虚幻與眞實
音楽は革命のようなものである、というわけには行かない。そのふたつには何か共通するものがあるという人がいるなら、多分、そんな人はとても無邪気で、極端な場合、ちょっと無責任でもある。
常々、好蘭迪(訳註 : ロックレコードの関係者。後述の「擁擠的樂園」のコピーを考案した)に言ってやるのだが、彼のような人間は、何年か早く生まれて、白色テロの時代に生きていれば、とっくに捕まって打ち首になっていたかもしれない。
もし君が問うなら、僕はむしろ李白のように自分自身の終南捷径(訳註 : 目的を達するための近道)を行くことを選択し、毎日、うつけ者のまねをしてもよい。自分の作品に対して責任を負いたくないというわけではない。ただ、意識の形態というものは、年齢や性質に従って簡単に変わってしまうものだ。まして現在のように、何もかもが超スピードで変遷してしまう時代においてはなおさらである。
僕は恐いのだ。今日口に出したことを、明日になれば自分自身でさえ否定したくなる。それならいっそ言わないにしくはない。
そのうえ、作品の中に散りばめた考えを、若者たちは断片的に取り上げ、有難いお手本にしたりするのだからなおさらだ。だから僕はよく好蘭迪に対して、ファーストアルバムのコピーにあんなことを書いたせいだと、うらみつらみを述べるのだ。もし君が僕を変だと思うなら、それは僕が真実であるから。
この言葉には苦労させられた。
自分が真実であることを示すには、何をするにしてもちょっと奇怪でなければならない、という意味に変わってしまったからだ。
あるいは、毎日点検しなければならないのだ。真実という標準などない標準に、自分が背いていないかどうかと
あの日、車で花東海岸に向ったのは、恐らく本当に悩んでいたからだと思う。陽蘭平原を過ぎ、それから花蓮に向う。そこには百キロに及ぶ山道があった。夜、車を走らせると不思議なことがある。灯火の明々と灯る小さな町を無意識のうちに通り過ぎ、再びいいようのない漆黒の闇に包まれると、火に飛び込む蛾のように、止めようもなく光へと吸い寄せられる衝動が、突然、湧き出すのだ。
奇妙なのは、自分自分にこう言い聞かせていたことである。車を走らせるのは、自分が元いた場所、その最も強烈な光源から逃れるためだと。
僕は強い光から逃げ続けることを自分自身に強制した。その何日かは台風が来ようとしていたのだろう! 異常なほどの晴天で、時おりこぬか雨が舞い落ちても、雨の中には満月さえ姿を隠していた。
夜が深まり、行き交う車もほとんどなく、車は断崖の間を行ったり来たり。空飛ぶ円盤にでも遭遇できたらなあ。僕は本当にそう思った。
子供の頃から、この種のSF的な奇想に傾倒していたのだ。円盤に拉致されて洗脳されないものか、いくらかの啓示を得られるのではないか、などと考えていた。
前後の村から遠く離れて、車を下りることにした。灯りを消すと、またこぬか雨が舞い落ち、明月のもと、崖のそばに何と虹がかかっている。
「明月の下の虹」は真実である。しかし幻でもある。この眼で見たから、夜でも虹がかかると、僕は信じている
しかし、その虹には手を触れることができないのだから、それは幻でもある。
僕は困惑した。同じように存在する幻と真実に、どう境界を定めればよいのか、困惑していたのだ。
人々はよく舞台の上は孤独であるという。そこで一時期、パフォーマンスはひとりきりで林を散歩するようなもの、あるいは七美島の海辺をそぞろ歩くようなものである、と想像しようと努力した。
パフォーマンスの中で生まれる異常な気分は、筆やペンでは言い表せない感覚である。
幸福に属するわけでもなければ、悲しみに属するわけでもない。しかし、また何もかもが・・・・・。
心理学でいうところの「半睡眠状態」が、パフォーマンス時に生じる幻や遊離感を科学的に説明しているかもしれない。しかし何事も科学的に説明するのは夢がないというものだ。
最もありふれた現象は、パフォーマンスを終えても、終わったことが信じられず、三時間のコンサートがたったの半時間にしか思えないことである。
これは僕にアインシュタインの相対性理論を思い出させる。熱い焼きごてを握る一秒は一時間よりも長く、反対に美人の胸元に横たわるならば、時は短く感じられる。
確かに僕たちは多少なりとも気づいていると思うのだが、時に人は、アルコール、精神興奮剤、あるいは禁制品の力を借りて、パフォーマンスの機器を駆動させることがある。
これらがパフォーマンスの過程で幻覚を生み出すのは、確かに当然である。しかし結局、それは不自然で少数だ。僕はどちらかといえば、パフォーマンスの中で生み出される異常な気分(あるいはそれを幻覚と呼ぼうか!)の大部分は、わりとスポーツマンに似たものだと信じている。
マラソンランナー。
ランナーは長距離走の過程で、身体的苦痛から脳の中にモルヒネ(訳註 : モルヒネによく似たベーターエンドロフィン)を生み出すのだ。三、四時間に及ぶコンサートは、もしかしたらマラソンレースのようなものかもしれない。もしかしたら・・・・・もっと困難であるかもしれない。
なぜなら、パフォーマーが気にかけねばならないことは、おそらくもっと多く、もっと広範であるからだ。舞台には数え切れない危険が存在する。舞台一面に交錯する電線、さまざまな効果を生み出す何十、何百という機器やダイヤル、ボード、あちこちに配置されたマイクスタンド、目のくらむ、絶えず色を変える照明の光、気まぐれで騒々しい音楽の音。
もちろん、さらに最も奇妙な「協調」というものが存在する。
バンドの協調は、練習を始めた時に成立するわけではない。実際には、ふたりのミュージシャンが出会った時、すでに発生しているのである。僕はそれを好んでこう呼ぶ――カクテル効果。
Vivien's note :
ふむふむ、偉大なるパフォーマー(Vivien は陳昇をこう呼んでいる)の告白、実に興味深いですね。三、四時間のコンサートがたったの半時間にしか思えない。道理で延々とやってるわけだ(笑)。Vivien も最初の頃は、三、四時間があっという間に終わる感じでした。今はそうでもないけど(笑)。うむ、初心に戻らねば・・・・・。
ところで、陳昇が引用しているアインシュタインの相対性理論って、ちょっと違うんじゃない。それは単なる相対論では、ございませんでしょうか。それとも Vivien の思い違い!?。
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