綺麗に積もった白銀からの照り返しによって、いつもより一層朝日が眩しく感じられる翌日。悪酔いするほど 嗜んだ訳でもないのに、痛むこめかみを押さえながらクルガンは林立した支柱の回廊を執務室へと急いでいた。 中庭を見渡せる辺りまで進むと、整列した兵士たちに訓戒を論じている第四軍団団長ソロン・ジーの姿を見つけた。 遠征のために延び延びになっていた新人たちの入団式という訳だ。 嘗てはその場で神妙に頭を垂れ、幾分高揚した気分を味わった覚えがある。 クルガンは回廊を回る間、聞くともなしにその言葉を聞いていた。 「貴様たちは本日より私の指揮下に入る。我が軍団は戦場にあっては実戦また実戦の部隊だ。当然実力と度胸が なくては勤まらない。貴様たちが士官学校で何を習ってきたかは知らないが、ここでの訓練はまさに過酷の 一言。臆病者が一人混じるだけで部隊全体の士気が下がる。恐ろしいだの命が惜しいだのは未熟な貴様たち が口にしてよい言葉ではない! 捨石だと思え。盾と思え。その積み重ねが一人前の士官としての実績となる。 駒の一つに数え上げられるのが嫌なら、名を上げろ。力を示せ。のし上がって来い」 ハイランド王国軍を統括する皇子ルカは、徹底的な実力主義者だ。家柄などに頼らない潔さがある。力が あれば重用されるし、衰えたと判断されると捨て去られる。それは何も一兵卒に限らない。将軍職にある者が 判断ミスや怯懦を見せようものなら、即その場で皇子の刀の錆とされてしまうだろう。 ハイランドでも有数の名家の出であるソロン・ジーにも、ここ数年で骨の髄まで叩き込まれた教訓だった筈だ。 衣を借る狐ではいられない。 敬意を払って少し瞑目した。 「あすより本隊を離れて基礎訓練に入ってもらう。学校の延長だとタカを括っているとエライ目を見るぞ。 貴様たちの基礎の底上げを狙う意味で行われる訓練だ。当然ついてこれない者は学校に戻されるか除隊という措置も取られる。 それをクリアした者だけが本隊と合流だ。心してかかれ」 新人殺しの地獄の訓練だ。今回は何人残るのかと思っていると、 「ふあ〜」 緊張感の欠片もないような欠伸をする者があった。 士官候補生たちの間に声の主を探しての動揺が走った。ソロンは顎を上げて睨み据える。平静を取り戻すのに 時間がかかっているようだ。クルガンはチッと舌打をした。 「いま声を出した者は誰だ」 震える喉と怒りを抑えてソロンは低く呟く。それでも聞き取れるほど、中庭には異様な静寂が支配していた。 「誰だと聞いている。目上の者に敬意を払えぬ者に士官の称号は与えられない。士官は兵たちの模範であれが 王国軍の教訓の一つだ! それを守れぬ者に用はない。決まりごとがそれほど退屈ならば、いますぐ荷を纏めて出てゆけ!」 「だってさぁ」 はい、とばかりに手を挙げて見事な赤毛が同胞をかき分けて前に出た。 やはりあいつか、とクルガンには溜息しか出ない。まったくソロンも貧乏くじを引いたものだ。気の毒としか 言いようがない。 「……貴様か」 嫌悪感も顕わなソロンの言いように、クルガンの足が止まった。 「未熟だとか駒だとか勝手に決め付けてまた訓練ですか。ひと括りに新人って仰いますが、能力には個人差があるんだ。 底上げだか何だか知りませんが俺にとっちゃ時間の無駄です。さっさと本隊に配属してください」 大きく出たものだ。実情を知らない新人にはありがちだが、ここまで厚顔なヤツも珍しい。何れにしても あすからの訓練でその突出した矜持も叩き折られるだろう。現場はそれほど甘くはない。 「貴様の場合は軍隊という集団の何たるかを一から教え込まねばならないようだな」 「教え込まれましたよ。三年間もユーバー部隊でみっちりとね」 「個人技と非礼をだろうが」 「試してみますか? 軍団長を倒せば訓練は免除してくださいよ」 「俺に勝てるとでも思っているのか。ケツの青いガキが」 ユーバーの傭兵部隊に三年間。あり得ないとクルガンは思った。