田中城

 所 在 地   滋賀県高島市安曇川町田中  別 名   上寺城
 遺 構   曲輪・土塁・堀切・土橋  形 式   山城(標高221m)
 築 城 者   田中氏  築 城 年   不明
 歴  史  田中城は、近江佐々木源氏の庶流、高島七頭の一員、田中氏の居城である。標高は221mであるが、麓からの比高は60mほどであり、山城の峻険さはみられない。このため、要所に堀切、土塁、武者隠しなどが配置されている。
田中城は、「信長公記」に[田中の城]として登場する。巻三(元亀元年-1570-)には、織田軍が越前攻めから撤退した後の記事として、信長が田中城に宿泊したこと、志賀の陣で柴田勝家等が田中城に布陣したこと、が記載されている。従って、この頃は、田中城は織田方に属していたようだ。
しかし、巻五(元亀3年-1572-)になると、信長が和邇に陣を敷いて田中城を囲み、付城を築いて明智光秀等を置いたことが記載されており、このときには田中城は朝倉・浅井方になっていたようだ。
そして巻六(元亀4年-1573-)に、信長が大船で高島郡に出陣して、田中城を猛攻し、城兵は降伏して城を退去したという記事がある。この田中城の落城より1ヶ月後に、浅井・朝倉氏は滅亡した。
歴 代 城 主 田中氏


  現地表示板に天主跡と表示される曲輪
この曲輪の東南隅に天守台らしきものがあるが、築城された時代を考えると、天主跡と名付けるのはどうだか。一の曲輪としておこう。
  一の曲輪(天主跡)の西面の土塁
この土塁は高く残っており、その外側の面は切岸状に鋭く切り立っている。


土橋 土塁


        現地案内板の縄張り図
東西約400m、南北200mの規模であり、梯郭式に曲輪が複雑に連なる。


<アクセス>
県道沿いの上寺のバス停から集落を抜けると裏山になる。この裏山に田中城がある。裏山に入ってすぐに屋敷跡の削平地があり、さらに奥に進むと城域になる。バス停周囲のスペースに車を置くことができる。
城域に入ると、「順路」の標識があるので、その矢印に従って歩けば、城域内を巡ることができる。しかし順路の標識で案内をしてれる割りに、城域内は整備されているとは言い難く、蜘蛛の巣を避けながら巡ることになる。(2008.09.23)

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