旦那さまは魔王?



(2)ウソ!





 ああ、災いだ。災いだ。



「よう、久し振りだな」
「アトベ――」
 風が色を変え砂塵を巻き上げ、見慣れぬ風景とどこか見覚えのある感覚とがない交ぜになって、俺は 途方に暮れる。思い切り所在ない筈の緊張感を見知っていると何かが訴える。
 なにを言ってるんだ。
 俺は脳震盪を起こしそうなくらいに何度も頭を振った。
 なにも知らない。既視感を覚えたりはしない。
 それでも、ジリジリと肌が焦げるように俺の中でなにかが苛む。
 六人の異形の者たちがその距離を縮め、俺は脇に逸れる形で後退った。体が自然と逃げを打った。
 とても久し振りに会った旧友同士が、懐かしさの余り抱擁するような雰囲気ではない。それくらい俺に だって分かる。怒りと敵愾心の火花が盛大に散っている。闖入者の乱入で俺への注意が逸れた この機に逃げ出した方が懸命だ。訳の分からない感覚などあとで省みればいい。いまは、と。
 だが、ジリと一歩踏み出したその行く手を阻むように、先ほどの眉間にシワの男が俺の腕を取って拘束した。 まるで新客から後ろに隠すようだった。しかも、信じられないようなバカ力で。
 俺は精一杯毒づく。
「気安く触るな! 自慢じゃないがこれでも俺は中学生ながら、将来はプロを約束された身だ。知らないだろう から言ってやるが、日本テニス界の至宝なんだぞ。俺の黄金の左腕を潰す気か。お前はライバル校の刺客か!」
 と本気でそう思いたい。その方が断然精神衛生上好ましいだなんて哀しくなって その手を思い切り払うがヤツは、
「俺から離れるな」
 と、低い声で囁く。冗談じゃないと俺は声を荒げた。
「お前たちの仲間割れに関係のない者を巻き込むな。離せ。俺は帰る。楽しい余興だったが、きょう見たことは 忘れてやる。最も言ったところで誰も信じないだろうがな」
「関係がないだと。随分とふ抜けたものだ。ふん。本気でそう思うなら、あいつらにもお伺いを立ててみろ。 ヤツらもお前を狙っているのだぞ」
「なんだと」
「お前をヤツに渡す訳にはいかない」
 睦言のような科白をサラリと吐きながら、眉間にシワの男は腰に佩いていた剣を抜く。 砂塵の中から姿を現した三人の闖入者たちも同じように抜刀していた。
 先頭に位置するのは泣きボクロの男。俺とヤツを交互に認めてヘラリと哂い、弄るような声を上げた。
「会えて嬉しいぜ、サナダよ。何処にも姿がねえと思ったら、こんなところで起死回生の切り札 探しか? 首尾よく見つけたようだがな、それをお前に渡す訳にはいかねえな」
「随分と暇なようだな、アトベ。俺のあとをつけて来たか。しかも貴様がこれを手にしたところで、なんの 効力もなかろう。分かっていて邪魔する辺りが子供の駄々となんら変わりはない。手に入らぬ月を見て欲しがる のも大概にしろ」
「なんだと」
「お前には無理だ。俺の邪魔ばかりに腐心していないでさっさと立ち帰り、お前を誉め称えるだけシンパに 囲まれて悦に浸って丸くなるがいい。己の力のなさを呪ってな」
「ハン。言ってくれるぜ。効力がないかどうかなんて誰にも分からないだろう? なぁ、力を失いつつある魔界の王よ。 案外、王を見限ってリリスも力ある者に靡くかも知れねぇんだぜ。いまやオレさまの力は貴様を陵駕しつつある。 自覚がないってんなら思い知るがいい!」
 そうなったときのお前のツラが見ものだ、とアトベと呼ばれた闖入者は地面を蹴った。
「アカヤ!」
「任せなって」
 途端、サナダを先頭にヤナギともう一人、アカヤと呼ばれた小柄な男が俺を守るような包囲網を敷く。
 正直言って迷惑だ。逃げられないじゃないかと、俺はシフトの隙間からなんとか逃走しようと隙を伺う。
 俺の左右に位置する二人の意識は前方に向けられている筈。いましかないと後方へ走り出そうとしたまさに そのとき――
 一直線に突っ込んでくるアトベの背後から、巨大な塊がその重量に反して空を駆け、 信じられないような跳躍を見せて――羽があるから当たり前か――俺たちの背後に着地した。 俺は逃げ道を完全に塞がれてしまった。
 と、いうよりも完全に俺たちは後を取られている。
 たち? なぜ、俺たちなんてひと括りに思ったんだろう。
 無関係だ。被害者だ。素人相手にドッキリだと、口にしたところで、この状況になにかがリンクする。
 どこかが共鳴する。
 頭痛すら起きる。
 背中が疼く。
 なぜ、背中が――
 緊迫した場面で俺はそんなことを考えていた。



