日本の国名
日本の国名について、時系列に並べてみた。勿論、古代においては、日本列島全土を治める、国家と呼べる政治体制があるわけではないが、史書に基づき当時の呼び名を記述する。
1 倭奴国
古代中国の「後漢書・東夷伝」に記された、倭人の記事で最も古い出来事は、倭奴国のことである。西暦57年、倭奴国からの使者が後漢の都、洛陽に参上して光武帝に貢献し、印綬を受けたことが書かれている。三宅米吉が漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んだ。その読み方が今日まで続いているが、異論も多い。「倭」という呼称も元々は「小さい」という意味で辺境の蛮族に対する蔑称であったとされる。他にも「遙か遠いところ」「柔順な性格」「小柄な人びと(チビ)」「海の国」など、いろいろの説がある。
倭人たちは当初自分から倭を名乗ったのでなく、古代の中国や朝鮮半島の人々が名付けたものと言われている。彼らによって「倭」の文字が与えられた。
ただ、倭人というという呼び名は、「漢書」地理志に、「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と記載されている。「楽浪」は、漢の武帝が紀元前108年に朝鮮半島へ設置した四郡の一つである。この記事は紀元前後の倭が百余国に分かれていたことを書いている。中国人たちの目には、倭という列島があり、そこには「国」といえる地域があると映っている。
2 倭面土国
次に歴史に現われるのが、倭面土と名乗る国からの倭人である。西暦107年に後漢の安帝に倭面土国の王、師(すい)升(しょう)らが生口160人を献上し、謁見したとある。この国もかなり有力な国だったと思える。『翰苑』所引は倭面上国、『通典』所引は倭面土地王・倭面土国王)の記事がある。倭面上国は、「土」を書き誤って「上」にしたものとされる。これらを「ヤマト国」、「イト国」「マヅラ国」と読む説がある。
内藤虎次郎は、明治四十四年『「読史叢録』に「委と倭は古音同一にしてyaの音を有し、面にはmanの音があるから倭面土はヤマトと読まれ邪馬台と同名である。」と記している
ただし、先の倭奴国と倭面土国がどういう関係にあったのかはわかっていない。国名が変っただけの同一の国であったとする説も出ている。この倭面土国がどこにあったのかも、わかっていない。
3 邪馬台国
次に、倭は有名な魏志倭人伝に現われる。魏志には倭人伝とともに韓伝の記述がある。その韓伝に、「韓は帯方の南にあり。東西に海を以って限りとなし、南は倭と接す」とある。つまり朝鮮半島南部にも、倭があったことが示されている。もしも韓が朝鮮半島全体を占めているならば、韓は東西南に海を以って限りと為す」でなければならない。具体的には、韓伝の中の弁辰伝に、「涜盧国は倭と境を接す」とある。涜盧国と隣り合っていたのは、狗(く)邪(や)国(あるいは狗邪韓国という)だった。つまり狗邪国には倭人が住んでいたことになる。
この史書は、3世紀後半に陳(ちん)寿(じゅ)(233-297)が編纂したものである。3世紀半ば頃の倭国について比較的詳細に書かれている。つまり倭奴国が金印を授かってから、約200年後のことについてである。倭の各地の地名や戸数が記述されている。女王の都があるところが、いわゆる邪馬台国である。邪馬台国の読み方は不明で、江戸時代に本居宣長が日本語読みでヤマタイコクと読んだのが今日まで続いている。これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、必ずしも正確な読み方ではない。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「やまと」と読んでいたことがわかる。
なお、現存する最古の刊本である宋代の倭人伝には、邪(や)馬(ま)壹(いち)(邪馬壱)と表記されている。それはヤマイチ国と読むことになるが、筆の誤りであるとされている。
