Kingdom hearts
scene two







 皇子の悲願は、ハルモニアの属国という枷を一刻も早く一掃することなのだと。
 しかし、幾重も先を見据えている皇子は、足元は見えておいでなのだろうかと、キバの表情は固かった。



「どした?」
 珍しく表情を変えたあと、黙りこくったクルガンに、シードは珍しいものを見たと不躾にもケタケタ 哂い出した。キバの危惧が伝播したクルガンの心中など、この男に分かろう筈もない。
「面白れえ、あんた。ホントにルカさまの言うとおりだな」
 次に来る言葉の種類が想像できて、クルガンはだんまりをとおした。皇子独特の享楽には付き合っていられ ないと、掴んでいたシードの腕を離す。プイと踵を返して聞く耳持たないクルガンに、今度はシードが腕を 取って留めた。
「半分玩具にされてるよ。今回の話、ルカさまから聞いたってクルガンに伝えておけって、念を押されたからな。 どんな顔をするのか見てみたとね。 あんたの鉄面皮が崩れるなら、なんでもしそうだよ、あの人。でもさ、あんた、ルカさまと何を競ってんの?」
「ルカさまのご不興を買った覚えはない。理由がこの面相だとしたら、取り繕う気もおきんな」
 違う、とシードは変な取り成しをする。
 揶われたことに多少の腹立ちは感じるが、実力主義の皇国軍にあって、 己の才幹は真っ当に評価されているという自負もある。だからシードが見せた気遣いなど徒労にしか過ぎない。
 なのに彼は、大切な何かを取り落とさないかのようにクルガンの腕に力を込めた。
「オールオアナッシングのルカさまが、嫌ってちょっかいをかけるなんて有り得ない。 下手な愛情表現の裏返しだよ。あんたをへこませたいんじゃないし、怒らせたいんでもないよ、 きっと。上手く言えないけどさ」
「ふん。お前に慰められるなど私も落ちぶれたものだ。言われなくとも私は自分の立場を理解している。 生憎だったな」
「頭で分かってても、心がついてかないことってあるだろ。俺はそっちのことを言ってんの」
 当然のように告げられ少したじろぐクルガンがいた。この、人の心情などまったく忖度しない男が いま何を言った? お前に私の何が分かるとの言葉は喉元でくぐもったままだった。
 時として、この男の言動は綺麗に保たれたバランスを崩してくれる。その自覚だけは確かにあった。
「それで――その話は口外するなとは言われなかったのか?」
 上手く言葉の継ぎ穂を見つけ出し、クルガンは平静を保つ。
「言われた。けど、演習に参加して食いっぱぐれるのはイヤだから触れ回りますよって言ったら、 好きにしろだと。どこまでが手の内なのか読めやしない」
 クルガンは己の腕を掴んでいるシードの指先からゆっくりと視線を上げていった。裏も表も、そして 腹芸すら通じない男の少し戸惑った表情にぶつかる。
 皇子ルカが歪な感情を傾けている男だ。それを当の本人も気づいている。それほど鈍感な性質でも ない筈だ。だが、それをどう昇華させればよいのか分からないのだろう。
「それを兵士全員に伝えたのか?」
「ん。そうするつもりだけど」
「止めておけ。間違いなく出立前に検査が入る。袋嚢などのな。いくら非常食を隠し持っていても、私物は 総て没収されるのがオチだろう」
「汚ったねえ! じゃあ一体なんのつもりで極秘情報漏らしたんだよ!」
 シードは盛大に髪の毛をかきむしった。気持は分かる。皇子はシードの何に期待をしているのか まったく読めない。
「さあな。臣下の分際で皇子の御心を推し量ろうなどと畏れ多い。それでなくとも複雑に絡み合ったお方だ。 まあ、お前ひとりを助けるためでないことは、間違いないだろう」
「分かんねえ人だな」
「意外と、投げ出された情報に我々が穿ち過ぎなのかも知れんがな。あれやこれやと深読みしていても、 多少、過酷な訓練が待っていたという結果がなきにしもあらずだ」
「まっ、そだな。頭使い過ぎても虚しいだけだしよ。まあ、ここは旨いもんでも盛大に食って騒いで、あしたに 備えようぜ」
「またそこに落ち着くのか? 懲りないヤツだ」
「ルカさまがそこまで固執するあんたに興味があるし、矢鱈と構いたくなる気持も分かるからね」
 それはこちらの科白だという言葉は飲み込んで、仲間たちの元へ戻ろうとするシードを見送る。
 なるほど、見目や性質は両極端に別たれた二人だが、皇子ルカを真ん中に挟んでの似たもの同士なのかも 知れない。
「俺たち、今晩は城下の『踊る子馬亭』で呑んでるからさ、身体が空いたら顔を出してくれよな」
 なんの諾唯も告げないクルガンに、シードは去り際満面の笑みを浮かべてさらに言い放った。
「そうそう。さっきの話だけどさ、どういう状況で知ったのかって聞かれたら、閨の中だったと言って おけってルカさまからの伝言だ」
 確かに伝えたぜとシードは綺麗に背中を伸ばして去って行った。



