肩の傷には簡単な治療を受けて、薄暗い営倉の中で三日間の謹慎処分を受けたシードは、幾分面やつれして 下界に釈放された。意気消沈しているかと思えば意外と元気そうだったと、クルガンの下についている 若い補佐官から聞いてもいないのに報告を受けた。 ソロン・ジーに刃向かい挙句の果てに皇子から粛清を受けた候補生を、温かい目で見守る者はいない。 軍団長はおろかハイランドそのものを口先だけで冒涜したと、下士官たちからの評価も厳しい。 当然の扱いだが、シードの剣技には瞠目するものがあった。いまのルカ相手にあれほど拮抗 した力を持つ者を彼は知らない。流石に傭兵部隊で凌ぎを削ってきただけのことはある。二十歳に満たない 若さでも実戦が彼の矜持を支えさらに飛躍させる。いま少しのペース配分と狡猾さを身につければ、とてつもない 将に育つだろう。 だから最後の一撃をルカは手加減した。あのような甘い断罪など考えられない。 羨ましいとでも思っているのかと、クルガンは手にしていた書類を伏せた。鬱積したルカのそれよりも、さらに しなやかな動きを見せた紅い獣に。 人目を惹くということはそれだけ的にされ易い。戦場にあっても同様だ。ユーバーの下にいて、掻い潜って来た 剣戟と死線の数は他を圧倒するだろう。 剣を合せてみたいとただそう思う。恐らくルカにもそう思わせたのだろう。また合せたいと。そして惜しいと。 大したものだと、クルガンは机を離れて窓を開け放った。 その後四週に及ぶ過酷な訓練にも倍の負荷を与えられたシードだが、それも難なくクリアしたという話も補佐官から聞いた。 「見直したっていうヤツも出てくる始末でしたよ」 第三軍団副将に与えられている執務室。一息つきましょうと補佐官が姿を見せた。 クルガンの補佐についている下士官はニコリと笑って、茶葉がゆっくりと開く頃合を見計らってカップに注いだ。 その香りに惚れて紅茶は彼に任せてある。 「わたしも経験しましたが、訓練規定をオールクリアできる者なんて、年に一人出るか出ないか、だそうじゃないですか。 それをあの人は二倍量をこなして、ケロリとしていたらしいです」 クルガンさまもクリア組みのお一人でしたね、と微笑むと彼は芳しい香りを湛えたカップを差し出した。 誇大がなければまさに獣並みの体力だ。その当時、クルガンをしても体力温存のために、最小限の動きでいかにして 効率よく攻略するか頭を悩ませた覚えがある。 しかし当然だろうとも思う。一般的なコースを外れ、実戦についていた者に対して、今更何ゆえの訓練だと、 あの日のシードの怒りが理解できた。 そうまさに今更だ。 「クルガンさまはアイレイ家をご存知でしょうか?」 カップを持つ手を止めて思案していたクルガンに彼は唐突に尋ねてきた。ああ、といらえを返してクルガンは カップをソーサーに戻す。 「この世界に身を置いていると、どうしても聞こえてくる余りにも有名な一族だな。それが何か?」 「シード・アイレイ。本家の次男だそうですよ」 彼の言葉には多少の蔑みがあった。交易で莫大な資産を得た先代が、湯水のごとく金銀をばら撒いて貴族株を 買ったという一族だ。当然羽振りはいい。それに群がる者もいるだろう。だが、上流社会はアイレイ家の進出を 一切認めていない。頭を下げながらも蔑む。どちらの心根が卑しいか分かりそうなものだが、彼らには彼らなりの 矜持で自分を保っている。 「と、すればその大切な二番目にも、財力に目を言わせた楽な出世コースが用意されていても可笑しくはないな。 なぜそうしない?」 「そうですね。不肖の息子には、ということでしょうか?」 補佐官は時計を確認すると、にっこり笑ってクルガンを促した。 「そうそう皇子がお呼びです。ルカさまの執務室にまでおいで頂くようにと、ソロンさまから仰せつかって きました」 「なぜそれを先に報告しない」 「多少の時間の猶予を頂戴しています。クルガンさまは働きどおしですから、紅茶の一杯、口にする時間を 浪費したところで罰は当たりませんよ」 くすりと微笑んでクルガンは上着を取るために立ち上がった。 