サイバー老人ホーム-青葉台熟年物

68.理学療法士N上先生

 宝塚の病院から三朝温泉病院に転院したのは発病後間もなく3ヶ月になろうとしている8月25日である。この病院のことを知ったのは10年程前、20代の若い同僚が脳出血で倒れ、手術を大阪で、リハビリはこの病院で行い、退院して会社に出勤してきたときは自ら自動車を運転してきたのが強烈な印象として残っていたからである。

 入院して3日間はもっぱら理学療法上の検査で、これはこのとき来ていた実習生が担当した。リハビリの中には理学療法と作業療法があり、作業療法はK野先生と言う若いお嬢さんが担当したのである。

 理学療法はN上先生が担当することになり、4日目に最初の訓練台(治療)に上がったのである。N上先生は年配の先生で、前の病院が若いお嬢さんであったため、経験豊かな先生を希望していた通りの結果になり、喜んだのである。

 初日はほんのさわりだけの徒手筋肉訓練(徒手訓練)であったが、2日目になって、いよいよ本格的な徒手訓練が始まり、その最初の動作で思わず仰け反ってしまった。今までの入院生活の中で、動かしたことのない方向に上腕をグイと持ち上げたのである。その痛さといったらまさに目から火が出る痛さである。続いて第二、第三と次々と動作が加えられてゆくが、その全ての動作に激痛が走るのである。結局上肢の訓練が終わって、下肢に移る段階になると体全体に震えがきて止まらず、その日の訓練は打ち切りになったのである。早速、私に「キンキラキン」というニックネームがついた。何も華やかということではない。何所に触れても金属のよう固まっているということである。

 脳梗塞のリハビリは、上下肢とも屈伸動作を繰り返し、痙性という原始的な筋肉の動きを調整しながら、梗塞によって途切れた命令系統に動作を覚えこますことにあるらしいが、前の病院では「痛くなる一歩手前で止めときなさい」という方法で、事実ここに来ての実習生も同じ指導を受けているということである。このことは当然、野上先生も承知されていた。

 これに対してN上先生は「そんなことをしたら、可動範囲は日に日に狭まり、服も着れなくなる」というのである。野上先生の考え方は、痙性は、その根元を正さないと効果は無いということである。即ち指より手首、手首より肩という事になる。更に関節の動く限界まで動かさないと効果は少ないらしい。事実、手の指を伸ばそうとする場合、手首を限界まで返すとその瞬間指の力がすっと抜けるのである。

 N上先生の上下肢の訓練する項目(パターン)は多岐に渡り、終わると受ける側ばかりか先生自身の息が切れるほどの激しさである。更に私が入院していた3ヶ月半で、「歩け、歩け」などの指示は一切出さない。ある日「こうやってごらん」といわれそのとおりにやると今まで出来なかった動作が出来ているのである。

 もう一つ脳梗塞の場合の厄介なものとして「痙性」というものがあるが、このことには「67.リハビリテーション」でも触れたとおりである。私の場合はこの痙性が人一倍強いようで、通常鎖骨や肩甲骨は肋骨の上を滑っているから、肩は自由に動くのであるが、これが痙性により肋骨に張り付いてしまうのである。

 その痙性とは逆の方向に腕をグイッと動かすのであるからこれは痛い。分かりやすく言えば、ブロイラーの手羽先を引き伸ばすようなものである。「痛いときは息を吐き出すと痛みが薄らぎますよ」というN上先生の助言により、痛みの何割かは軽減されたがそれでも痛いには変わりはない。この痛みとの戦いは、程度の差はあっても最後まで続いた。尤もこちらも訓練を受ける前にあらかじめウォーミングアップをして望むのであるが、N上先生から名前を呼ばれたとたんに硬直するのである。とりわけ休日開けはひどく、週の始めは痛さもひとしおだったのである。結局入院以来、上肢については特別の手当てをしていなかった付けが回ってきたということである。

 確かにN上先生の訓練は痛い、痛いが安心感があるのである。それは関節や、筋肉の全てを知り尽くしているからだと思っている。更に、N上先生の場合、徒手訓練の中身が患者の回復状態や状況に応じて絶妙に変化している。患者の状況に応じてということは、医療の道に働くものとして当然のように思えるが、骨格や筋肉は人それぞれに違いがある。私の場合でも、上肢だけで20パターンに上ったが、回復の程度によりこれが更に増えて、しかも患者の体質などにより、その速さまで変化し、しかも反復訓練する各回ごとに微妙に変化させるのである。私などはかなり速いテンポだが、この辺りのも普段のせっかちな性格がにじみ出ているから奇妙だ。

 この徒手訓練のそれぞれのパターンついて「伸ばして」とか「縮めて」と短い指示をし、それに従って手足を動かすのであるが、はじめの段階では先生自らの力で動かし、それから回復の状況に合わせて患者の力で、更にそれに負荷を加えていくのであるが、訓練を受けている患者は自分の力で指示通り動かしているつもりであっても、実際は何も動かしていないのかもしれない。しかし訓練が進むに連れていつのまにか力がついているのである。まさに「名人芸」で、日本一の理学療法士だと思っている。これがかの栗本教授の言われる幻肢ということかもしれない。

 三朝病院での113日間は、先生が仕掛けて、それに挑む、私にとって文字通りの戦いであったが、N上先生の治療を受けられたのは至上の幸運だったと思っている。
 訓練の最終段階で、遠慮がちに「取り戻せたものは少なかったかもしれないが・・・」といわれたが、外面に現れた成果以上に、体全体の安定感は雲泥の差で、加えてラジューム含有量日本一の温泉はもとより、「調子は麗しいかえ」と声を掛けてくれる朴訥な看護婦さん達と、時には「むかご(山芋の子)ご飯」や「栗ご飯」などの出る、この病院の持つ暖かい雰囲気は、生涯忘れることの出来ない113日となった。(01.12三朝温泉病院にて、仏法僧)