 完全に玩具にされている。



 提出期限があすまでの書類を総てそろい終えたときには既に日付は変わっていた。
 休息もほとんど取れずに執務室に篭りきりは流石に疲れる。あすは早朝から重要な会議が待っている身だ。 クルガンは時刻を確認し、自宅へ戻ることは諦めた。往復の時間さえ惜しい。きょうもここで仮眠を取る羽目に なりそうだ。
 それでも何か腹に入れなくてはとテーブルの上に視線を落とすが、副官が夕食にと用意してくれたサンドイッチ はどうやら水分を失った状態のようだった。旨い不味いに煩いクルガンとしては食えたものではない。 申し訳ないと思いながらもそれを脇によけ、常備してあるスコッチを取り出した。
 どうやら今晩のカロリーはこれで摂取するしかなさそうだ。
 脇に避けたサンドイッチに目をやりクルガンは苦笑する。食えないの不味いのとは軍人にあるまじき行為。 戦場にあっては真っ先に餓死するクチかも知れないと。それとも飢えてしまえば雑草でもむしゃぶりつくの だろか。
 確かにそこまで追い込まれてことなどなかったのだと、愛用のスコッチを一口啜ったそのとき、大きく 切られた窓がコンコンと鳴った。
 窓から漏れる光につられて小鳥がくちばしで突いたのかと視線を移せば、あろうことかあの赤毛が 顔を覗かせていた。
 クルガンの思考は一瞬にして固まる。
 いま何時だと思っていると、なぜお前がと、なぜそんなところにという疑問が一気に駆け巡る。 当のシードはなおも窓ガラスを叩きながら口をパクパクさせていた。
 早く開けろということだろう。
 彼にしては緩慢な動作で窓のロックを外し開け放つと、
「寒みいんだから早く入れてくれよな」
 シードは白い息を吐きながら口を尖らせ、先に手荷物らしきものをクルガンに手渡してから、よいしょと窓を 乗り越えてきた。
 手渡された紙袋からはホカホカとした温もりと、何やら旨そうな匂いまでしてくる。複数の疑問には手近なところ から解決するのが実務の常套。
「なんだこれは?」
 と、不躾な訪問者に問うた。
「ありがたく思え。あんた何も食ってないと察してお持帰りしてやったぞ。旨いって評判のネギチャーシューまんだ。 熱いうちに早く食え」
 ホレホレとシードはせっつく。クルガンは立ち尽くしたまま食料と男に交互に視線を送ったが、言葉なくソファ に沈み込む。それを認めたシードはクンと鼻を鳴らしてテーブルの酒精に目を止めた。
 目ざとい、いや鼻の利くヤロウだ。
 差し入れのお礼に相伴せねばならないのかと、クルガンは別のグラスを彼の前に置いてやった。既に 出来上がっている感のシードは実に嬉しそうだ。したたかに呑んできただろうにとは心に留めておいた。
「上等そうな酒だな。いつもこんなの呑んでるんだ」
 シードは己のグラスに並々と注ぐと、目の高さまで挙げて一応の礼のポーズを取る。一気に流し込んだ呑みっぷりは 見事としか言いようがないが、ちなみにクルガンならそんなあおり方はしない。嗜むなど意に解せないのだろう。
「うんめぇ〜。極上の酒は五臓六腑に染み渡るぜ。入るところも別腹ってとこだな」
 デザートを前にした女子供のようなことを言うと思いきや、別の袋からホントウにシュークリームやら焼き 菓子やらチョコやらを取り出してきた。嬉しそうにかぶりつく姿を見るだけで、ご馳走さまですと言いたい。
「なに? 食わねえの、それ?」
「いや、なにやら胸焼けが……」
「甘いもんなんか嫌いだろうと思って、ネギチャーシューにしてやったんだぜ? あんたはそっち食ってりゃ いいじゃん。それとも匂いもダメ? そんな根性のないこと言わないよな」
 クルガンにしてみれば、スコッチのアテにカスタードやカカオを食する感覚が理解できないのだが、恐らく 食べたいものを呑みたいものと一緒に食しているだけなのだろう。
「本当によく食うな。夕食が済んでないということはあるまいが」
「うん。俺って燃費が悪いみたい」
「の、ようだな」
 ダイエット中の女が聞いたら噴飯ものだろうが、胃下垂なのか異様に基礎代謝が高いのか、これだけ食っても シードは華奢だと評していいほど細っそりとしている。
 この身体でルカと渡り合ったのだ。



