Kingdom hearts
scene one
――おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり
春を待ち、雪が消えるか否かのギリギリの頃合を狙って大演習を行うという通達は、皇国第一軍団
を統括する皇子ルカの名を持って全軍に発せられた。
ハイランドの春は遅い。日中といえど下草に雪を含んだ悪条件だったが、狂皇子と呼ばれることを
諾と受け止め、評判どおりの振る舞いを自らに強いているルカにとっては、なんの障害でもない。
臣下の将たちも無謀だなどと口にも出来なかった。戦は時を待ってはくれないと、怯懦を疑われ処せられる
のが目に見えていたからだ。
「確かにそのとおりなのだがな」
皇国第三軍団団長キバは、副将であるクルガンを執務室に招いた場で小さく呟いた。クルガンは
否定も肯定もしないで小さく笑っている。
大きな窓から差し込む春待ちの日差しはやわらかく、空を舞う柳絮の儚げな姿が目に優しい。
戦い続けることでしか国力の増大と国威が維持出来ない小国の実情など、推し量れないほどの長閑さだった。
当面の敵、デュナン湖周辺地域が結集した都市同盟との戦は、現在こう着状態に陥っている。度重なる
出兵で各部隊が失った兵力も補充を済ませ、平坦に陥り易い個別演習を切り上げて、一気に底上げを成さしめる。
狂皇子ルカの苛烈な用兵にどれだけ耐えられるか確かめたいと、当の皇子はツラリと哂ったという。
各軍団から哨戒部隊を残した半分を、実戦さながらで一カ月。その分の輜重確保や衛生救護班の配備などは、
副将であるクルガンの仕事となる。早速手配をと立ち上がったクルガンに、キバは手を挙げて留めた。
「待て、クルガン。通達はもうひとつある」
「はい」
「副官以下には完全極秘だそうだ。お前の胸だけに留めておいてくれ」
「承知致しました」
クルガンは立礼を送った。うむ、と答えたキバの口調は確信めいていながら苦渋に満ちていた。
「今回の演習は、ここ何年かの中でもっとも過酷なものになるだろう」
「ルカさまが陣頭に立たれて安穏としていられたことなど、私は記憶にありませんが」
いつだったか、昼夜問わずほとんど不眠不休で執り行われた演習もあった。
三倍数の仮想敵が篭る城攻めという設定もあった。怪我はいうに及ばず死すら隣
合わせだ。調練で生き残れない者は戦場では尚更。あるいは足手まといでしかない。その存在を皇子は
許さなかった。
容赦なく斬り捨てる。ふるいにかける。だから演習はいつも実戦さながら。
しかし戦場はそれ以上に苛烈なのだ。
ハイランドが誇り、内外に畏怖される皇子はお飾りの張子ではない。自ら悍馬を駆り立て、眦を決し、
軍袍を血に染めて戦場を疾駆する。
雪原を氷解させ、矢の雨にも臆することなく、大地を震撼させる。間近にあればなおのこと、
一兵卒にいたるまで感化されずにはいられなかった。
文字通り命がけの演習を繰り返してルカがつくりあげた皇国軍。
多少時期が悪くとも猛将キバが眉をひそめる訳が分からない。
クルガンは大人しく次の言葉を待つ。
「おーい、クルガン!」
キバの執務室から退出し、演習出立までの残された時間を逆算しながら、各部署への伝達事項を
整理していたクルガンは、後庭に差し掛かり名を呼ばれて立ち止まった。
ハイランド軍広しといえど、仮にも第三軍団副将の彼を軽快に呼び捨てにする士官を他には知らない。
仲間同士で蹴球遊びに熱中らしきあの紅毛が、春待ちのいまだ冷たい風が切る中、アンダー一枚という格好
で大きく両手をブンブン振っていた。
第四軍団所属の准尉。そして狂皇子すら一目置く紅い悍馬。
夜行性の猫科を思わせる陰性のしなやかさを見せるかと思えば、陽の光の元では闊達な好青年らしい
顔も見せる。一筋縄ではいかないとの評判は伊達ではないし、どんな種類の縄を持ってすれば御せるのかと、
上司が頭を抱える問題児が、己の頬から流れる汗を弾きながら近づいてきた。