自国の士官候補生が配属されるような部隊では ない。たしかにユーバーは異様なほどの技と力を持つ軍団長だ。しかし無国籍の傭兵や荒くれ者の巣窟。そこに学校を卒業した ばかりの候補生を放り込むとは無謀を通り越している。 ソロンが鞘を払って剣を抜く。補佐官に合図を送り赤毛の男にも同じような剣が放り投げられた。それは 空を舞い、光を弾いて男の手に収まった。当然真剣だ。 止めなければと前に出たクルガンを制する者があった。 「待て」 声を放って押し留めたのは皇子ルカだった。背後に控えているのは、皇都ルルノイエを警護する第二軍団長のハーン・カニンガム。 嘗ては第一軍団を率いて都市同盟と何度も血戦を繰り広げ、不世出と謳われた英雄のお出ましだった。 「騒動を起こしましたことをお詫びいたします。礼の何たるかを知らぬ候補生に、軍の厳しさを教え込もうと していた次第です」 礼を送り一歩下がったソロンの言い訳を流してヘラリと哂い、ルカは自らの剣を抜き払った。 「なかなか愉快な酒肴じゃないか。せっかくだ。この俺が相手をしてやる。構えろ」 ソロンを初め将たちが狼狽えた。これ以上騒ぎを大きくしてどうするつもりだ。ソロンの声はほとんど悲鳴に近い。 「ルカさま! ルカさまのお手を煩わせるほどの――」 「控えろ。俺がいいと言っている。そこの小僧。俺では不足か?」 剣を受け取った赤毛の男は切れ長の目を見開いているが、純粋にその展開を楽しんでいる。楽しくてしょうがない とでも言いたげにニコリと笑った。 「歯は潰していませんね」 「当然だ」 「手加減はナシということで」 「貴様と俺のどちらかの死体が晒されるまでな」 「俺がルカさまを傷つけて、家族にお咎めはありませんか」 弾かれたようにルカは爆笑した。目に涙まで溜めている。周囲がざわめいた。いままでのような、愉悦の笑みか周囲を鼓舞 するための大笑とは違う。ひょんなことから剥がれた狂皇子の意外な一面に、面食らっている者もいる筈だ。 「貴様のようなヤツでも家族の心配をするのか」 「老いた両親に咎は及ばないようにお願いします」 「今更何を言っている。騒動を起こした段階で迷惑をかけているのだろうが。それに、いらぬ心配は、 手傷の一つでも負わせることが出来てから吼えるんだな」 「仰るとおりです。では、お相手を仕ります」 初めは儀礼正しく剣を合せた二人の打ち合いは、相手の技量を伺う様相も赤毛の男が利き手を伸ばした 突きから一転した。ルカはそれを最小限の動きでかわして、ガラ空きの逆手から胴に向けて同じような突き。 男も半回転してそれから逃げる。逃げた軸足を起点に剣を繰り出した。ルカはそれを難なく弾く。 いまは平時。互いに甲冑は装備していない。歯の潰していない真剣では、当たり所が悪ければ当然死に至る。 そんな危惧など範疇でないかのように二人の攻撃は情け容赦がない。 初冬のまろやかな日差しを浴びた中庭は一転して息苦しい空間へと変貌した。 誰がどう見ても堂々たる体躯の皇子が圧倒的に有利。度胸も剣技も体力も十二分に備わっている。 それに反して赤毛の男は、どちらかと言えば上背はあっても線の細さは否めない。決着は早いだろうと踏んでいたが、意外と善戦している。 ルカの渾身の一撃をしなやかな動きでかわし、次の攻撃に転じる。繰り出された男の剣はルカの漆黒の髪の 間を裂いた。 「フン、なかなかやるな」 「畏れ多いお言葉です」 ルカの動きには破壊力がある。踏み込みも切り出しも重量級。剣を合せた者が臆する気迫で相手を圧倒する。 一方、赤毛の男の動きはしなやかだが冷静に対処しているとは言えない。無駄な動きも多い。 ルカと同質の気魂を叩き付けるような戦法だ。 クルガンならルカ相手にそのような戦い方はしない。熱したりはしない。いなしながら隙を探すだろう。 だが、この男は―― 「目筋がいい」 ついクルガンは感想を漏らした。それに気づいたのかソロンが近づいてきた。 