 背後に飛来してきた男は着地の態勢から立ち上がりゆっくりと振り返った。一見愚鈍そうに見えるが、 天を突くような大男だ。それに比例して羽の根元も太い。やはりあのゴツイ男を飛ばそうと思えば、 あれくらいの太さと大きさが必要なのかと、俺はイカロスかライト兄弟のようなことを考えていた。
 余裕からじゃない。こんな人に在らざる者たちの中で俺だけなんの力もない恐怖からの反動だ。 ついでに構造くらい考えていないと叫び出しそうになる。
 背後にそびえ立つ大男の存在が巨大で、ヤナギとアカヤは二人がかりで挑む態勢だ。 当然、眉間にシワのサナダは残る敵二人と対峙していた。
 まったく冗談じゃない。
 逃げなければと思いながらも、ほんとうにこの俺が渦中なのかとやつらの言質を反芻したりする。 あり得ないと愚痴りながらも、背後で守られて身を震わせるなんてガラでもないと矜持が頭をもたげる。
――ばか正直に相手の言葉をなに鵜呑みにしてるのさ。
 辛らつなチームメイトの言葉が過ぎった。
――純粋培養だなんてね、小学校低学年までにしか当てはまらない言葉だよ。君がいまのいままで誘拐やら 陵辱やら巻き込まれなかったのは、ただ運がよかっただけって認識しとくといい。
 続けてそんなことも言われた。
 確かにそのツケが一度に襲ってきたようだ。
 それでも不二、と俺は立ち位置を変える。
 どちらが敵かなんて分からないくせに、剣やらサーベルやらをなぎは払った相手に正気の沙汰ではないと 思いながら、俺にはこれしかないとラケットを取り出し、ゲームを決める渾身のファーストサーブをお見舞いし てやった。
「サナダ! 動くな!」
 俺のサーブは微動だにしなかったサナダの肩先をかすめ、アトベの羽の付け根にめり込んだ。 二撃目、三撃目も同じ位置にクリーンヒットする。
「うわぁ!」
「アトベ!」
 アトベが肩を抑えて仰け反る。どうやら羽の付け根は弱点ぽい。
 ざまあみろだ。昔っから俺のサーブの正確さと威力には定評があったんだ。落ち葉を狙い、切り株を 押し倒した伝説さえつくった男なんだからな。
 ふん。
 しまった。アップなしにイキナリファーストサーブなどアスリートの風上にも置けない。
 しかし、それでも得意げに顎を上げている俺がいた。だが、こんなこといつまでも続かない。 出会い頭のカウンターは相手の足を止める効果にしかならない。第一、ボールだって籠に一杯持ち歩いている 訳じゃないんだ。こんなところで部長の俺がタマ拾いをする訳にもいかないし。
 部長は関係ないか。
 しかし、奇襲の意味をサナダは知っている男だった。多少たじろいだアトベの目睫にまで脱兎の如く突き進むと、 その喉元に刃をつき立てていた。
 アトベたちは身じろぎ一つできないでいた。
「アトベ!」
「動くな、オシタリ」
 アトベの隣にいた眼鏡の男にサナダは牽制する。
 素早い動きだが、やはり飛ぶよりも走る方が早いんじゃないか。俺は腕組みをしながらその光景を 見守っていた。



