても俺じゃない。 魔王ならそうする。 ここで俺の身体が消滅してもリリスは残る。どこかに消えてまだ誰かの中に目覚める。分かっているから 何年も、もしかすると何百年も転生を待つことが出来るんだ。 「ふん。因果な性分だな」 そうはさせるかとアトベがさらに後退った。 皮肉なことに俺の身体ごと守ろうとするのはアトベの方だ。プリマ・マテリアとかの分離をこの男は 知らないのかも知れない。そんなこと想いもよらなかっただけなのかも知れない。 けれど、アトベの鳴らす口笛に呼び寄せられたヤツの部下たちがサナダの攻撃の盾となり、 確かに俺を守ろうとしている。 こいつの腕はこんなにも温かい。 サナダなんかよりもずっと。 この世界の誰よりも。 分かっていたことだけど、それだからこそ魔族の王と呼ばれるのだろうけど、俺はなぜか体中の力が 抜け落ちたようにアトベにもたれかかっていた。 な、
長い |