当時の倭国は文字を持たなかった。古代の中国人が倭人の発音を聞いて、ヤマトの音節を「雅やかでない漢字」で当てたものである。また、ヤマトを邪摩堆(やまと)と表記した史書もある。そのヤマト国には、倭人がもっとも多く住んでいたところであり、倭の最大の7万戸あったと史書に記されている。この戸数については正確でないという説もあるが、国力を示す指針として考えたい。なお、ここで言う「国」とは、現代のような独立した国家ではなく、単なる地方行政区域と考えるべきである。つまり県に相当する。
卑弥呼、これも当て字であり、ヒミコと呼びたい。(あえて漢字を用いるならば、日御子、あるいは日巫女とするのが本当であろう。)
4 扶桑国
古代中国の伝説で、東方の海中にあってそこから太陽が昇るとされる神木のことであるが、「南斉書」倭国伝等では、日本国を表す言葉として使われている。
5 倭
古代中国が付けた国名「倭」を古代の日本人は「ヤマト」と読み替えた。古事記の中の表記でもそれがよく使われている。なぜ古代の日本人は、自分たちの国をヤマトと言っていたかは大きな謎である(いろんな説がある。山処、ヤマ国とイト国の合併説など)。一つ言えることは、それはヤマトを名乗る人々が支配した地域だったことである。
6 大倭
飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。
韓国の歴史書、百済記や百済新撰では、倭を大倭と称しているところがある。倭に対して大を付け、敬意を表したものとする説がある。
7 日本(ヤマト)
対外的に国号を倭から日本に変えたのは、701年の大宝律令で定められたものとされる。あるいは689年に施行された飛鳥浄御原令で定められたのが最初という説もある。ただし、読みはそのままで、ヤマトと読む。日本書紀では、日本と書いてヤマトと読ませているからである。神代上に「日本、此云耶麻騰。下皆效此」と記述されている。
古代中国の歴史書では、702年の遣唐使のことを記録した『旧唐書』に初見される。これに少録という役職で万葉歌人・山上憶良も随行している。帰国後詠んだ歌が、
いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
で、初めて「日本」の文字を織り込んだ。
なぜ飛鳥時代の大和朝廷は、国号を倭から日本(ヤマト)に変えたか。新唐書には三つの理由が記述されている。
@国が日の出るところに位置しているから、(日(ひ)の本(もと))
A倭と言う文字が雅やかでない
B小国だった日本は、倭が併合するところとなった。故に、その号を用いることになった。原文「日本乃小国、為倭所并合。故冒其号。」
日本の意味は「日の没するところ」(『隋書』倭国伝) 中国大陸に対しての「日の出るところ」(同)
すなわち「日の本」の意であり、外交上、大陸と対等な立場であることの宣言であったとされる。但し、当時の日本は畿内(京都、大阪、奈良)を中心とした周辺地域のみであり、関東以北・九州以南は日本(大和王権)の支配の外にあった。
万葉集では、「倭」「山跡」「日本」「夜麻登」「山常」「八間跡」「也麻等」「夜萬登」「夜末等」といろいろな漢字が充てられている。いずれも、読み方は「ヤマト」。
701年以降、奈良時代に入ると、国号は「日本」、奈良地方にある令制国の名称を「大倭国」と書いて区別するようになった。いずれも「やまと」と読んだと考えられている。
奈良中期の737年(天平9)、令制国の「やまと」は「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、747年(天平19)には再び「大倭国」へ戻された。
8 大和
のちに「大倭」は「大和」に置き換えられる。天平宝字元年(757)の養老律令のときに変えられたとされる。もちろん読み方は、ヤマトのままである。
その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
「大和」への国号改称に伴い、国造家本流は氏族名を「大倭」から「大和」へと改められたが、渡来系氏族は、「倭」から「和」に改めることが許されただけで、「大和」への改称は認められなかった。
9 日本(ニッポン・ニホン)
いつから、「ニホン」あるいは「ニッポン」と呼ばれるようになったかは不明である。
