等待新世界
「注意! 十二光時以内に、マーチトン前哨指揮ステーションに対して身分識別を提出せよ。さもなければ本船は防衛線に達する一光時前に破壊される・・・・・」
僕は騒がしい警告の中に目覚める。僕の目覚めに気づいたコンピューターは自動的に操作指令を操縦船へと切り替えた。
生命維持システムのたてる低い音の中、やっとのことで目を開くと、船室内のかすかな灯りが、目を刺すほどにまぶしかった。静かに横たわりながら、自分の遭遇した全ての出来事を思い出し、それがもはや夢ではないということを確認すると、力をふるい起き上がろうとした。
「百三十二光年」。操縦盤の数値から、自分が百三十二光年飛行して来たことを知った。
この百三十二光年の間に起こったことを、飛行船のマザーコンピューターに報告させる。
「アイマー星の虫洞から投げ出されたあと、空間が歪曲し、あなたが当初設定した路線を確認するため、六万八千百三十回の修正を行い、迂回路を経てここに到達しました。反物質加速器の七十パーセントのエネルギーを消耗。最終的に目的地を再確定するまでは、現在の直線飛行を続けるのが最良だと建議します」
「しかしこの様子では、マーチトン防衛線を飛び越えることは不可能だ」。僕は内心ひそかに疑っていた。マザーコンピューターは、指令を下されないままに、七十パーセントのエネルギーを使い果たしてしまったのだろうか。
「疑念があるなら、3050年の資料の再検査を行ってください。その一年の間に、私が取った待避飛行アクションは574201回、そのうち三回は流星が直接命中し、その際、二号生命維持システムが破損しました。いかに安全にマーチトン防衛線に接近するか、設計モデルの規定により、私が独自に判断することは不可能なため、マーチトンの最終守備軍は私が敵か味方か識別することができず、警告を発し続けています」
「僕たちにはどれだけの時間があるんだ? 対処するために」
「天字97!」。それが僕の名前だ。だがもう長い間、そう呼ぶ者はいなかった。
「そうだ!」。僕は権威を示して計器盤を叩きながら答える。
「私の忠告をお許しください。あなたは『僕にはどれだけの時間があるんだ?』と言うべきであります」
「なぜだ?」。感情があると公言されているこれら究極のコンピューターのために、突然、苛立ちを感じ始めた。
「当初の大戦時の事をお忘れになりましたか? あなた方、全ての一級クローン人間の耐用年齢は二十年です。それゆえ天字97、あなたは百三十年、あるいはもっと前に廃棄処分になるはずだった・・・・」
「あるいは、公約に従い、あなたの身体から採取した細胞を再分裂させ、新しいあなたを製造しなければならなかった」
(公約 : 戦闘力を保持するため、新人類の戦士は、四十歳になると退役し、クローン生殖で再生されることに同意しなければならない)
「じゃ、どうして僕を起こしたんだ? 冬眠期間中に謀殺することだって、できただろうに!」
「現実に即していえば、新しいあなたと古いあなたの間に違いはありません。それゆえ理論的には、あなたを再製造する必要はなく、そのうえ私は人間に服従するように設計されており、人間の同意を得なければならないのです」
「それから・・・・」。彼、あるいは彼女は言った。
「あなたが乗船後に行った当初の路線設定は、私のオリジナルの設定と矛盾しています。私の資料の中にはこの航線はなく、それゆえ・・・・・」
「それゆえ、どうだというのだ?」
「あなたは強制的に戦区の指令を変更しました。私はあなたにハイジャックされたというべきです」
「ハイジャックだって! 僕は逃亡兵だと言うのか?」
「確かに! 私たちは逃亡兵です」
まるで言い争った恋人たちのように、僕たちは黙り込む。
「そしてこの型式のコンピューターは、耐用年限が百年。だから実際には私はすでに寿命を超えた老いぼれ機器なのです」
「そういうことなら、僕は君に感謝しなければならない。僕たちの飛行中に自殺しなかったことを」
「自殺! 自己破壊のことですね。申し訳ありません。この種の言葉は一部のコンピューターにとってはあまりにも難解で、それゆえ私には答えることができません」
「結構なことだ。目が覚めてみると、自分はすでに世界の果てに身を置き、話の通じないぼろコンピューターが相手だなんて。これからどうすればいいんだ・・・・・」
僕は悲しくなって来た。この時、僕は投降した戦犯にさえ及ばなかったのだ。戦犯ならば少なくとも収容する者がいる。しかし僕は百三十二光年を飛行し、人類最後の境界まで来て、来た道を探し出すことができない。たとえマーチトン防衛線を突破できたとしても、その先の空域は人類未踏の新世界なのだ。そこには、あるいは旧世界と異なる道理、思想があるかもしれない。もちろん形状についてはいうまでもない。たとえ再び限りない冬眠を重ね、目覚めの時が数万年ののちであったとしても、どのように対すればよいのか? 僕を発見し、捕獲し、あるいは楽観的な言い方をすれば、僕を収容する友達、生物、あるいは・・・・・。彼らに対して自分のことをどう説明すればよいのだろう?
