陳昇との遭遇


今、思い返しても夢かとも思える陳昇との遭遇。陳昇は日本ではまだあまり知られていないが、台湾では三本の指に入ろうかという実力派のミュージシャン。今までに八枚のソロアルバム(國語)を発表する一方、電影配樂(無言的山丘)やエッセイ集の執筆も手がけている才人である。さらに1992年に結成した「新寶島康樂隊」では、客家出身の黄連Yu と組み、台湾語、客家語を使ったアルバムを三枚発表しているが、この台湾語で歌う陳昇が私の大のお気に入り。國語の時とは人格まで変わってしまったかのような自由自在の歌いぶりに、本省人(戦前から台湾に住んでいた人々の総称。戦後、國民党とともに台湾に渡って来た大陸系の人々を指す「外省人」に対して使われる)にとっては國語はやはり外国語なのかと、歴史の荒波に揉まれ続けてきた台湾に、しばし思いをはせたりして・・・・・。しかし、1958年生まれの陳昇が目指すのは、本省人も外省人も先住民族もみな一緒に(我們都是台湾人)、台湾をもう一度宝島のような国にしようということなのだが、この志もまたその歴史と無縁ではないと、再び考え込んでしまう私・・・・・。

それはさておき、十月の台湾旅行で、その新寶島康樂隊の演唱會を観られたのは全くの偶然だった。台北に着いてすぐ買った新聞(中國時報)に、何と演唱會の記事が載っていたのである。しかし演唱會のあと、陳昇からお言葉まで賜ってしまったのは、私の情熱と努力(五通の手紙)、それから金城武クンのおかげ(四通目の手紙を多分、届けてくれた)もあったかも。

九月に「金城武&王家衛を囲む会」のチケットを手に入れた瞬間、頭に閃いたのは「陳昇への手紙を託そう」というフラチな考え。どのインタビュー記事を読んでも、陳昇の名前が出てくる金城クン。陳昇は陳昇で ANIKI (金城クンの愛称。陳昇が名付け親)への二十歳のバースディプレゼントなる曲(20歳的眼涙)を自分のアルバム(風箏)に収録している。このふたりの師弟愛は並々のものではないと読んだ私の勘は正しかった。渡された手紙が陳昇あてだと気づいた時の金城クンのうれしそうな顔! 少し得意気に王家衛に見せていたように感じたのは単なる私の思い込みか? でも、一応「すいません」と恐縮したところ、「いいですよ」(まさに「没什麼」って感じ)と何とも気持ちのよいお返事。「何て好い子なの!」と感激したのはいうまでもない(私の今年の主演男優賞は金城クンに決まり!)。

1995年 淡水洲子湾演唱會

しかし、陳昇もそれに負けず劣らず優しい方でした。何しろ「Ni 好!」の次が「地震は大丈夫でしたか?」ですもん。えーっ、なぜ、そんなこと聞いてくれるの(被害がなかったせいもあり、本人はすっかり忘れていた)と、頭の中はもう真っ白。一挙に「恋する惑星」のフェイ・ウォン状態に突入し、”Everything's all right?”とさらに優しさの追い討ちをかける陳昇にただうなづくばかり。何のために中国語を勉強してきたのか(私の予定では、もっと後で会うつもりだったの)と反省したのは、興奮の納まった数日後。そして、幸福感はなおも続く今、中文の学習にさらなる努力を誓っている私。 今度は通訳なしでサシで勝負よ! 陳昇、等一下!! (1995.12)

Note : 当時通っていた中国語学校のニューズレターに書かせてもらった文章です。陳昇が質問している地震とは、もちろん阪神大震災のこと。Vivien の初めてのファンレターが届いた前後に、あの地震が起こったので、印象に強かったのだと思います。
ところで陳昇のヴォーカル、この頃にくらべると、今は國語の時も自由自在という感じですね。うーん、このあたりがひとつの転換点という気がします。あらゆる意味で・・・・・。



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