「おまえはまったく優秀な補佐官だよ」 指定されていた時間よりも少し早くルカの執務室に着いたクルガンは、その場に居並ぶ錚々たる面々に 扉を開けた状態で立ち止まった。 皇子ルカを筆頭に近衛部隊長兼第二軍団長ハーン、第三軍団長キバ、そして第四軍団長ソロン。 ほぼ御前会議の様相だ。 ルカは大きな窓に手をかけ背を向けたまま。他の三将軍はソファに腰掛けている。クルガンの姿を認めた キバが小さく頷いた。それを機に遅れた詫びを入れたクルガンにキバは首を横に振る。 「いや、あと一人。呼ばれている者がおる」 もう一人と呟いて彼はキバの横に腰掛けた。ルカは身動き一つしない。重苦しい雰囲気を払拭させようと、 ハーンが軽快な調子で語りかけたきた。 「クルガンの成長振りは著しいと聞いておるよ。統率力も若手の中では群を抜いておる。キバどのも 安心して後を任せられますな」 「なんの。まだまだ頭でっかちの青二才ですわ。まぁ、これが私の下についてくれて、仕事がし易くなったという のは事実ですがな。配慮が細かいので助かっております」 「厳しいで有名なキバどのからの及第点じゃ。クルガン、給与をあげてもらえ。それが敵わなければいつでも 言ってくるのだぞ。早々に近衛部隊に配属願いを出してやるからな」 「それは困りましたな」 老将二人は闊達に笑った。つられてクルガンも口の端を上げるが、目の前に座しているソロンは厳しく 口を真一文字に結んだままだ。訝しげに視線を合せた。ソロンはそれを撥ねつける。ご機嫌は宜しくないようだ。 「ときに、いまや王国軍一のはねっ返りのあの男、候補生訓練を近来でも類をみないほどの成績で終了させた ようですな。わたしの耳にも届いております」 「シードのことか。あれにはもう少し痛めつけておいて頂いた方がよかったという気がしないでもない。 人前で肩を射抜かれるくらい、もう何とも思っていないだろう。どういう訳か、ルカさまは 手加減をされましたし」 首を伸ばしてハーンが問いかけるがルカは無反応なままだ。変わりにクルガンが前のめりになった。 「ハーンさまはあのシードとかいう男のことを以前よりご存知でしたね。ニュアンスにそう感じさせるものが ありました。それと、彼をユーバーの部隊に放り込まれたのはハーンさまなのではないですか?」 不躾を承知で疑問を口にしてみた。他人の動向など気にならない性質の筈が一体何を拘っている。珍しいと 眼を細めたのはハーンだけではない。口にして一番驚いているのはクルガン自身だ。 「そう、あれは士官学校での入学式だった。儂も出席しておってな。今回と同じようなひと悶着を起こしてくれた。あの男も成長がないと いうか、何というか」 何をしたかは安易に想像がつく。 「しかし当時からその素質には眼を惹くものがあった。士官学校でもやりたい放題だったそうだ。 学校長と儂は旧知の仲でな。卒業の折に相談を受けたのだ。あれをそのまま士官候補生として登用しても よいだろうかと」 「それ程の問題児、除名という手段はお考えではなかったのですね」 「剣技の鋭さはルカさま以来だったそうだ。それは認めると。しかし使い物になるかどうかもわからん。だが 捨て去るには惜しい。そこで傭兵部隊にという案が出た。一気に実戦を経験させて、周囲から真っ当な評価を受けることが出来れば、 少しは周りの空気を読み、落ち着きを見せるかと思っていたが――」 ハーンは言葉を切った。一人の人間にかけるにしては過ぎた気遣いだ。功を奏したとも思えないが、 間違いなくハーンはシードのために誂えた舞台をつくり上げた。 いち早く力をつけさせて上に引き上げるための。 そうさせるだけのものがあった。 思い至ってクルガンは長い嘆息をつく。我ながら眩暈がしそうなほどの妬心だと。 一気に降りた重苦しい雰囲気も、扉を開け放たれて飛び込んできた赤毛の男の一言が打破してくれた。 「あっすみません。遅れて。俺、迷っちゃったみたいで。こんなに広いんだから標識つけといて欲しいスよ。 ここって誰も彼も不親切だ」 どこまでも一方通行なペースの持ち主だ。