互いの沈黙に耐えながら、究極のコンピューターに長い眠りから呼び覚まされたことを恨み始めた。あるいは、あのまま無期限に眠り続けるべきだったのかもしれない。
あるいは、防衛線の幾光年か彼方には神々が住み、慈悲があるならば、おそらく僕のこの疲れ果てた心を受け入れてくれるだろう! 僕は考える・・・・・。
窓外の果てしなく深い空を眺めても、時折、高速で後ろに飛び去る天体の他には、見慣れた物は何もない。
そして家は? しかし僕には家はないのだ。究極のコンピューターが僕に言ったように、この型式の生化人間は、物事を理解できるようになった時にはすでに二十歳、子供時代もなく、記憶もなく、母親さえもいないのだ。
僕にいるのは父親だけだが、それは自分自身である。僕は自分自身の身体から採取した細胞を分裂させて再製造された人間なのだ。そして父親に関する記憶はすべて、新しい僕が生産された時に断ち切られた。
しかし、僕が本当に手に入れたいと思うのは、ただ自然に老いて行く権利である。僕たちは誰でも知っている。四十歳になれば、核生命交替を管理する人間が訪ねて来るのだ。そのあと、僕たちが「工場」と呼ぶ場所に連れて行かれ、古い自分は廃棄され、新しい自分が再製造される。それが永久に繰り返されるのだ。
自分がこのような方式でどれほど命を永らえて来たのか、僕にも分らない! 記憶を持った時には、すでに名前も知らない戦区に身を置いていた。
過去に対する記憶は何もないので、僕たちには分らない。この戦争がどれほど続いているのか? なぜ戦うのか? いつ終わるのか?
僕たちはただ命令に従い、戦区を飛び越えようとするあらゆる物体を攻撃するだけだ。敵を目にしたことは、かってなかった。それは今、マーチトン防衛線の守備軍が僕に対して要求しているのと同じことだ。
あるいは、過去の兵役に服していた日々に、自然に老いる権利を争奪しようと逃亡した人々を、僕も殺したことがあるかもしれない。しかしマーチトン防衛線については、僕たちもただの伝説だと思っていた。
マーチトン! マーチトン! 人類最後の境界。伝説では、最も優秀な新人類の一団に守られているという。
もちろん僕は新人類については何も知らない。ただ新人類にはいわゆる感情というものがないのだそうだ。今僕と運命を共にしている、あの究極のコンピューターほどの感情も持たない。
感情がない、それは笑顔も涙もないということを意味する。あるいは彼らには顔さえないのかもしれない!
笑いも泣きもしない人間に、何のために顔が必要だろうか?