仏教伝来は538年ということになっている。これは仏教そのものではなく、仏典の正式な伝来の意だと見てよい。直接には百済からだが、その元は中国南朝である。この時代の中国語音を「呉音」と言う。日本語の仏教語は古い中国語音なのである。「日」という漢字には、「ニチ」と「ジツ」という音がある。「ニチ」が呉音で、「ジツ」は「漢音」(「漢音」とは唐時代の音)である。
日本が「日本」と自称した頃、唐人は何と発音したか。「日本」という漢字だけを差し出されれば、「ニッフォン」か「ジッポン」である。一方で、日本人は呉音の「ニチホン」を通したはずである。ところが、「チ」が促音化し「ッ」となり、それが破裂音を誘い、「ニッポン」となったのだろう。「ニチホン」がいきなり「ニホン」とはならない。「ニホン」は「ニーフォン」とも聞こえる中国語音から生じたのであろう。
戦国時代を経た17世紀初めの『日葡辞書』(日本語-ポルトガル語辞典)には、「日本」を「ニッポン」「ニフォン」、あるいは「ジッポン」と読むと記録されている。ちなみに「日本紀」も「ニッポンギ」「ニフォンギ」と読まれている。
本居宣長は、やまとことばは濁らない清音であるとし、「日本」を「にほむ」と読むとした。
ともあれ、このようにして「日本」の音は「ニチホン」→「ニッポン」→「ニホン」と変化し、いまも二つの音読みが用いられている。
では、日本国の政府見解はどうなっているか。
1934年(昭和9年)、文部省の臨時国語調査会は、国号においては「にっぽん」に統一し、ある種の固有名詞は「にほん」でも可、という見解を発表したが法律などで決定するには至らなかった。。
敗戦後の1946年(昭和21年)、帝国議会の帝国憲法改正特別委員会において「日本国」及び「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされたが、金森徳治郎・憲法担当国務大臣は「決まっていない」と答弁した。
少し間をおいて、1961年(昭和36年)7月、総理府に公式制度連絡調査会議を設置し、「日本」の読み方について世論調査などを参考に検討することとなったが、結論は出されず。
そして、1970年(昭和45年)7月14日、佐藤栄作内閣は、国号の「日本」の読み方について、「にほん」でも間違いではないが、政府としては「にっぽん」を使うことにする、と閣議決定したとの噂もあったが、2009年6月30日、政府は「そのような閣議決定は行っていない」と否定した。
また、同日の閣議で、「日本」を「にっぽん」と読むか「にほん」と読むべきかについて、「いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を決定した。
なお、紙幣(日本銀行券)のローマ字表記が"NIPPON"なのは、明治18年の百円札以来の慣行であって、特に理由はないという。
国立国会図書館では、題名に「日本」が含まれる約16万8千冊の読みを「ニホン」に統一して分類しているとのこと。
また、郵便切手のローマ字表記については、「万国郵便連合条約」の改正により国名のローマ字表示が義務づけられたことに応じて、1965年(昭和40年)9月に閣議決定され、翌年1月1日から実施されました。閣議決定のの理由は、"NIHON"だと、「におん」「ないほん」と誤読されるおそれがあるから、という理由。
そして、オリンピック選手のユニフォームのロゴ。"NIHON"よりも"NIPPON"の方が、デザイン的に見た目がかっこいいからだそうだ。
10 Japan
語源はマルコ・ポーロの東方見聞録に登場する「黄金の国・ジパング(ZIPANG・ZIPANGU)」であると言われ、ヨーロッパの言語ではここから派生した呼称を日本として使用していると言われる。ジパング自体、当時の「元」で日本のことをそのような発音で呼んでいたことを表しており、何重もの間接だが、Japanも日本(当時の中国語)が語源であるといえる。
日本は漢音で、ジッポンと発音され、マルコポーロによりジパングとされ、そこから英語:Japan(ジャパン)、独語:Japan(ヤーパン)、仏語:JAPON(ジャポン)、スペイン語:JAPON(ハポン)となったとされる説が有力。ちなみに、現代中国語では「日本」を「ジーペン」(riben)と読む。