ほんの僅か――視線を絞り目を奪われ、歩を止めた己を恨みながら、クルガンは彼を一瞥すると通り過ぎよう
とする。昼休みに球技に興じるような輩に呼び止められる謂れはないし、彼にはその僅かな休憩すら与えられて
いないのだ。
「呼んでんのにムシすんなよな」
シードは、ズンズンと音を立てて歩くクルガン前方に回りこみ、後ろ向きで彼を覗き込む。風向きの
関係でシードからは上気した日向の匂いがした。
「相変わらず忙しそうだな。眉間の皺が五割増しになってるぞ」
「お気楽な誰かさんとかは立場が違うからな。そこをどけ。邪魔だ」
「手伝ってやろうか? ほら、いつかの恩返しで」
「お前の手を借りるくらいなら猫の仔を呼んできたほうが余程建設的だ」
立ち止まることもなく、真正面のシードを捉えることもなくクルガンは吐き捨てる。ひでぇ言い草と
顔をしかめながらもシードはやけに楽しそうだ。
「大規模な演習が始まるんだろ。いまから楽しみにしてんだ。怪我、治ってよかったよ」
「大規模な演習が始まるのですか、だ。言葉の使い方に気をつけろ」
「俺さ、傭兵部隊になんかいたからまったくのシロウトじゃないし、いまさらキンチョウするって訳でも
ないけど、正規軍の四角四面なところがさ、なんか妙にこそばゆいっつうか。座り心地が悪いっつうか。
変な苦労させられる不思議なところだよな」
まったく人の話を聞いていない。こいつに真っ当な敬語を駆使させるのは皇子だけではないだろうか。
不世出と謳われた英雄ハーン・カニンガムにでさえ、ご近所の叔父さん扱いなのだから頭が痛い。
可能であるならばさっさと話を切り上げたいところだが、シードに行く手を阻まれて思うようにならない。
この程度の遮蔽物にぶつかったくらいで方向転換するのも癪に障る話だ。
まして、後ろ向きのままクルガンの歩調に合わせているこの男、間違いなく蹴つまずくぞと、確信しているのか、
心配しているのか。
ペースが乱されることこの上なかった。
「傭兵部隊がそれほど恋しければ、私の権限で配置転換の強制執行を出してやろうか。ソロンどのから涙ながらの
感謝状のひとつでも頂戴できるかもしれんな」
「やだね」
窮屈でもこっちの方がいいとシードは即断した。
「あんたも一度見聞を広めるために入隊すりゃいい。軍隊なんて名ばかりだぜ。
与太者、ごろつき、やっちゃん上がりの巣窟だ。腕っ節は強い。変な魔力を持ったヤツもいた。けど、
己を鍛え上げようというヤツはひとりもいなかった。強いけどそれ以上のものはなにもないぜ、あそこは。
あれを味方として勘定できんのかよって思ったね」
「傭兵部隊に向上心など求めていない。現在強ければそれでいい。報酬をはずめばそれなりの働きは
してくれる。計算し易いんだ」
「そっか。好き勝手できたけど、なんかつまんね。賭博や女漁りするための金欲しさに、お前等命賭けんのか
よって思ってたからかな。あそこに長くいたら戦う意味が分からなくなる」
では聞くがとクルガンはとうとう立ち止まってしまった。こんなところでいち士官の人生哲学などを披露
させてどうすると内なる声がした。
「お前が戦う意味はどこにあるのだ、シード」
切れ長の瞳をきょとんと丸め、シードは真摯なクルガンを認めヘラリと哂った。
「驚いた。正面切って聞くかよ、ふつう。つうか、いつもそんなこと考えてんの?」
「お前の言ったとおりだ。命を賭けるのだからな。いろいろあるだろう。自己顕示欲から出世欲に金銭欲。
家族愛から愛国心まで。お前は何を思って戦い、何に憂いて反発するんだ」
「自己顕示欲ね。俺サマはこんなに凄いんだぞ。見てくれ、か。ソレが一番ウエイト大きいかも知れないけど、
それを言うなら総て当てはまるぞ。出世したらヤなヤツの
下につかなくていいし、俺が采配を揮えるんだろ。一軍思うがままだ。遊ぶ金に事欠く状態ってのも淋しい話だし、
親父やお袋は純粋に守りたいと思う。その延長にハイランドがある訳だろ。そういうあんたはどうなんだ?