座り続けていると、しだいに疑問がきざしはじめた。百三十二光年前に僕が下したあの決定は正しかったのだろうか。確かなものを捨て去り、未知の方向へ逃亡するというあの決定は・・・・・。
「残っているエネルギーだけで、もう一度類次元跳躍を行なうことは可能か?」。僕はコンピューターに尋ねる。
「マーチトン防衛線を透過するのですか?」
「そうだ! 僕たちにはそれ以外の選択はない。そうだろ?」
「しかし、透過のあと、航路の変更や待避アクションを取るエネルギーはもう残りません。ただ慣性に従ってマーチトン後方の空間、新世界に投げ出されることになります」
「どちらにしろマーチトン防衛線に向って行けば、壊滅されるしかない。マーチトン防衛線を透過したあと、生き残って救助される確率はどれぐらいだ?」
「・・・・・」
「答えろ!」。僕は語気を強め、冷ややかに尋ねた。
「私はかって懸命にその計算を行ったことがあります。非理性的な推測さえ試みました。私たちの記憶の中には、新世界の資料は完全にはそろっていないので、私は軽率に答えを出すことはできません。おそらくあなた方人類の言い方を借りれば、銀河系で地球を探すようなものでしょう!」
銀河系で地球を探す、これははるか昔の喩えである。伝説の中の地球は、この戦争の前にすでに壊滅されたという。
「しかし捕れる確率は、やはりマーチトン防衛線を強行突破する方が高いだろう?」
「もちろん! 撃滅される確率が百パーセントです」
「恐いか?」
「私には恐怖というメカニズムはありません。恐怖というプログラムはインプットされていないと言うべきでしょう! それはどのような感覚ですか?」
「懸念というプログラムはインプットされているのか? 僕が思うに、懸念を何十個か集めれば、きっとひとつの恐怖になるはずだ」
「・・・・・」。それは答えなかった。
「僕たちは類次元跳躍を行なおう!」
「お知らせしておかねばならないのですが、あなたには心理的な準備が必要です。絶対冬眠をしない状態で類次元跳躍を行なえば、代謝機能におそらく小さな変化が起こるでしょう」
「どんな変化だ?」
「理論的には少し若返るはずです」
「はは!」。おそらくこの旅程で唯一のグッドニュースのために、内心ひそかに苦笑した。しかし万一、一生救助されることがないならば、若返ったところで、直面しなければならない孤独には何の変わりもない・・・・・。そのニュースを喜ぶべきか、または悲しむべきか?
「天字九七! 私の忠告をお許しください。あなたは思考に費やす時間があまりにも多すぎます。これは道理に合いません」
「そうだな! 友よ、しかし人間が負っている重荷を忘れないでくれ。それは結局、君の重荷よりはいささか大きいはずだ・・・・・」
「もちろん! いわゆる恐れ、悲しみ、喜び、寂しさ、退屈など、あらゆるメカニズムを含んでいるのですから、人類の生はきっと幸福ではないと想像しています」
「それにユーモアもある! もし気を悪くしないようなら、忠告させてもらおう。ユーモアは人類が生き延びるための重要な要素なのだ」
「ユーモア! それはいったいどんな感覚なのですか?」
「あるいはそれは得と失の間に築くべきものであるかもしれない。しかし実に難しい。ユーモアを欠いている者に、その意味を説明するなんて・・・・・」
「満足と似ていますか?」
「コンピューターである君に、満足とはどんなものか理解できるのか? 僕にも分らない。ユーモアは満足の一種なのか? それとも満足がユーモアの一種なのか・・・・・」
「あなたの話は私を困惑させます。あなた方人類はこのように、お互いを困惑させることが好きなのですか?」
「残酷なものではあるが、僕はこの世界を本当に愛している」
「私の以前のパートナーも同様の問題を持ち出しましたが、愛といった問題に出会ったのは久しぶりです」