「ルカさまの剣は重かっただろう」
 血糖値も高揚した気分も落ち着いたのか、散々食い散らかし聞いてもいない冒険譚に付き合わされた後、 喋り疲れたシードにクルガンは問うた。直に床にしゃがみ込みローテーブルにうつ伏せ気味の 男は、うん、と眠そうないらえを返す。
 いまにも酔いつぶれそうな癖にグラスは放さない。完全無欠の酔っ払いは、きょうはここに泊り込むつもりなの だろう。既にその態勢に入っていた。
「あんな剛剣と初めて討ち合った。あんときの手の痺れがいまも残ってる気がするよ。俺、本気で殺される かもって思ったからな」
「けれどお前はルカさまの気迫に呑まれなかった。怯えすらみせなかった。特筆すべきことだ」
「へへ。怖くない訳ないじゃん。けど一度でも怯んだら攻撃の切欠すら与えてくれないぜ。そんなの 勿体ないだろ。それに、世の中広いなって、ただ嬉しかったんだよ。こんなすげえ人が俺たちの国の皇子で、 軍を統括してて、俺のずっと先にいて、いつか絶対打ちのめしてやりたいって思えて」
 なあ、クルガン、とシードはトロンとした目で重ねてきた。
「お前が戦う意味はどこにあるんだって聞いたよな、昼間。俺、自分より強い相手と出会うために軍にいてる 気がする。弱っちい相手に剣を振るったってただの殺戮だけどさ、干戈を交えるっての? ちょっとかっこよく ない?」
「甘えたことを言う。我々は軍人だ。殺人を生業としている。どう言葉を駆使しようが、相手を殺すことに 変わりはないだろう。お前のはただの自己満足にしか過ぎん」
 相手はほとんど寝ぼけ眼だ。それなのに何を律儀に講釈ぶっているのかと自嘲した。
「ふーん。あんたってやっぱり情け容赦なくって厳しいや。誰かをぶった斬る自己満足も許してくれないんだ もんな」
「お前にだけ強いてるつもりはない」
「知ってるよ」
 ツラリと哂うとシードはテーブルから落ちるようにそのまま仰向けになる。ソファに座るクルガンの靴先に 柔らかそうな赤毛が当たった。酔っ払い独特の意味のない哂いがひとつ。それに合わせてうごめく髪が 酷く淫靡に見えてしまう自分も、相当酔いが回っているのだろう。
「ルカさまが言ってた。あんたの剣は厳しいって。ルカさまをして合わせにくいそうじゃない」
 今度手合わせお願いしますよ、とシードは緩慢な動作で己の上体をひっくり返す。 ソファの背にゆったりと体重を預けているクルガンの足を手がかりに、ソファに身体を乗り上げてきた。 そのまま彼の横にちょこんと座るが、ほとんど全身に力が入っていない。
 体温の高い酔っ払い男の全体重を貰い受ける。なぜか息苦しい。
「あんた、あったかいな」
 ケタケタと酔っ払いはご機嫌だ。
「熱いのはお前の方だ。おまけに絡み酒か。始末に終えんな、離れんか、鬱陶しい」
「一人寝できねえんだ、俺」
「抱き枕なら他を当たれ」
「あんたがいいのに。なあ、キスしよ、クルガン」
「断る」
「据え膳食えよ」
「お前の食いっぷりを見て食傷気味だ。ご馳走さん」
「ちぇ、ケチ」
 酔った上でのたわ言と軽く受け流してやる。クルガンが立ち上がると、支えを失ったシードはそのまま ソファの上に倒れこんだ。小憎たらしいくらいに健やかにお休みだ。
 息災で結構なことだと、クルガンは続き部屋へと引き上げる。執務室兼仮眠室であるこの部屋に 上掛けはひとつしかない。ソファで少し寒そうに丸くなっているシードに目をやるが、そのまま扉を閉めた。
 そこまで甘やかせてやるつもりはない。





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