「お止めしなければ」 皇子の身に何かあれば責任問題では済まされなくなる。入団式でこのような醜態は前代未聞だった。 「ですが、下手に止めれば逆にご不興を買ってしまいます」 「そうかと言ってこのまま諦観できんだろう」 「ご心配は不要かと存じます。ルカさまに敵う者などおりましょうか。可哀相だがあの男は自業自得です。 栄えある士官候補生たちの入団式を血で穢すような真似は出来るだけ避けたいですが、ここは見守るしか手はないのでは」 言ってからクルガンは、腕組みをしたままで二人の打ち合いを凝視しているハーンの方を見た。皇子を止められる としたら、幼きころより皇子の剣術指南役だったこの将軍以外に考えられない。勇猛にして己の士道を貫いている 将は、不要な殺生を嫌う筈だ。だが、当のハーンはどこか楽しそうにその光景を見つめている。 クルガンは歩み寄り、幾分恨みを含んだ声をかけた。 「ハーンさまが諌めてくださらなければ、この場にいる誰も皇子をお止めできません。幾ら儀礼を知らぬ男とはいえ、 士官学校を卒業させるにも国家の経費がかかっております。このような場で失うのも惜しいというもの。 お力をお貸し下さい」 ハーンはおとがいの豊かな髭に手を当てそうだろうかと短く尋ねてきた。 「先日のミューズからの撤廃でルカさまも相当鬱積するものがあったのだろう。随分お楽しそうだ。暫く よいではないか」 ハーンの言葉とも思えない。クルガンは眉をひそめた。 「あの男をルカさまのストレスのはけ口とされると仰るのか」 「そうではない。ルカさまも気づいておられる。シードは強い」 現にほら――とハーンが指を差したと同時に、男の剣がルカの手の甲を掠った。 周囲が息を呑む。 一筋の赤い迸りは、しなるように弧を描いてルカの頬にその軌跡を残した。ルカはそれを乱暴に擦ってニタリと 哂った。応えて赤毛の男も笑みを浮かべる。 「シード、と。ハーンさまはあの男をご存知なのですか?」 もしや、と問う間もなく血を見て狂喜したルカの猛攻が始まった。 いままで手加減していた訳でもないだろうが、タガが外れたようなルカの執拗な突きに男は防戦一方。 ルカの剣先は男の肩先を掠り二の腕を抉り、合わさりしなってまた遠ざかる。無傷だった男の衣服は朱に染まり出した。 それでも男は守りから攻撃に転じようとしている。けして引かない獣のような闘争心。 紅蓮と漆黒が絡み合い、互いを弾き、一太刀でも肉を抉ろうと挑みかかる。血塗られても男の表情は愉悦に 満ちている。それを認めてルカが鼻を鳴らした。 獰猛な、だれにも飼いならすことはできない肉食獣同士の食らい合いだった。 ここまで来て流石の男も荒い息を肩でついている。しかし―― 「ルカさま相手によくもここまで」 正直な感想だった。 「ルカさま。もう宜しいでしょう」 それまで諦観を決め込んでいたハーンが言葉をかけたそのとき―― 気が散じた男の隙を縫って、ルカの剣が肩辺りに食い込んだ。そして一気に引き抜く。反動で男の体が 後ろに仰け反った。 「ぐあっ!」 「ルカさま!」 仰け反りながらも倒れこむのだけは踏みとどまったようだ。男は肩口を押さえて大きく一つ息をついた。 それを認めてルカは視線を下げる。 「何に気取られている。相手の息の根が止まるのを確かめるまで気を抜くとは愚かな。その程度の腕前で よくも吼えられたものだ! この俺が鍛え上げた王国軍を舐めるな! ありがたく思えよ。利き腕は外してやった。串刺しにしなかった のは、貴様にかけた情けではない。暫くは恥辱に塗れて暮らすがよい!」 赤毛の男――シードは心底悔しそうに顔を歪めていた。痛みよりも不意をつかれた無念さの方が凌駕して いるのだろう。 「ソロン! 軍紀を乱した罪でこの小僧を三日間営倉に閉じ込めておけ! その後は二倍の負荷をかけて訓練 場に放り込め。殺してもかまわん」 そう言い捨てルカは中庭を出て行った。 continue |