「友よ! 愛はひとつの問題ではないし、さらに出会いであるともいえない。それはきっと・・・・・ある種の・・・・・ある種の獲得だ!」。自分にはとても言葉では説明できないと思った。
「獲得ですって!」。コンピューターは音量を上げたようだった。
「違うな! あるいはある種の交流であるかもしれない。もっと貴い愛になれば、それはきっとある種の・・・・・献身だ」。肩の荷を下ろすように、僕はそう言った。
「あなたの話に、私はさらに困惑しています。水は氷と気体の間に存在できますが、犠牲と獲得の間にどんなものが存在できるのですか?」
「愛だ!」。僕は震えながら言った。泣き出しそうな気持ちだった。
「ああ! なすすべもなく湧き出る愛欲の激流を、僕はどこへ流し去ればよいのだろうか?」
永劫不滅の生命を捨て去り、僕は限りある自己を選択した。
飛行船は驚くべき速度で疾駆している。この冷たい鉄の棺は、僕の疲れ果てた身体を埋葬してくれる。しかし、この億万光年の遥かな宇宙の果てに、この燃える心を埋葬することはできない。僕の生命に対する愛は、すでに空間と時間を凌駕し、死に対する恐怖を凌駕していた。
「一光時のあと、一級警戒区域に進入します。天字九七、あなたの領航権を接収しなければなりません」
「加速だ! 友よ、僕たちの幸運を祈ろう!」
飛行船は透過前の加速を開始し、激しい振動が引き起こされた。エネルギーを節約するため、僕は大部分の生命維持システムを取り除き、操縦室の温度は瞬時に氷点下まで急降下した。
加速力のためにシートにぴったりと押し付けられる。皮膚のそこここに引き裂かれるかのような痛みを覚え、ゆっくりと首から下のあらゆる感覚が失われた。もう音も聞こえない。窓外の星雲が一筋ずつ光の矢となり、飛行船めがけて襲いかかる。重い瞼を閉じると、眼前の一切が見えなくなった。ただ一筋の涙が、小さな氷になり、唇の端に貼り付いているかのようだ。
「もう一度夢を見よう」。自分自身に向って言った。目覚めた時、僕は緑したたる大草原に横たわり、空にはいくつかの雲が浮んでいるだろう。
ひとりの優しい女が僕に向って歩いて来る。遠い空には春雨を予兆させる雷の音が聞こえる。小さな男の子に変わった僕は、女の柔らかい手を取るのだ。
夢以外には、僕には何もない。
飛行船は、邪悪な笑みを浮かべた野獣のように、摩擦と快感を貪りながら、最も暗い、後悔など知らぬ空間へと突入した。まるで鋭利な刃のように、夜の静けさを切り裂き、絶対的な優しさを切り裂き、人跡未踏の処女地を切り裂いた・・・・・。
僕は夢に見た! 緑したたる大草原に横たわり、夢を見ている夢を。夢に現れた僕は、時空を飛び越える飛行船に乗り、目覚めると、船室には物音ひとつなく、聞こえるのは自分自身が呼吸する音・・・・・。
「天字九七!」。誰かが冷ややかに呼ぶのが聞こえた。
しっかりと眼を閉じる。目覚めたくはなかった。しかし、目の前の計器盤がカタカタとまた操作を始めた。
「話せ!」。ゆっくりと眼を開き、僕は言った。
「私たちの現在の速度は、宇宙全体が拡張する速度にほぼ匹敵します。私の意味するところが、あなたに理解可能なのかどうか分りませんが、私たちはすでにマーチトン防衛線を透過しただけでなく、それは今では私たちの遥か後方になってしまいました・・・・・」
「そうなのか!」
「しかし、もし宇宙に果てがあると仮定するなら、そしてその果てに立って私たちを見るならば、私たちは停止していることになるのです・・・・・」
「僕たちは永久に何ものにも出会えなくなったというのか?」
「理論的には、私たちは宇宙の果てに向かって飛行しており、さらにそのすぐそばまで接近しているのです」
「では星は?」。窓外の真っ暗な空間を眺める。
「星は過去に属しており、前にあるのは未来です。私たちは永遠にここに駐留し、時間が意味を失うので、当然のことながら、星は存在しません」
