サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

71.黒猫の「タンゴ」

 一昨年、我が家の愛犬「ペロ」が死ぬ前、ペロの鼻先にあるえさを失敬する野良猫がいた。全身真っ黒な猫で、小柄で痩せこけた貧弱な猫である。始めの頃はペロの沽券にも関わるので追い払っていたが、ペロも衰弱して食べ残すようになり、見て見ぬ振りをしていたのである。

 やがてペロも亡くなり、あまったえさは処置に困り花壇の肥料にと土中に埋めたのである。ここから黒猫の「タンゴ」との関わりが始まるのである。特に「タンゴ」と名前を付けたわけではないが、何匹か出入りする野良猫と区別するために、猫を「猫」と呼ぶのもおかしいので時により、そう呼んでいるのである。最もこれには多少後ろめたいテレもある。

 花壇に埋めたペロのえさに目をつけた野良猫どもが掘り起こし、花壇はめちゃめちゃになったのである。それならばと残っているえさを分け与えるようにしたのが「タンゴ」との腐れ縁の始まりである。

 このタンゴ、何匹か来ている野良猫の中でもっとも体が小さい。おまけに毛の色艶も悪く赤茶けているのである。この小さく貧弱というのが家内の母性本能をくすぐったのかもしれない。他の猫には目もくれず、専らタンゴに重点的に与えるようになると、タンゴの方も当然のような顔をしてその時間には顔を出す。こう言うとかなり人懐っこそうに思えるが、さにあらずである。えさをやろうとすると「カーッ」と歯をむき出して威嚇するのである。もっともこれが威嚇ではなくて、もしかしたら喜びの表現であったかもしれないが、厳しい野良の世界にいると素直に甘えてなどいられということかもしれない。

 もの欲しそうに上目遣いで見られるとついつい可愛そうに思ってえさを与えてしまうらしい。そもそも野良猫や野良犬にえさを与えるということは禁じられているのであるが、何故禁じているかといえば更に可愛そうをまた増やすことになるからだと思っている。

 ところが昨年の4月になるとタンゴのおなかが明らかに大きくなり、子供を身ごもったのである。体が小さいので未だ子供かと思っていたのが大きな誤算であった。そして5月の連休に入り、大雨の日にぷっつりと姿が見えなくなったのである。
 それから2週間ばかりが過ぎたある日に、見事にやせ細ったタンゴが再び姿をあらわしたのである。勿論子猫などもつれておらず、結局あの貧弱な体と大雨の中という悪条件のため子猫も育たなかったと思い、いささか忸怩たる思いがあったのである。

 その後間もなく、私は入院する羽目になり、病室で梅雨を迎え、やがて7月に入り殊更暑い夏のある日、家内が喜色満面の笑みをたたえ「帰ってきたのよ」というのである。「何が」問うと、タンゴが子猫を二匹連れて戻ってきたというのである。

 その後、一時帰宅したときもお目にかかることなく、三朝に転院し、タンゴのことも忘れかけていたのである。帰宅して翌朝、猫の声に起こされて窓の障子を開けるとなんと青黒く艶やかな毛並みの三匹の黒猫がたむろしているではないか。それも丸々と太ってである。見ているとガラス越しに床下から立ち上がって窓の下から顔をのぞかしている。あたかも四分音符が一列に並んだみたいである。言うなれば「タンゴ」「タンゴ」「タンゴ」である。

 おまけに部屋の隅にはキャットフードの袋まで置いてある。「何だ、これ」というと「安かったから」と家内の返事である。別に安い、高いを聞いているわけではないが以前はペロのえさが終わってからは専らこの猫どもが我が家の生ゴミ処理機の役目を請け負っていたが、私が入院中は家内独りの食事では消化してもらう生ゴミも事欠いたということかもしれない。

 新たに増えたタンゴ二匹も真っ黒で、愛想の無いところまで母親譲りである。こちらもえさを与えようとすると歯をむいて「カーッ」するのである。ただ違うところは母親は食事が終わるとさっさとどこかに行ってしまうが、子猫のタンゴ二匹は終日庭にたむろしている。二匹でじゃれあったり、追いかけあって、庭木に登ったりで、見ていて飽きないのである。

 こうなるとこの野良猫ども、我が家で市民権と取るのも時間の問題のように思えるが、そうはいかないのである。まず排泄の問題である。決まった庭木の下に排泄をするのが気になるのか、家内がペットボトルを持ち出しておいてみたが、このおまじない数時間は効き目があったらしいが、すぐにペットボトルの隣に来て排泄をしている。今時この程度のことにごまかされたら野良猫として、世の荒波に生きてはいけないということかもしれない。
 もう一つ死別する時のつらさは、ペロだけで十分ということである。そうなると、適当に距離を置いた今の関係がまずまずということになる。ただ、この四分音符が今年あたり十六分音符に変わらないと言う保証は何所にも無い。それも悩みの種である。

 尤も、猫には猫の都合というものもあるらしい。戸を開けておいても頑として家の中には入ってこない。口はこちらに預けても、行動の自由までは預けるつもりは無いらしい。昔お妾さんという風習があったと聞くが、もしかしたらこんな関係ではなかったかと思うのである。飼わされているのか、飼ってもらっているのか分かったものではない。さて、どちらが利口であるか思わず考え込んでしまった。(02.01仏法僧)