旦那さまは魔王?



(3)ホントウ?





 俺は、いつだってお前を助けたいと思っていたんだ。



 押さえ込んだ悲鳴が血栓を破り、身のうちでなにかが弾けた。
 眼前が真っ白に光り、呪いに似た言葉が口から迸る。
――……せよ!
――……滅びろ!
 俺は慌てて口を押さえるが言葉はそこから発せられているのではなかった。
 巨大なうねりと未知なる力は俺の意識を混濁させる。抑えようとするのにまったく制御できなかった。
 俺の身体は一度浮遊し、頂点に達すると次は容赦なく失墜する。こんなのジェットコースターの比じゃない。 これでは失神できない方が辛い。地面に到達する前に爆発したような衝撃が体中を襲った。
 体中を火が包んだように熱い。
 こんな身を焦がすような怒りは知らない。
 俺じゃない。
 なにもかも壊してしまえとは、いつ、口にした言葉だろう。お前を害する世界などいらないといつ叫んだ。
 俺の体の中で何が起きているか分からない。分からないがその迸りに身を任せる。
 そうせずにはいられなかった。
 サナダを守るために体が動く。サナダを害する者は総て敵だ。俺の中の凶暴な生き物が牙を剥き、一種の 刃と形を変えてアトベたちに襲い掛かる。
 根絶せよ!
 滅せよと。
 しかし、そうなる前に体が一気にバランスを失った。厳密に言えば、弾けたものに体が対応出来なかったと いうか、失墜したというか、エネルギー切れを起こしたというか、脳震盪を起こしたというか。
 暴れまくっていた凶暴な獣は俺の中でなにやら怒っている。この大事なときにだとか、役立たずとか、 声は聞こえなかったけれど、出口を探してどこかでのた打ち回っている。
 しかし――何者だか知らないが随分な言い草だ。大体俺の知ったことではないのだろう。そちらの都合を 勝手に押し付けて、挙句の果てがその言い様かとこちらが詰ってやりたい。
 けれど動かないものは動かない。どんなきつい試合だって、俺は諦めたことはない。限界はいつも 試合で克服していった。身体がボールに反応せずにはいられない。俺はいつも前のめりに進んでいた。 それが俺のプレイスタイルだ。そんな俺に、誰だ。役立たずと言ったのは?
 って。一体誰に?
 ダメだ。俺も相当壊れてきた。
 ひとり言もここまでくればいっそ見事だ。だが、どうやら俺は意識を失ったようだ。
 だからそのあとのことは覚えていない。
 気づけばエライ暗闇の、恐ろしいほど静まり返った部屋の一室で、見たこともないような広いベットに 寝かされていた。
 ここは何処だと当たり前の疑問が頭を過ぎったが、情けないことに指一本動かせない。ゆっくりと視線を 漂わせただけで、それだけではなにも掴めない。
 実際身体の節々に至るまで痛くて、呻き声のようなものを上げてしまった。筋肉痛を味わうのは、 子供のときに始めてラケットを握ったとき以来だ。
 あのときだってこれほど酷くはなかった。
 一度微睡んだけれど、ベットにいるなら寝ていなさいという啓示だろうと、俺はもう一度意識を手放そうと 思う。
 寝られるときに寝なくてはいいアスリートとは呼べない。俺は将来プロを目指す身だ。どんな不測の事態にも 冷静に判断を下さなければならない。動けないいまは身体を休めるとき。ここは何処かなどあとで考えよう。
 結構、寝心地いいし。
 でも、こんなことをしていて俺はプロになれるんだろうか? 練習を一日だって休んだことはなかったんだ。 休んだ分、遅れと感覚を取り戻すのは大変なのに。
 あ。そうかそれよりも無事に帰れるんだろうか、だ。
 まあいいか。
 どうにかなる。油断せずにいこうと呟いて俺は微睡んでいった。



「うわぁ!」
 次に気づいたとき――俺は目の前で覗き込む二つの瞳に驚いて、背中を使って逃げを打った。以前目覚めた ときよりも状況が少し変わり、真っ暗闇だった部屋に薄闇程度の光があった。
 俺の顔を不躾にも間近で覗きこんでいたのは、サナダの側近だか友人だかのアカヤと呼ばれていた男だ。 髪型がかなり特異で、
「ゴ……」
「ご?」
 と、つい口にしてしまった。
 昔読んだギリシャ神話のゴーゴンみたいだと言ったら怒るだろうな。あれ、蛇女だったし。 俺は咄嗟に話題を変えた。
「いや、なんでもない。ところで一つ聞いていいか。ここは一体どこなんだ? エラく薄暗いようだが」
「あんたホントウになんも覚えていないんだな。ここは地獄の最下層、魔王猊下のご在所、万魔殿。 見覚えないッスか?」
 見覚えもなにも、コイツの言い分を鵜呑みにすると、俺はとうとう地の底まで落ちてしまったかという 当たり前の感想しか浮かばない。
 地獄か――
 それにしても俺は一体なにを仕出かしたのだろう? それ相当の罪がなければおいそれとここに呼ばれない だろう。
 多少えらそうな人生だったとは思う。グランド十周を言い過ぎたのか。対戦相手に慈悲もかけずに打ちのめした からか。好意を寄せられ想いを打ち明けられ、興味ないと一蹴したことか。
 けれどもそれが地獄に相当する罪か? それ以外は両親自慢のよく出来た息子だったんだぞ。先生方の 信任も――それは、もういいか。
 こんなことなら在りし日に、目に入った蜘蛛の子を片っ端から助けておくんだった!
 そう悔やんでも悔やみきれない。自慢じゃないが手足四本以上の生き物は苦手だ。気づかないで助けた 確率は相当低い。というか、ないだろう。俺が悪かった。頼むから糸を垂らしてくれ、だ。
 そんな俺にアカヤは哂いながら聞いてくる。
「あんた面白いな。無表情っぽいのに、さっきからなに一人で浮き沈みしてるんスか?」
「当たり前だろうが。死ぬってことがこんなにあっさりで、おまけに現世の行いのどこがどう悪かったのか、 地獄行きだ。俺の拙い人生を振り返りたくもなる」
「あんた死んでないけど?」
「死にもしないでどうして地獄に落とされるんだ!」
 違う! 論点ズレてる。死んだの生きているのではない。どうして俺がここにいるのかだ。あぁ、もうホントウに 壊れてきた。
 だが、いまコイツなんて言った?
「えっ? 死んでない?」