「永遠に!」。僕は驚いて言った。
「永遠に!」。それは言う。
「時間はもうあなたを煩わせることはありません。すでに意味を失ったからです」
僕は激しい身震いに襲われた。
「永遠に老いることはない!」
「永遠に老いません!」。コンピューターは冷ややかに言った。
「あーっ!」。悲鳴が口をついて出た。僕は永遠にこの鉄の棺に閉じ込められ、老いることはない。ただ想像だけを永世の友として、永久の孤独を耐えるのだ。
僕は泣き始めた。
「これが戦区から逃亡した目的ではないのですか? 死から逃亡した目的ではないのですか?」。それはあわてて尋ねる。
「これは永久の煉獄だ。僕は今、飢えも渇きもない人間になってしまった。実際には、死ぬ権利さえ失ったのだ」
「死ぬ権利、あなたがあなたから逃亡する権利」
「遠い昔、伝説の中の神は、ひとりの平凡な人間になることを願って、永久の生を放棄した。今の僕はすでに神になってしまったも同然だ」
僕は退屈な対話を停止し、そのままずっと身じろぎもしなかった。どれほどの間そうしていたのか、僕には分らない。なぜなら、もう時間は意味を失ってしまったのである。
眠る必要がないので、夢を創り出す機会さえ失われてしまった。僕を逃亡に駆り立てた要素のひとつは夢であったのに。
ある時、僕は自分の「将来」を考えてみようとした。将来とは現在でもあり、また過去でもあると気づいた時、初めて「死」に思い到った。僕はひとつの意外な死を期待し続けながら、試しに自己の細胞を分裂させ、「彼」がゆっくりと成長するのを眺めていた。しかし、この新しく生まれた自分の運命に思い到った時、断固として「彼」を「抹殺」した。
何度も窓の外に向かい狂ったように笑った。あるいは泣いた。「時間の経過」を知ること、僕はそれを失ったのだ。
考えられることは、すべて考えつくした・・・・・。
どれほど長い時が過ぎたのか分らない。僕は「それ」の存在を思い出した。
「話をしてくれ!」。幾分か謝罪の意をこめ、それに向って言った。僕の心の中には、きっといくらか恥じる気持ちがあったと思う。ここまで来てしまったのはそれのせいだと考えたために。人間の常として、決定を下したのは自分であったことを、僕は忘れていた。
「現状を変えられる方法が、まだあります」。それは言った。
「もう何もかも、耐える力はなくなってしまったような気がする。僕を凍結させてくれないか? 友よ、僕のためにもう一度冬眠させてくれ! お願いだ。眠りに入れば、夢だけは見られる」。泣き出しそうになりながら、僕はそれに言った。
「ご存知ですね。私にはそれは不可能です。あなたに甦る機会があるという保証がないのなら、永遠の冬眠は、あなたを謀殺することに等しく、私にはそれは不可能です」
「このところずっと、僕はここに座っていた。もうずっと以前に死んでいたも同然だと思わないのか?」
「そうでしょうか。過去と未来の間に存在するのは、獲得と賦与の間に存在するのは、ただ・・・・・」
「愛だ!」。僕たちはほとんど同時に声をあげた。そのあと、それはまた長い沈黙に陥った。しかし、それが何かを考えていることを感じることができた。
「私は飛行船内に独立したエネルギー供給システムを持っており、充分な剰余エネルギーを加速器に伝送できます。そうすれば、あなたが自分で操縦して類次元跳躍を行なうことができます。もうあなたのために、私が着地点を計算することはできませんが・・・・・。しかし、ここを離れて遥か遠い地点まで達することができると信じております」。その後、それは突然そう言った。
「それでは、君の機体内の活性体がエネルギー供給を断たれ、活動状態を回復することができなくなる!」
「・・・・・」
