「サナダの怪我はどうなんだ!」 そう叫んだ途端、ズンと低い地鳴りのような音が辺りに響いた。 アカヤは始まったかと小さく呟き周囲を伺っている。俺はそれどころではなかった。 すっかり忘れていたからだ。 腕が落ちそうなくらい斬られたんだ、あいつ。それも俺が漏らした不用意な 一言のせいで。それを失念して自分の疑問と好奇心を優先させる俺ってどうなんだ。 あのシーンが俺の中で何度もフラッシュバックする。目の奥に焼きつかれた情景に、そのさらに奥が 痛んだ。 「へぇ、心配したりするんだ」 口籠もった俺をアカヤは下から睨め上げるように聞いてきた。それは、と俺は言い訳のように続けた。 「それは――半分は俺のせい、だろうし。だからと言って、あのまま弄り殺す場面を放っておいてもよかった とは思わないが……」 「なかなか可愛いこと言うね。転生するときに、リリスの資質はどこかで落っことしてきたのかな?」 「どういう意味だ」 「リリスが王を心配するなんて、さ。意外っていうか、あり得ないっていうか」 「妻、なんだろう?」 俺は当然の質問を口にした。アカヤはニヤケ面に少し困惑の色を乗せている。 「う〜ん。まぁ、妻だけどさ、特殊な関係だったって言うか。どこに接点がある二人なのか分からなかったし。 特に七つの大罪のうち、『色欲』はアスモデウスのものって決まってるけど、リリスもそれに筆頭するくらい 正直だった。こんな場面なら間違いなく俺を手玉にとって、蕩けさせてくれている」 頬の近くにあったアカヤの赤い舌が、俺の唇をチロリと舐めた。 「止めろ!」 両手で突っぱねてそれから逃れようとするが、小柄な癖にこの男、矢鱈と力がある。 冗談じゃないと膝を繰り出した。綺麗にヒットしたが、あまり効果はなかったようだ。 「魔王の妻の癖に!」 「妻ってなんなんだろうね。斬りあいでもしそうなくらいの間柄だったよ」 「憎んでいたのか、リリスは魔王を」 「誰も彼も憎かったんじゃない。王に限らず。ま、凡そ堕天しようっていうんだから、尋常じゃない怨恨や 思惑があったんだろう。何考えてんだがさっぱりだったし、ぞっとする位に妖艶だったから、 いい寄る輩は引きも切らずでさ、それ相当に彼女も貞操観念皆無だったよ。気に入れば――気に入らなくたって 誰彼構わず褥に潜り込む。恨みをぶつけるみたいに絡みつく」 それでこそ魔王の妻たる者じゃないの、とアカヤはウインクして見せた。 「皆無、って。アダムの異常性が気に入らなかったから、そいつから逃げ出したんだろう?」 たぶん、とアカヤは囁く。引っ付くなと俺は両手で牙城を死守した。 「リリスは自分が主導権を握らないと気にいらないんだ。有り体に言ったら、騎上位ってヤツですか?」 ○×☆▼★*■@――!!! いい加減にしろ! と俺はアカヤの顔面にエルボーをかましてやった。それには流石のヤツも顔をしかめる。 これ以上聞いてられないと更に拳を握り締めたそのとき―― 先ほどとは比べ物にならないくらい激しい地鳴りが伝わったと思ったら、勢いつけて寝室の扉が開かれた。 入ってきたのはヤナギと呼ばれていた男だ。ベットの上の俺たちを一瞥すると、 「こんなところで何をしている! アトベたちの攻撃が始まった。早く持ち場につくんだ!」 と、叫んだ。 隠れていなさいというヤナギの忠告を無視して、俺はアカヤたちと行動を共にするために部屋を飛び出した。 先ほどから感じていた地鳴りは、アトベ軍の総攻撃のせいらしい。 石造りの重厚な城の壁面から、その衝撃に合わせてパラパラと塵芥が落ちてきている。 攻撃の規模が拡大したのか地揺れは激しくなる一方だ。なのにヤナギは心配ありません、と冷静に言う。 「この城は難攻不落ですから。我が軍とアトベ軍とでは兵力の点に置いても我が方が勝っている。 兵法において、城攻めは三倍の兵力が必要とも申しますから。いまこの集中砲火さえしのげば、 疲弊したアトベ軍はなす術もなく退却してゆくことでしょう。ましていまは魔王が玉座におられる。 おまけにあなたもいらっしゃる」 そう断言し早足で進むヤナギの後ろを追って、俺はリリスの本性とその存在理由を尋ねずにはいられなかった。 「サナダは俺を――リリスを探していたと言った。アトベとやらは切り札の俺を渡せないと言った。 リリスを得ると魔族の力が増すのか? 絶対者でいられるのか? だからその地位を狙う者たちが俺を 欲する? けれどアカヤはリリスが魔王の妻として尋常じゃない関係だったとも言った。リリスは何者なんだ? 何がしたかったんだ? どうしてお前たちを裏切ったんだ? 俺はなにも覚えていない。 けれど身体の中で何かがうごめいているのを知っている。リリスは解放されたがっているのか? だったらなぜお前たちの前から消えた? 自分の意思か? それとも誰かの作為によってか? 俺と彼女は どうすれば切り離せる? どうやって彼女を解き放てばいい?」 そして――解放されたら俺はどうなる、といつになく言葉を重ねてまくし立てた。 それには、足を止めたヤナギが束の間苦渋に満ちた表情をする。瞑目したような顔つきなのに、 薄暗い廊下なのに、それだけは分かった。 「申し訳ないがあなたの中にリリスが寄宿しているのではなく、あなたがリリスそのものなのだが。 そうアカヤが説明しませんでしたか?」 「――転生だとか、前世だとか……」 「そう。それは別個を差す言葉ではないでしょう。