聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。 目の前は信じられないことに魔界大戦争の様相だ。 在り得なくても現実だ。 未だに夢だと思いたいが、それにしては目覚めが遅すぎる。 もういい加減に諦めろ。 どれほど厭ってもそれが事実。地鳴りと咆哮と肌がざわめく瘴気とが、俺のいるこの世界の総て だった。 サナダは俺を支えていた腕を外すと、剣を振りぬき高く挙げ、激昂する訳でもなく一気にそれを 振り下ろした。 「滅せよ」 言い切ると地割れのような咆哮がアトベ軍に向って上げられる。サナダ軍の一斉射撃が始まった。 集中豪雨のように両軍から矢が浴びせられる。空を舞うアトベ軍の翼竜が高度を一気に下げた。 金属の擦過音を思わせるいななきに俺は耳をふさいだ。こんな特殊効果音の真っ只中にいて、スで立っていられるこいつ等が信じられない。 俺は雑踏や都会の喧騒も好きではないんだ。 そんな俺の姿を認めてサナダは顎を上げ、見下して睨めつける。 「邪魔だ。下がっていろ。誰だ! こいつを連れ出したのは!」 開口一番そうきた。これでもかというくらい蔑みの表情オプション付きだ。 こいつが俺に――尤も前世だか 転生前だかの女だが、焦がれて探し求めていただと? 責任者前へ出ろと言いたい。甘さも思いやりも欠片だって 感じられない。だからリリスは逃げ出したんじゃないのかと俺は腕を組んだ。 こんなふうにあしらわれるなど、心外にも程がある。生憎、矜持は人一倍高い。 俺は青学男子テニス部部長、手塚国光だ。魔界の王を正面から捉える。 「誰のせいでもない。俺の意思でここまで来た」 「邪魔だと言っただろう。怪我をしたくなければどこぞにでも隠れていろ」 「隠れろだと? 魔王の屈強な軍隊はここまで侵攻を許す気か? そうであるならばどこに逃げようと 同じだろう。それにこの城はどこもかしこも薄暗くて気分が滅入る。まだ空らしきものが 拝めるだけここはマシだ」 「剣の一本も持って戦えない者が前線で戦う兵たちを高みの見物か。なかなかよい趣味をしている」 「魔王の妻、だからな」 俺の嫌味に、サナダは低い怒りを持って射るような視線を向ける。ご不興とご立腹と、そして憤りとが ない交ぜとなった様相に不思議と俺は恐れを感じない。なぜか哀惜が滲んでいたからかも知れない。 だから俺は畳み掛けた。 「認めたくはないが、これは俺を巡っての戦いだろう。アトベとやらは俺を欲している。お前にしても 俺の存在が必要なんだろうが、この身をどちらに委ねるかは俺が決めていいことだ。 夫だったからと言って、ここで戸籍は重要視されないだろうから、お前だけが 所有する権利を持っている訳ではない。どちらが有利か、どちらが強いのか、どちらがリリスに相応しいのか。 それを見極める。彼女ならそうすると思う。お前が魔王だろうが、何だろうが指図される 謂れはない」 恐れを知らぬ大見得だ。 俺を高く買ってくれる方につくとの明言は、多少なりとも嫌悪感を感じないでもない。 だが、どこを探しても味方のひとりもなく、強敵相手に連戦また連戦だ。強かに立場を利用して精神的 優位に立つくらい許されるだろう。それを厭っている余裕はなかった。 ホントウのところ、あの奥まった部屋で一人で地鳴りに耐えているのが恐ろしく厭なだけだったが、 それはこの際伏せておく。別にコイツと一緒にいたい訳じゃないからな。どうせなら最前線で行く末を 見据えていたい。それだけだ。 「リリス! 控えなさい。王に向ってなんという暴言を!」 ヤナギの叱責が飛ぶがサナダはそれを制してヘラリと哂った。 「お前、名は?」 「は?」 「現世での名があった筈だが?」 「手塚」 自分から尋ねておきながら、答えた途端にサナダは肩を竦めて大仰な溜息をついた。ヤナギは眉間の皺を 深くし、アカヤはアララと楽しそうに目を丸くしている。 なんか拙いことを言ったか、俺? 何をと問う前にサナダはヤナギを見て顎をしゃくった。答えるのも煩わしいという感じだった。 「それで魔界の王に一頭地抜いたつもりか。この世界の理のなんたるかを知らぬ蒙昧な輩が」 「何だと!」 「やはりこいつはどこかに閉じ込めておけ。危機管理がまるでなっていない」 「お前の持った回った話し方で、理解できる方がどうかしている。それになんだ、危機管理って。大げさな」 「大げさだと! お前はヤナギやアカヤに問われても同じようにほいほいと答えるのか!」 「当たり前だろうが。リリスなんてのは俺の名じゃない。ほんとうの名を呼んで欲しいからな。当然即答する」 ヤツはズカズカと音を立てて近づくと、俺の襟首を片手で捻り上げた。この男、近くで見るとホントウに威圧感 がある。ガタイも半端じゃない。俺はほとんど爪先立ちだった。 「当たり前だと! だからお前は尻軽だと言うんだ!」 俺たちは暫く睨みあった。 憎悪だけで人を殺したいと願うとしたら、それはきっとこのような視線のことを言うのだろう。 憎い――憎い――憎いと、サナダの全身が語っていた。 それは最愛の女が俺の姿をしているせいなのか。