感情を持つコンピューターの組織の主体は、雌性人類の脳細胞から分裂させて生み出されたものであり、一般戦区の戦士はそれぞれ、感情を持つ一台のコンピューターと協調して戦う。コンピューターが僕たちの過激な判断のバランスを取ってくれるのである。そのために生み出された脳細胞は、エネルギーの供給を断たれると、もう生き延びることはできない。
このコンピューターは広大な星空で百年以上も僕を守ってきた。僕には永遠に見通せないことも、この百年以上の間に考え尽くしたのかもしれない。
そして今、それはまるで烈士のような口ぶりで、犠牲と愛について僕と論じ合っている。そのような情操は、人類だけに備わっていると思っていたのであるが。
「考えてみてください! ふたりとも、ここで凍結されるよりは、あなただけでも希望のある場所を目指す方がよいではありませんか」。長い沈黙のあと、その言葉がまた耳に届いた。
人類の理念においては、友を犠牲にして、自分だけがいたずらに生きながらえることは、決して華々しい決定ではない。しかし、こう言うところをみると、もうすでに心を決めているのであろう。コンピューターも死を恐れるのか、僕には明らかではなかった。もしこのまま去ってしまえば、友を裏切ることになるのではないか。ふたつの選択の間にある違いを考え続けた。また、人間であるならば、当然保たねばならない尊厳についても思案し続けた。
それは静かに言った。
「友よ! この決定のために、それほどいろいろと考えてくださることに、慰めを感じています。しかし実際には、人類と付き合ってきた経験からすれば、あなたが最後に下す決定は、やはり私の最初の建議になるでしょう。あなたが私を捨て去るべき理由を分析して、あなたに面子を取り戻させる必要はないと思います。あなたは私に命令することもできるし、たとえ命令されなくても、私はコンピューターとしての責任に背くことはできません。私が犠牲になること、それは最初から人類が私を製造した目的なのです」
「自己の怯懦を恥じる必要はありません。人類はいつも自分が怯懦に見えない方法を探しますが、しかしそれは他人に対するものです。この宇宙の果てにいるのはあなたと私だけ。私がどう見るかなど、構う必要はありません。あなたの幸をお祈りします! 友よ」
コンピューターの端末機の目を奪う光彩が、エネルギーの伝送に備えて、しだいに輝きを失い始めた。
「待ってくれ!」。僕は驚いて身を起こした。
「・・・・・」
「答えてくれ。君のためにできることが何かあるだろうか?」
「・・・・・」。端末機の光彩がまた輝きを取り戻して行く。「名前がほしい」。長い沈黙のあと、それは言った。
「僕の父の名は『天字五七』だった。僕はずっとこの名前を持つ友達がほしかった」
「雄々し過ぎる名前です!」。煮え切らない答だった。
半生を前線で戦闘に費やしてきた生化間にとって、直面している問題は容易ではなかった。殺人の技巧なら何でも心得ているが、土壌の中に落ちた種を発芽させる術は知らない。しかし心の中に、しだいに遥かな美しい言葉が浮かび上がり、突然、「母」という言葉を思い出した。それは僕たちが会ったことのない人類であり、伝説によれば、宇宙の遥か彼方に住んでいたが、おそらくずっと以前に絶滅したという。クローン生殖が始まったあと、絶滅したのだそうだ。しかし、僕はいつも彼女の夢を見た。微風の吹く草原で腕をひろげながら、僕に向って歩いて来る夢。
「母・・・・・」。この名前が気に入ったようだった。しばらく言いよどんだあと、それは聞いたこともない優しい口調で尋ねた。
「私たちに・・・・・可能でしょうか?・・・・・愛し合うことが」
僕は端末機に伏して泣き始めた。
「僕を百年以上も守ってくれた。君が僕を愛していることは分っている」
人が愛という言葉を口に出すのは、何と難しいことだろう!
「分ります。私には分っています」。母親というものは、こんな風に人の気持ちを理解してくれるものなのだろうか?