ひとつに絞れんのかよ?」
逆に問われてたじろくクルガンに、そんなことよりさぁ、とシードは紅毛を揺らしてニパっと笑った。
「召集がかかったら暫く浮世とはオサラバなんだし、今夜辺りドンチャンしに行かない?」
「断る。お前の相手をするくらいなら、雑多な書類に囲まれている方が精神衛生上好ましいからな」
「はや」
「それに遊ぶ相手には不自由していないのだろうが」
シード、まだかよ、と蹴球に興じていた連中が手を挙げて呼んでいる。その方向を親指で指し示して
クルガンは言った。気の会う仲間同士、無礼講だろうが完徹だろうが、せいぜい浮世のウサを晴らせばいい。
しかしそう返した言い草が何やら拗ねているかに聞こえる。それに気づいたシードがニヤける様から目を逸らした。
「同じメンバーだと飽きるしさ。それに前からあんたが羽目を外したとこ見たいと思ってたからね」
「生憎だが、お前の好奇心を満足させる芸当など、私は持っていない。それに昼食すら満足に取っていない
のだ。いま、こうしてお前とくっ喋っている時間すら惜しい」
「クルガン。時間は有効に使わなきゃ」
「私の貴重な時間を無駄に消費させているお前が言うな」
「今度の演習、一際過酷だっていうしさ、事務処理なんか次官に適当に分配してさっさと済ませちゃえよ。
で、あんたも息抜きしなきゃ。ああ、極秘だから一人で抱えるしか――わぁ!」
シードの片手が宙をかいた。いつまでも後ろ歩きを続けていた男は、言わんこっちゃない、下草に足を取られて
倒れそうになる。その腕をクルガンの手が繋ぎとめた。
鬱陶しいくらいに好き勝手な方向を向いた紅毛が目の前で揺れ、思わず間近に迫るのは稀有な色を成した
シードの虹彩。手にしたシードの二の腕は、苛烈な性質に反して無駄な筋肉ひとつついていない。
剣を生業とする者としては華奢な部類に入るだろう。
「危っねえ。ごめん。ごめん。すっ転びそうになった」
「お前、いま何と言った?」
「えっ? 転びそうになったって」
「違う。その前だ」
シードの腕を掴むクルガンの手に思わず力が入った。顔をしかめるほどではないが、クルガンの剣幕に
押されそうになる。
「その前?」
「今回に演習に関することだ。過酷だとか極秘だとか誰から聞いた? どこまで聞いた?」
「へっ。ああ、ルカさま情報」
「なんだと?」
あのときキバは、
『儂などは、兵士たちにそこまで強いる必要があるのかと訝ったよ』
と、詳細を語りだした。
『輜重は二週間以上揃えてはならんというお達しだ』
『二週間?』
『ん。兵站線が分断され、輜重も底を尽きたという状況で演習は執り行われる』
『兵たちに飢えろと?』
『端的にいうとそうなるな。が、十二分に有り得る状況だろう』
『敵の兵站線を叩くのは常套手段ですからね。しかし――』
『ルカさまは背水の陣という言葉が本当にお好きなのだ。追い詰めて底力を出させようとなさる。だがな、過去、
何度も繰り返された戦いで、飢えた覚えなど儂にはない。後方部隊が有能だったからに他ならないが、
国を離れて兵士を遠征に出した将が一番気にかけなければならないのは、衛生面と輜重だ。用兵など二の次と
言ってもいい。だが、陸続きのこの大陸において、喩え孤立しようと食料と呼べる物はなんだって調達できる。
森も林も川も、ときとして食料庫となるだろう』
『では何故の設定なのでしょうか?』
『若い兵たちは森に入って、どれが食えてどれが食えないかなど知らんだろう。特に士官学校上がりは
みな裕福な家庭の子弟だからな』
『極限状態まで落として、兵たちに生きてゆくための知恵を付けさせると?』
『知っているのと知らないのとでは、大きな違いがある。それともうひとつ』
キバはデスクの後ろにかけてある大陸の地図を指差した。
『先ほども言ったが、デュナン湖周辺地域は気候も温暖で収穫は安定している。自然の食料庫だ。南へ下れば
敢えて輜重の心配はせずともよい。しかし――』
『北の大国ハルモニア、ですね』
『うむ。不毛というほど過酷ではないにせよ、季節を選べば食料の現地調達は不可能になる。そういう
ことではないだろうか』
『なるほど、仮想敵国はハルモニアですか』
『ルカさまは都市同盟軍と戦っておられるときも、常にかの国を念頭の置いていらっしゃる』
ハルモニアの属国という枷を一刻も早く一掃したいのだと。
continue
ルカさま、クルガンいぢめに精を出すのお話。 最初考えてたのは、畏れ多くもどえらいハードなテーマで、
それを続けるのは無理だと気づきました(アハハ)←乾いた哂い。
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