「そう簡単に死ねるもんか」
 当たり前のようにアカヤは言う。
 俺は何度も瞳を瞬いた。
 気を失う前の、あの攻撃だか衝動だか爆発だかが、誰の手によってもたらされたかは、 混乱するから置いておいて――本当は気になって仕方ないのだが――確かに弾けて墜落した覚えはある。 あれによって俺は死んだのではないのか? 不本意ながらそう理解していたのだが、この男は違うと言う。
「あの……」
 俺の混乱をよそにアカヤは逃げた俺を追うように、また急接近してきた。
「王はあんたのこと色気ないとか言ってたけど、眼鏡取っちゃうとスゲエ別嬪じゃない。その切れ長の 瞳さ、リリスの片鱗しっかり残してるよ」
――リリス。
 迷ったときは根本に立ち戻れだ。自分のプレイに違和感を感じたら、まず素振りをが信条。俺は少し背を 正してアカヤに問うた。
「つかぬことを伺うが、リリスってなんだ?」
「そこからきたか」
 アカヤはヘラリと笑うと囁くように語りかけてきた。
「アダムの妻にして、そいつに愛想をつかして天界を逃げ出した堕天使。そしていまは魔王の妻。 誰もがその色香に惑い翻弄されて身を滅ぼす。当代随一の魔性の女さ」
 言うにことかいてそう来たか。
 だが俺はもう驚かなかった。近頃環境順応能力が長けてきたな。俺の前世が人間の男じゃなかったという 説に多少引き気味だが、あり得ない話じゃない。羽根が生えていようが魔性の女だろうが、 四本足以上の動物じゃなくって安堵した俺って、相当頭は柔らかいと自画自賛してみる。
「アダムって、本当に存在したのか? ウイリアム・アダムスなら確実に知ってるが」
「誰? それ」
「試験に出る。いや、それよりもアダムの妻と言ったらイブじゃないのか?」
「イブ? そんなのいたのかな?」
「俺の知ってる話はそうだぞ。二人して禁断の実を食べて楽園を追い出されるんだ。小学生でもそう答える」
「ふうん。じゃあ後妻でももらったんだろう」
 聖書に登場されるお方も、コイツにかかるとえらく人情味溢れると関心していると、
「また、あんたがアダムを捨てた訳ってのがサイコーでさ、あのおっさん、奥さん――つまり、あんた相手に 異常プレイがお好みで、それが厭で愛想を尽かして逃げ出したんだぜ」
 覚えてる? とアカヤは口の端を上げて哂った。



 俺は顔面の毛穴から血が吹き出るかと思った。
 却下だ。
 なにが人情味溢れるだ。下世話すぎる。
 異常プレイってなんだ! 異常プレイって! 大事なところをイチジクの葉で隠しただけの露出狂じゃなかった のか、アダム?
 俺は矢鱈と尻の辺りの座りが悪い。だが続きが気になる。俺のこと、だそうだからな。
「それでリリスは天界を逃げて魔王と再婚したって訳か? またどうして?」
「その頃王は天界を裏切って反乱軍を組織してた時期で、王自身ルシフェル(明けの明星)の称号を頂く 大天使長だった。神からもっとも愛され、唯一玉座の右側に侍ることが許された人だったんだ。天使の中でも 最高の気品と美しさを備えていた」
「ふうん」
 思い切り棒読みの相槌だ。全然想像できない。厳ついってイメージしかない。どう見ても生まれついての 地獄の門番だろう?
 確かに悪魔って元天使さまだったんだな。天使。天使と。ダメだ。ピポピポってイメージソングが頭を離れない。
 あれがどのツラ下げて元天使だと?
 俺は爆笑しそうになるのをなんとか堪えた。腹筋が痛い。
 けど、そういう俺の前世のリリスって女も元天使だったんだ。やばい、人のこと哂えない。
「で、リリスはそいつに惚れて一緒に堕天?」
「そうだと思うけど」
「どこに惚れて?」
「さぁ? 俺に聞かないでよ。あんたのことでしょうが」
「ヤツが異常性愛愛好者の色情狂じゃなかったから?」
「あはははは!!」
 アカヤはベットの中の俺の膝辺りにうっつぶして爆笑している。あんた、サイコーとか褒められたが、 最初の旦那と性の不一致で別れたのなら、特にその点には留意するだろう。奥様電話相談室みたいな 発想だが、変なことを言っただろうか?
「いいな、あんた。リリスはそんなボケかましてくれなかったもんな。王との対面が楽しみだ。 さぞかし戸惑うだろうな」
「そういえば――サナダの怪我はどうなんだ!」
 そう叫んだ途端、ズンと低い地鳴りのような音が聞こえた。







つづく んです