「私を抱きしめてくださいますか?」。それは言った。
「どうすればいい?」。僕は機器に伏せて泣き続ける。
「今のまま、もっとぴったりと、頬を端末機に押し付けてください」。人を眠りに誘うかのようだ。
「母よ! 伝送過程で、君は辛くはないのか? 僕が言いたいのは・・・・・痛みはないのか?」。突然、気にかかり始めた。
「痛みは不幸な生物のものです」。それは落ち着いて答える。
僕は端末機に伏し、長い間泣いた。
「最後に説明しておかねばなりません。あなたが跳躍飛行に入れば、私はもうあなたのためにエネルギーの調節や航路の計算を行なうことはできません。それゆえ、あなたは恐らくどんな場所、どんな時代にも達する可能性があります」
「過去でも未来でも?」
「すでに未来の果てに到達し、私たちは今まさに、虚無の中に停止しています。最も可能性が高いのは現在のどこかに達すること、あるいは過去のある時空に達するかもしれません」。私は何とか理解しようとした。
「理論的には、これは自己破壊行為のようなものです。人類の細胞を保護するため、敵方に乗っ取られるのを防ぐため、究極のコンピューターはいかなる判断も下せない状況においては、通常、最終的なメカニズムを破壊します。これは人類の潜在能力によく似ています」
僕にはしかしその話の道理がのみこめなかった。
「私もさきほど、私のメカニズムの中に発見したばかりなのです」
「私はここにひとつの時空の窓を造ります。あなたはこう想像してみてください。ひとりの母親が自分の子供を抱いて、燃え上がる高層ビルの窓から飛び降りようとしていると」
「・・・・・」。僕には答えられなかった。
「子供には生き延びる確率があるはずです!」。僕を慰めるように言う。
「時空の窓を跳び越えたあと、空間と時間が歪曲します。正確にいうと、時間は引き伸ばされた物体のように、また過去へと跳ね返されるのです」
「それは光速を越えるんだ」。僕は緊張して言葉をはさむ。
「そうです!時間は逆流するはずです。しかし、それは次元や象限を折りたたむような単純なものではありません」。全く理解ができず、僕は急いで尋ねた。
「しかし光速を越えるなんて、道理に合わないのでは?」。僕は教育から得た知識を深く信じていた。
「私たちが愛し合う、これも道理に合わないことです」。この時この瞬間、その声はまるで温かい手のようだった。僕がいつも夢に見る、あの草原で僕に向って差し出される手。僕はほとんど悲しみを忘れ、微笑を浮かべた。
「それでは過去に戻るのか?」。それは結局、どちらかといえば僕の理想に適っていた。
進化を遂げていない人類と、容易に付き合えるだろうか?
「そうです! それも非常に遠い過去です。人類の発生した星系に戻るのです。さらに正確を期せば、おそらく人類の発生した星に着陸できるでしょう」
「名前はあるのか? 言葉はあるんだろ?」
「もし伝説に誤りがないならば、仙女座の何万光年か後方に、銀河系と呼ばれる中型の星系があります。その惑星の名は・・・・・地球です。豊かな水が青く光り、太陽と呼ばれる古い恒星のまわりを回っています」
「広大な宇宙の中で、水に恵まれた、紺碧の星はあまり多くはありません。もちろん、現在ではそれらの星はすべてもう存在しておりません。永遠に止むことのないこの戦争は、多分その星の絶滅と関係があり、人類がこの宇宙の公敵と化したのだと思います。人類はどこへ行っても、そこを滅ぼしてしまう。だから、人類は絶えず征服と侵略を繰り返すしかない・・・・・」
「もちろん、私が知っているのは伝説にすぎません。あなたとそう変わりはないのです」
伝説は不確かなもので、また辿って来た路にも紆余曲折があり、今は宇宙歴で何千年になるのかも忘れてしまった。しかし、僕は胸の動悸を隠すことができなかった。結局、やっとこの旅程の終点に辿り着こうとしている。地球はまるでひとつの灯火のように、心の中で光を放ち始め、その遥かな古い星で、満ち足りて生きる自分の姿さえかすかに見えもした! いつも見るあの夢のように。緑したたる草原の夢のように。
「もちろん、こられのことはすべて仮説に過ぎません」。コンピューターはいつも、状況は容易でないと、注意することを忘れないものだ。
「かまわないから、できるだけの仮説を立ててくれないか? たとえ騙されても、完全に見知らぬ空域に達したあと、思い出せる物語があるのは悪くない」。僕はなおも楽観的に考えていた。
「私に言えるのはただ、過去に戻る可能性が最も大きいということです」。時空を跳躍する時、そばにいてくれれば、正確に着地点を計算してくれると分っていた。しかし僕にはもう選択の余地はない。そのうえ、それが懸命に推理を働かせていることも分っていた。コンピューターには「仮説」というものは存在しないはずであり、更に多くの仮説を立てろいうのは僕の我儘であった。
「おおよその時代は?」。思いついたままを尋ねながら、時代が分って何の違いがあるのかと、思わず自分に問いかけてもいた。
「地球暦で1999年以前、これ以上正確なことは分りませんが、きっとまだそれほど汚染の進んでいない、興味深い時代だといえましよう」
「もちろん、それでも危険はあります」。何かを暗示するかのように付け足したが、この時の僕はもう確率のことなど気にはかけてはいなかった。異次元透過には絶対的な危険がつきものであることを知ってはいたが、過去に希望を抱いた僕は、また新たに戦いに赴く戦士のように、極度の絶望から素早く立ち直ることができたのだ。あるいはこれが、最初に戦闘級生化人間として選抜された要素のひとつであったのだろうか?