 背後の巨漢の男も頭たるアトベを抑えられて動けないでいる。アトベの隣にいたオシタリも刀を構えたまま 肩を震わせていた。
 嫌になるくらい長い間、サナダは動きもしないでその状態を保っていた。 きっと動けないのではない。アトベに与える屈辱の時間を、ひと時でも長く維持したかったんだとは、 サナダの次の言葉で分かった。
「いい格好だな、アトベ」
「貴様!」
「目論みは外れたな。どうやら俺はまだ見捨てられていなかったらしい」
「あとで吠え面をかくなよ!」
「あとなんかあるものか。お前の存在はここで消える。堕天使の証を綺麗すっぱり と切り落としてやろうか。それともそのよく回る舌を抜くのがいいか。首を落としてしまうのは余りに 詰まらんからな。ひと思いには殺さん。誰に立てつこうとしていたのか、思い知るがいい」
「オレさまに指一本でも触れてみろ。オシタリが貴様をぶった斬る。俺を手に掛けて無事でいられると思うなよ!」
「さてそれはどうかな。この距離と実力の差は如何ともし難い。お前を屠ったあとでオシタリをも後を追わせて やる。お前一人ではさぞかし寂しかろう? 取り巻きがいないとなにも出来ないだろうからな」
 そら恐ろしい会話のあとでトロリとサナダが残虐な笑みを浮かべ、剣の角度を変えたのがその 反射で分かった。そんなつもりでアトベを狙ったんじゃない。大事に至らないようにとこの期に及んでも 俺は似非平和論者のようなことを考えていた。
 見たくないんだ、これ以上。
 我慢できなくなって俺はつい叫んでしまった。
「止めろ! サナダ!」
 それはただ、サナダの行為を止めたくて、別にアトベたちに反撃の機会を与えるつもりなど毛頭なくて、 ただそれだけの言葉がサナダを躊躇させた。その隙をアトベたちが見逃す訳もなく、サナダの剣を弾いた アトベのサーベルは、下方向から綺麗な弧を描いて払い上げられた。
「つっう!」
 サナダの背が邪魔になってよく見えなかった。
 見えなかったが、迸る鮮血と飲み込まれた悲鳴と、そして僅かに傾いだサナダの上体が俺の放った言葉の 意味を物語る。
 ドクリと心臓が高鳴る。
「サナダさん!」
 アカヤが俺の傍を通り過ぎた。そのままアトベとオシタリに向って突っ込んでゆく。左腕を押さえたサナダ がその場から一歩退いた。
 そこから血を滴らせながらもサナダはヤツらと対峙したままだ。引こうとはしない。サナダの左足元には 血溜まりすら出来ている。腕は繋がっているのかと疑いたくなるような失血量だった。
 羽があろうが、正気の沙汰とは思えない格好だろうが、眉間にシワがあろうが、不機嫌丸出しだろうが、 傲岸不遜だろうが――そして、信じたくは ないが魔王だろうが、出血が多いと死ぬのではないか。
 俺は惹かれるように一歩踏み出す。背後でヤナギが、動かないでくださいと冷静に語りかけるが、俺の 足は止まらない。そんな俺をチラリと認めてアトベは意味深な科白を吐いた。
「つくづく甘いヤロウだ。同じ轍を踏むとはな。リリスに溺れ裏切られても、半身を捜し求め続けるあんたが いっそ不憫に感じるぜ」
 溺れ、裏切られ?
「なにを言っているんだ――!!」
 頭で否定しながらもどこかが諾と叫んでいる。
――またしてもお前を守れないのか。
 一歩踏み出すごとに意識のようなものが俺の中に流れ込む。
 知らない。だれのことだか分からないと叫んでも、否定の言葉は俺の口から零れることもなく。
 長い悠久の時間を越えてゆったりと目覚めよと覚醒を促す。
 アカシックレコードのように体の中に刻まれたものが出口を求めてうごめく。うねりを上げる。 俺であって俺でないものが身のうちから湧き出る。
 溢れ出しそうで止まらない。
 そんな俺をサナダは蒼白な顔のままでチラリと伺った。
 あの日と同じ無表情のままで、突き放したときと同じように何かを抑えて俺を見る。
――あの日ってなんだ!
 俺の叫びは、いま一度振り上げられたアトベの刃が上げる悲鳴と共に喉奥に飲み込まれた――







つづく ノネ