monsieur
HIRE
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残酷と美に彩られた死への落下


女は現実に生き、男は幻想(観念)に生きる、というのがルコント監督の主張であるようだ。確かに一面の真理をついているその主張を、虚構の中で美へと高めたもの、それがルコントの作品である。

「髪結いの亭主」では、幸福感にあふれるその物語の裏に、現実と幻想の葛藤が秘められていた。妻は夫の「幻の女」であるという至福に酔いながらも、いつか現実の自分が老い、その幻想が崩れる瞬間を恐れた。それゆえ、その幻想を不変のものと化すために、死を選ぶのである。それは「愛という幻想への殉教」と呼ぶことも不可能ではない。

そして本作では、現実と幻想のせめぎあい、それこそが主題となる。

イール氏の窓から覗き見るだけの愛は、欲望を伴わない分、観念の純粋さを際立たせる。それはすなわち、現実より美しい幻想である。そこに現実からの反撃。観念をゆさぶられ、幻想と現実の間でとまどうイール氏。女を追い返したあと、ベッドのへこみに頬を寄せる。そこでは幻想と現実がかろうじて均衡を保っている。そのぎりぎりの危うさに胸を衝かれる。

しかし、あとは坂道を下るがごとく−−女の手が触れる、女の手に触れる−−ついに現実に身を委ねるイール氏。観念が官能に打ち負かされる、その姿は切なく痛い。だが、同時に甘美でもある。女の側にもいくらかの真実があったのだから、なおさらに。

だから、イール氏の賭け。しかし、彼の現実への帰還が成就するはずはない。その賭けを誘発した女の現実性、それこそが幻想を拒否するはずだから。

幻想に恋し、現実に裏切られた男は、自らの死によって幻想を完成させるほかはない。イール氏もまた愛という幻想への殉教者であるが、「髪結いの亭主」の妻の死が、夫という他者への想いに貫かれていたのにくらべ、落下して行くイール氏の心には他者への想いは存在しない。その死は、徹頭徹尾、自己に拘っているがゆえに、なおいっそう残酷である。しかし、その自己完結性に羨望を覚え、そこに存在する美に魅せられたのも、また事実。男と女の、幻想と現実の織り成すこの物語は、静謐のうちに大きな動きを秘め、私の心を奪い去った。

( "Monsieur Hire" Patrice Leconte 1989 France )


My Favorite Movies 1992 → 「欲望の翼」


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