サイバー老人ホーム

216.我が「昭和33年」3

 ただ、当時の寮生は、遊びもしたが、勉強も良くしたと思う。当時の寮生には大卒もいたが、主として家の経済上の理由で大学進学を諦めたものが多く、その後夜間の大学に通っていた者(私もその1人)が10人以上いたのではなかろうか。

 最近になって、「昭和33年」を購入し、ここに書かれているところによると、昭和33年頃は、大学進学者は、男子で19パーセント、女子で13.3パーセントで、高校進学でも農漁村では50パーセントを下回ったと書かれているが、実態ははるかに低かったのではなかろうか。

 当時の苦学生(夜間学生をそう呼んでいた)は、ほとんど会社に勤めていた。この頃より2年後の昭和35年に、問題の「60年安保闘争」が行われ、当時も学内には騒然とした雰囲気があり、教授より「今諸君は時代の大きな変換点に立っている」といわれたが、夜学生は、自分の生活を守ることに精一杯で、いわゆる「ノンポリ」が多かった。

 会社を定時に引け、1時間半以上かけて御茶ノ水まで通った。出来るだけ2時限から履修し、最終4時限が終わるのは10時であり、それから寮に帰り着くのは12時前であった。

 当時、御茶ノ水駅のホームから見た神田川は、川底はおろか真っ黒に濁っていて、時々川底から真っ黒なヘドロが弧を描いて浮き上がっていた。

 次の授業の時間待ちをしているとき、空腹を抱えながらキャンパスのベンチで夜空を見上げると、プラタナスの葉の緑の美しさに思わず見とれたことを今でも思い起こす。

 帰ってから夕飯と言うことになるが、置き場を見ても残っていないときがあった。そのときの惨めさはなんともいえなかった。もっとも、夕飯は12時を過ぎると、残っているのは食べても良いということになっていて、わざわざ12時まで起きていて食べたことも何度かあった。

 入社1年目に新入社員は背広を新調した。当時は今のように既製服と言うのはなく、テーラーに言ってのオーダーメードである。私が最初に買った背広は、洋服屋の勧めもあって、ウースデットと言う生地だったと記憶している。それがどんな生地であったか知らないが、たぶん新入社員の安月給でも買える程度のものであったに違いない。その後2着目は何時かったか記憶にないが、普段はもっぱらジャンパーを着ていたような気がする。

 新調した背広を着て、最初に里帰りしたときの誇らしさと、面映さは今でも忘れられない。
 当時は今のように、あらゆるサイズや、デザインを網羅する既製品と言うのは全く考えられず、イージーオーダーと言うのがあった。皮靴なども小さな店先に何足か並べられており、今のように足に靴を合わすのではなく、どちらかと言えば靴に足を合わすことの方が多かった。

 したがって、それほど頻繁に買えるわけでもなく、磨り減ったかかとや靴底を「半張り」と言う修理をを行い、更に靴底に磨り減らないように鉄の鋲を打ちつけて履いていた。したがって、駅などのコンクリートの床を歩くと、タップダンスのようなけたたましい音がした。

 流行と言うのを意識したのは、ダスターコートと言うコートがはやった頃ではなかったろうか。ダスターコートと言うのは、「雨に唄えば」と言う映画で、ジーンケリーが着ていたコートである。これに影響されたのか猫も杓子も着ていたが、これを買うのが夢でもあった。この頃から、既製品と言うのが市場に出回りだしたのではなかろうか。

 私の青春は、夜学とこの頃から始めた山登りに明け暮れ、何時も懐具合は隙間風が吹き抜けていた。

 ただ、酒の味を覚えたのもこの頃で、1人で○○食堂に入って、燗酒を注文した。若気と言うのは、こんなときでも見栄を張るもので、「1級酒2本!」と注文したが、お姉ちゃんが聞き間違えて2級酒だった。以後、このことがきっかけとなり、やがて悪しき生活習慣となり現在に至っている。

 バーと言う店に行くようになったのもこの時期からではなかろうか。当時、いわゆる飲み屋と言うのはそれほど多くなかったが、トリスバー、キングバー。オーシャンバーなどやすいバーと名の付く店が続々と出現し始めていた。

 バーの中でも「サントリーバー」と言うのは高級バーと教えられ、薄給の身には高値の存在であり、なにやら怪しい雰囲気に感じられ、近寄ることもなかった。

 バーと言うのが気に入ったのは、女給といわれる女性にカウンター越しでも話が出来るということであったのかもしれない。

 したがって、どんな女給でも好きになり、余裕もないくせに、言われるままカクテルを奢った。
当時、男女が連れ立って歩くなどと言うことは、おいそれとできるものではなく、それだけに、同期の男女してハイキングに出かけるなどと言うことは天にも上る嬉しさだった。

 今ではあまり喜ばれていないようだが、職場の慰安旅行もまた楽しみだった。思えば、現役で勤めていた年数だけ慰安旅行をしたことになるが、取り分け若い頃のそれは失敗も数数え切れないほどあるが、それぞれにほろ苦い思い出がある。

 独身寮は、元住吉を降り出しに4ヶ所変わったが、最後の頃は「寮の長老」として羽振りを利かせた。その頃になると、生活費に対して、収入の方が多くなり、かなりの出鱈目をした。

 最も多かったのが、寮の仲間たちとの旅行で、この頃になるとゴールデンウイークやお盆の時期に長期の休みが取れるようになった。この時期に、東北周遊券を使って、毎年東北地方を旅して歩いて、それぞれに武勇伝を残した。

 寮でもっとも変わったのは食事である。食堂は、玉ちゃんに代わって、賄いの会社がするようになり、「長老」に対しては特別の配慮もあった。

 この頃、無謀にも個室で仲間たちとステーキを焼いて食べるようなこともした。バケツの中に登山用のコンロを入れ、その上にフライパンを載せて肉を焼くのである。

 最初に、困ったのは1枚の肉の量である。誰かが、ステーキを食べた経験から「6オンスだった」と言い出した。そこで換算表を出して調べてみたら、1オンスは450グラムだということになり、その6倍、すなわち1枚2.7キログラムと言うことになった。

 これを肉屋で人数分の枚数だけ切って貰い、寮で焼いて食べた。1枚ずつ焼くのであるが、とても焼くのが間に合わず、瞬く間に食べてしまった。

 その後、世は高度経済成長の時代を迎え、仲間たちもそれぞれに身を固めて、寮を去っていったが、思えば私の悪しき生活習慣もこの頃から始まり、その因果の中に今が有るという事だろう。(09.04仏法僧)