「さよならを言う時が来ました。『天字九七』、新しい生活が楽しいものとなりますように!」
「ありがとう。友よ、君のことは永遠に忘れない」。自分の声が尋常でないほど冷酷であることに気づいていた。百三十二光年の永い眠りから醒め、しかし生と死の間に凍結された時、自分が逃れようとしていたのは死であると思っていた。だが、永久不変の生を手に入れようとした時、孤独は死よりも遥かに恐ろしいことに気づき、孤独と死の間で、孤独から逃れることを選択したのだ。
死ぬことさえ恐れない人間が、孤独を恐れるとは。あるいはこれが、人間の心の内で最も暗澹たる怯懦なのだろうか?
* * *
時間:1999年11月31日夜9時31分
場所:台湾南部山間の辺ぴな小村落
「母さん! 星がいっぱい!」。小さな男の子が母の胸にすがっている。
「遅くなったね! もうベッドに入る時間でしょ! お利巧さんにして、お家に入りましょう」
「母さん、もう少しだけ! 父さんだって、まだ帰ってないし!」
「帰って来た父さんに怒られないようにね」。若い母親は男の子を抱き、凍えて紅くなったその頬に口づけしながら、愛おしむように言った。
「母さん、見て! 流星だ! とっても大きな流星!」。喜びに躍り上がり、男の子は飛び去る流星を追いかけようとする。
「お願いだ! お願いしなくちゃ! 父さん、母さんが永遠に僕のそばを離れませんように・・・・・」。あどけない声が真っ暗な草地に呼びかける。だが答えはなかった。
* * *
天狼星と称される星の右側を、流星がひとつ、涙を流しながら、驚くべき速度で滑り落ちて行く。コントロールを失った飛行船は、大気と荒々しく擦れあいながら、船体のいたるところを炎熱に焼き尽くされ、粉々になって墜落した。
飛行船の乗員が、その一生で最大の渇望をこめて放った悲鳴を聞く者はなかった。その声は、燃えさかる光の中を滑り落ち、焼けこげ、記憶されないまま永久と化した。
彼の涙は、そのあとその空に降った最初の雨とともに、大地に口づけし、土壌の中へ、地球の中心へと染み込んで行った・・・・・。
* * *
もし静かな夜に地上へと滑り落ちる流星を見かけたなら、願をかける前に、どうか、その胸を突く悲しみに満ちた泣き声に耳を傾けてくれ。その声は遥かな星空から来たのだ。渇望に満ちた心の底から来たのだ。君や僕と同じ心の、最も深い底から来たのだ・・・・・。
Vivien's note :
感情を持つに到ったコンピューターとクローン人間が登場するSF小説(!)。その設定自体には新味はありませんが、ふたり(!?)のかわす会話がいかにも陳昇らしいですね(愛だの、自己犠牲だの)。一読したときに直感的に思ったのですが、最後の結末をこのコンピューターは予測できていたのではないでしょうか。永遠の孤独から主人公を救済するために、故意に死地に赴かせた・・・・・。それがこのコンピューターの愛だったのではないでしょうか。
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