どの部分がそうさせるのか、ハーンはやや相好を崩している。 だがクルガンには、ソロンの不機嫌の訳の方が心情的には近かった。 「我がハイランドには、ハルモニア神聖国より賜った”獣の紋章”が存在する。それは皆も周知のことだ。 荒ぶる魂と激情を司り、生物が持つ残虐性を呼び起こし力を引き出す」 ハーンが窘めるように眉を下げているほかは、ピシリと硬質の音を立てるような気まずさの中、頭をかいて 突っ立ったままのシードを置いてゆくような形でルカは語り出した。 「それは上位紋章などが束になっても敵わぬほどの力を秘めているという。その”眷属”を我が物としたい」 恬淡と告げられたその言葉に反応する者はなかった。まったくビジョンが見えてこなかったからだ。 しわぶき一つない執務室で、ルカの射るような視線だけが通り過ぎる。コホンと咳払いをして真っ先に我に返ったのは ハーンだった。 「我が物と仰いますがルカさま。具体的にどのような方法で得て、そしてどのように使われるのかお教えください」 「ハルモニアの神官に調べさせたところによると、どの土地にも悠久の歴史の中で憎悪と怨嗟を飲み込んだ念が 渦巻いている。それは時に地揺れとなり一部開放され収束するという、際どい均衡を保っているらしい。その力と紋章とを 呼応させ紋章の力を最大限に増幅させる。”獣の紋章”は生きた兵器となろう」 ハーンとキバが顔を見合わせた。ソロンは瞑目したままだ。将たちはルカの次の言葉を待った。その暗黙の 決め事を――はい、と空気を読めない男が打ち破った。 「お聞きしたいんですが、その魔物だが眷属だかの力を使ってこれから戦を続けるんですか? んじゃルカさまの これからの戦略に俺たち軍団は添え物ですか?」 ソロンが控えろときつい叱責を飛ばすがシードは聞き流している。俺たち軍団などとお前が言うなとはクルガンの 感想。当のルカは気に留めていない。 「貴様は何者だ。そして俺は誰で何を成す?」 「俺は軍人でルカさまは皇子でしょ。で、都市同盟を壊滅させて、この地にハルモニアに対抗できるような 勢力を拡大する。違いましたっけ?」 「当然だ。それには己が剣でヤツらの屍を築いてゆく。紋章の力など借りぬとも都市同盟は一掃してくれよう」 「じゃあ何で欲しがるんですか?」 「人智を凌駕した紋章の力は、奴らを恐れ慄きさせ、戦意を喪失させるためにあればよい。ハイランドの力を鼓舞 させることもできる。だが、紋章の力はそれだけでは食い足らんだろう」 ルカはペロリと唇を舐めた。 「その牙は都市同盟だけでなくハルモニアをも食い尽くす。フンあの神官どもは、まさかそれが己が喉元に食らいつく とは夢にも思わんのだろう。くだらん輩だ」 クルガンはスッと眼を細めた。 撃砕する力こそが総てと豪語するこの皇子は、大国ハルモニアを相手にでも紋章の力などアテにはしていないと いうのが正直なところ。一度戦場に出ると鬼神と化し斬剣を容赦なく振るう。その皇子が紋章の眷属を――。 なぜか感じる座り心地の悪さにクルガンは顔をしかめた。 「で、ルカさま。このお歴々の中に俺を呼ばれた訳は何なんですか?」 本当に理解したのかシードは質問を変えてきた。誰もが口にしたかった言葉だ。一同の視線が集中する中、 ルカは上機嫌で言い放った。 「キバとソロンに申し伝えておく。決行は明朝。それぞれクルガンとシードを借り受ける。指定場所は 各人に伝えることとする。以上だ」 「二人だけですか? どの軍団もお出しにならないと?」 「騎馬隊も歩兵部隊も役には立たんだろう。必要ない。クルガンの”雷鳴”は使える」 そして、とルカはシードを振り返った。 「貴様、見かけに寄らず”流水”の紋章を宿しているそうじゃないか」 continue |
絶対酒豪でザルでワクだろうと、シードんちはアイレイ(アイラ)と
名づけました。ウイスキーつくりに欠かせないビートの原野の島だそうです。
だもんでクルガンちもその系統で名前付けます。 でもあたしは完全無欠な甘党下戸。ウェブで調べたけど よく分からんの。 |