あなたの中に何かがいると錯覚するのは、リリスの 記憶がそうさせているだけだと思いますが。まったく切り離すなど、どう血迷えばそんな考えに至るのだか」 このヤナギという男、口調は丁寧な癖に誰よりも辛らつだ。人の拙い迷いなど一顧だにしない。 彼女を解放させて、俺も早く自由になりたい。そう願っただけなのに。 「そして、リリスですが――」 勿体ぶったようにヤナギは言葉を切る。どう答えていいのか分からないといった感じだった。 「リリスには特別な力などないと私は思っています。あるとしたらその存在理由。創世神を裏切ったという事実。 それだけです」 「俺の中のリリスは確実に凶暴な力を秘めている。アトベたちに牙を剥いた 攻撃的なヤツだ。あれは俺の理性を駆逐しようとしている。それに何もなければどうしてあいつらは 俺を探して求めるんだ!」 「あの方たちがリリスを一心に求めるから。求める想いが力となる」 「それだけなのか?」 「そう。攻撃特性は堕天使が持つ自然な力。アトベに対して攻撃しようとしたのは、リリス自体がそれを望んで いなかったからではないですか? だから暴れた」 「もっと詳しく教えてくれ。リリスは魔王を裏切った。でも、救いたかったような後悔が感じられたんだ」 「さあ、それは何とも。あとは王にお聞きなさい。あなた方の間に何があったかなど、私は断片的にしか知らない のだから」 言い切ってヤナギは歩を進める。俺にしたところであとはなにを聞けばいいのかさえも分からなかった。 分別なく男の間を渡り歩き良人を裏切ったとされる女がいる。その女を時間軸を越えて捜し求める男がいる。 そして、女の生まれ変わりだとそれを飛び越えさせられた俺がいる。 俺の存在だけが力の証。それを厭ってリリスが姿を消したのか、強制的にそうなってしまったのか。 お前は、と俺は内なる未曾有の力に問いかける。 どうしたいんだ、と。 ただの記憶だとヤナギは言ったが、どこか一体感がないんだ。異物は拭えない。棲んでいるといった感想 が一番しっくりいく。ヤナギを信じない訳でなないのだが。 もう一度お前はどうしたいと、問うた。 お前程の力があれば俺なんか食い破って表出するのも簡単だろうに、なぜそうしない。なぜその存在と記憶 だけをちらつかせるような真似をする。 眠りにつきたいのか、暴れたいのか、お前の意思が俺には見えない。 そして、何よりも、なぜ俺なんだ。 俺の足がピタリと止まった。傍を走るアカヤが訝しげな表情で、行き過ぎて俺を振り返る。なんでも ないと頭を振って、俺はもう一度駆け出した。 それは――誰に聞けば答えが返ってくるのだろう。 とにかく、サナダに会わなければと地鳴りの続く長い廊下を俺は走った。この騒ぎが収まるまでどこか 奥深くで隠れていたって元の世界には戻れない。 いや、それよりも分からないまま戻れない。会わなければ戻れない。 俺はそれほど物見高い性格をしていない。これでよく部長なんかが務まるなというくらい、自分や チームメイトのテニス以外には無頓着だった。それでもよくしたもので、俺みたいな男には気配りの細かい サブがつく。俺の足りない部分は皆が補ってくれた。 だからやってこれた。 そんな俺が探求心のために猛ダッシュ? メンバーの心情にもそれくらいの執着を見せろと、大石なら 涙ながらに訴えるところだろう。 とにかく俺は廊下を突っ切り、大広間のような開けた場所にたどり着き、その更に開けた露台にサナダの 背中を発見した。俺たちの足音を聞きつけてサナダが振り返る。 ゆったりと振り返る。 その泰全とした視線よりもなによりも、露台の眼下に広がる情景に俺は息を飲んだ。 これは―― 城を取り囲み蠢く無数の黒い点。数の予想もつけられないが紛れもなく敵兵なのだろう。 おまけに敵兵の合間合間に四足歩行の巨大生物までご出現だ。あれはティラノサウルスかナウマン象か 大魔神か。 そして鉛を流し込んだような暗雲の間には巨大な羽根を羽ばたかせた翼竜らしきものまで飛行している。 お願いだからジュラシックパークの撮影であってくれ。ロードオブザリングでもいい。とにかくこんな 万国吃驚ショーは俺の好むところではない。 パニックを通り越して、体中の筋肉が否と叫んでいた。こんなの映画館だけの世界で結構だ。 やっぱり後宮にでも隠れているんだったと後悔した俺の腕を支えるようにサナダが無事な方の手を伸ばす。 多分、俺の身体は相当傾いでいたんだろう。立っていられるかといった感じだった。 抱きかかえられるなんて冗談じゃないが、膝が哂っている。震えているのに哂うなんて妙な言い回しだが、 間近でサナダの体温と血の匂いを嗅ぎ取って、俺の震えは止まった。 視線が合って我に返ったともいう。 いついかなる状況でも冷静に対処するのが俺の信条だが、 まるで何度も馴染んだことがあるように、血臭で人心地がつくなんてどんな荒んだ生活をしていたのやら。 しかし俺の記憶とやらは、五感の総てでここを覚えていると教えている。この腕もこの腹の底がざわめく感覚 も匂いも景色も。なにもかも。 それに唯一刃向かっているのは俺の理性。 アテになるようでならないシロモノじゃないか。 平常心の権化のように称されていた俺が言うのもなんだが、無理がとおれば道理が引っ込むという。 これはまさに五感を優先させれば理性は風前の灯火。 なにが本当なのかさえも覚束なくなる。 いっそ、完全に順応させた方が楽な筈だ。その瀬戸際で俺はあぐねいでいた。 スミマセン
終わらない
です |