新寶島康樂隊第一輯(92.7)/前言
南方澳の魚市場では、粗野なおかみさんが蟹の一杯入った包みを提げて、道行く人の腕を引っ張り、強引に売りつけようと声をあげる。「たったの五十元だよ!」
台北東区の贅沢に着飾った上流夫人は、冷房のきいた珈琲館で、不幸な婚姻に涙を流している。
東石郷の干潟の老人は、若いお客に牡蠣の養殖について説明するのに余念がない。
澎湖島馬公の船乗り、阿丁は友達に言う。「陸に上がると、三日で目が回っちまう」
鳥が鳴いている! 牛が草を食んでいる! イルカは台湾海峡を通過することを望まない。
目に留まったことを、僕は書き留める。あれこれと多くのことを考えているわけには行かない。考え過ぎれば、恐らく、沈黙に陥ることになるだろう。
Vivien's note :
「我看見了、我寫了下来」と陳昇が言うように、台湾各地の様々な人々、様々な情景が歌になっています。都会へ出て悪の道に走ってしまった孫を思うお祖母ちゃん、都会から逃げ出し故郷をめざす男、あるいは開発化の波に翻弄される船長さん等々、簡単にいえば、台湾の近代化と、それに戸惑う台湾人の心を歌っている、といえるでしょうか。Vivien もこれらの曲を聴きながら、近代化のもたらしたもの、あるいは近代化に奪われたものなどに、ふと思いを巡らせてしまいます。陳昇が言うように、考え過ぎれば、言葉もなくなるほど恐くなります。陳昇は、その沈思と沈黙のはざまで、愛する台湾、愛する人々のために歌い続けます。
そんな風に歌い続けることで、台湾人を励まそうとしているのが第一輯だとすれば(黄さんの曲も含めて)、第二輯 (94.11)でふたりが歌おうとしているのは、台湾と台湾人のアイデンティティ、及び「新寶島康樂隊」のアイデンティティだといえるでしょうか。それはつまり、「台湾製」でふたりが表明しているように、もとから台湾に住んでいる人はもちろん、大陸から来た人も、原住民も、みんな台湾人だということ。そして「新寶島康樂隊」はそれら全ての人々のために歌うのだということ。台湾人の心の歌といわれる「黄昏的故郷」がカバーされていたり、鄒族の収穫歌に題を取った「Ka那崗」という曲が収められていたり、音楽の面にもそれが表れています。
そして第三輯 (95.10)では、第一輯と第二輯の要素が統合されたといえばよいでしょうか。その到達点がすなわち「歡聚歌」と「愛與死」。ここまで歌えば、次は何を歌うのか? ふたりの協力が、アルバムを重ねるごとに密接になって来ていることにも、とても感動した覚えがありますが、ふたりの別れをも予期させるものだったと、今になって思います。それにしても、黄さんの「日出」、陳昇の「凄美燈塔」って、名曲ですよね。
陳&黄のコンビ時代にはもう一枚、「老寶島康樂隊」(96.2)がありましたね。「老」の名が示すように、既発表曲や台湾老歌(なつメロ)が収められているのですが、リミックス・バージョンやライブ・バージョンで遊び心いっぱい、とても楽しいアルバムです。Vivien のお気に入りは「テクノ日出」。陳昇が得意の喉で、自分の声でテクノっています(笑)。声でテクノるってどういうこと? と疑問を抱いた方は、ぜひこのCDを手に入れてくださいね(笑)。それにしても陳昇って相当変な人ですよ。でも、Vivien はそこが好き!
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