それとも恨んだ女が最愛だったのかは俺には知れなかった。 それにしても、こんな悪感情の総決算みたいなものを丸投げされたことは、俺の十五年の生涯で一度もない。 言うにことかいて『尻軽』ときた。どんな秋波もお誘いも一蹴してきた俺が、どうしてその手の言葉で 罵倒されなくちゃならない! ここでムカツクぅと使って間違いないと思う。 咄嗟に出ないが。 確かにむかっ腹は立ったが、やはり畏れは感じなかった。一言でいうなら、一人で自己完結して人様に怒りを ぶつけてないで説明しろ! この石頭! 、だ。 「離せ、この横暴ヤロウ! 俺の世界とお前たちの世界とは常識も判断基準もまるで違うんだ! 俺に 分かるように説明しろ! 誰が尻軽女だ!」 喉を圧迫されてよくこれだけ啖呵を切れたものだと我ながら感心する。口数が少ないなどと称されたのは いつのことやら。 彼の言うとおりです、と窒息死寸前の俺を救ってくれたのは、やはりヤナギだった。辛らつなヤツでも 常識人なんだろうな。魔族のモラルが奈辺にあるかは分からないが。 「手をお離し下さい、我が王よ。彼はこの世界のことを何も知らない。何も覚えていないだけなのです。これから 追々時間をかけて思い出して頂くしかありません」 「悠長なことだな。お前がその任を担うのか?」 「ご命令とあらば」 そう言って傅いたヤナギを俺は、多少鼻白んで見ていた。なんで俺が魔界のルールのご指導を仰がねば ならない。試験にだって出ないぞ。知ってるからと言って反応するのは不二くらいのものだ。 確信はないけど、きっと。 やや三白眼ぎみの俺をサナダはその上をいく不遜な表情で捉えた。 「これ以上煩くするなら、猿轡をかまして食料庫にでも放り込んでやるからそのつもりでいろ」 「丁重にお断りする」 「では、テヅカ。リリスのプリマ・マテリアだけを残した者よ。お前の判断基準がどこにあるかは 知らぬが、なぜ俺が至尊の冠を頂くのか、しかと見届けよ。力の違いは兵力の差だけではないという事実をな」 「プリ・マドンナ?」 また訳の分からない専門用語が出て来て俺は当然のようにヤナギを見る。俺の養育係を拝命した男は丁寧に 答えてくれた。 「違いますよ。あなた、相当カタカナ弱いですね」 「悪かったな」 「いいですか。プリマ・マテリアとは、神が創りたもうた世界を生成するたった一つのものです。 それは形や色をかえ、同じく神が創った天使 たちの核として存在する。あなたが姿形を変えてもリリスであると知れるのは、そのマテリアが 体内に根付いているからなのです」 「核――」 「そうだ。その核だけを取り出す術があるのなら、俺たちはお前の器などは必要ないのだからな」 必要ないのだからな、か。 ヤナギ――と冷徹に言い放つ魔王の言葉を俺は下から睨めつけた。 「この戦が終われば錬金術師たちを招聘せよ。ヤツらの術を持ってすればリリスのプリマ・マテリアは 分離できるであろう」 「御意」 ――分離。 それは願ってもない話だった。どんな手段を使うのかは分からないが、切り離してくれるというのなら、 大人しくベットの上に横になってやってもいい。多少の痛みは我慢してやろう。その際に関節だけは 丁寧に扱ってくれるならオールオッケーだ。それでこの世界からおさらばできる。 できるだけ身体に負担をかけないように帰してくれたら、ここに連れられた経緯に対する文句は言わない。 綺麗さっぱり忘れてやる。 俺は忙しい身だ。 全国へ向けて発進しだした頃だったから、部内の様子も気になるし。それに俺は一体何日ラケットを握っていない のだろう。 魔界大戦争よ、重火器でも核兵器でも投入して早く終われと、一般小市民はその後の様相を見ないフリを してそら恐ろしい願いをかける。 生憎この世界には星空は望めなかったが。 こいつは――この男は俺を一切認めていない。 俺をリリスとではなくテヅカと呼ぶ男は、変化し過ぎた器を嫌悪していた。それは一直線に俺に向けられて いる。 それは当然だろうけれど……。 男女の機微にはまるっきり疎い俺だ。複雑に絡み合った想いなど理解は諦めている。けれど俺が 悪いわけではないし、俺の責任でこうなったわけでもない。大人気ない八つ当たりなど願い下げだ。 大体態度が横柄過ぎる。俺は我慢強いから黙ってここにいてやっているが、血の気が多い者なら、 間違いなく意趣返しでアトベ軍へ下っているぞ。 下っているぞって、そうする気がないような言い方だと俺は気づいた。 ここにいたいのか、おれは? そして認めて欲しいのか、この男に? 一体なにをと頭を振った。 思い至って俺は力なくダラリと下げられたままのサナダの腕に目をやった。軍服に隠されて見えないが、 あれほどの怪我を押して立っていられるだけでも俺には卒倒ものだった。 「お前、腕は大丈夫なのか?」 気遣いからではなくほとんど興味本位で俺は聞いた。傷の治りが早いのか、ただ強靭なだけなのか 気になるところだが、 「お前に憂慮されるほど落ちぶれてはいない」 と、可愛げのない答えが返ってきた。自惚れるな! 心配した訳じゃないと俺は言葉を荒げた。 まだ
つづく |