ネパール、メラピークへの旅(その@)

 

首都カトマンズは、名前だけ聞くと空気の澄んだ高原都市を思い浮かべる人が多いようですが、実際にその標高は1350mで市街は盆地になっています。かっては海の底であった由で、今でも多くの水生生物(貝やアンモナイトなど)の化石が道端で売られています。(中にはインチキ品もあるので、ご注意を!)


19世紀の国家統一前は、15世紀にカトマンドゥ、バクタブル、パタンの各王国が競って美しい寺院等を建立し、ネワール美術がこの時期に完成されたといいます。カトマンズ及び周辺のバクタプル、パタンなど歴史的建造物は早くからカトマンズバレイとして世界遺産に登録されています。その他、町全体に溢れる猥雑な活気、ラマ教やヒンズウ教の寺院で見る光景は異文化との遭遇そのものであり、強烈な衝撃を与えてくれます。

しかし誤解を恐れずに云えば、清潔好きな人にとっては排気ガスとゴミで汚れている町であるとの印象が強いでしょう。一昨年にシルクロードの旅で訪れたウルムチ(新疆ウイグル地区の区都)と同様の、都市化、人口集中による弊害を具現化している典型のような町でした。

正確な統計など無いので詳しい現在の人口は分かりませんが、100万〜200万(!?)と云ったところのようです。多くの開発途上国の例に漏れず、農村よりの流入人口の増加が著しいようです。
 こと斯様に清濁併せ持つアジヤの秘宝のような町、国家ですが、最近は昔に比べれば西洋文化の影響も激しくなった由で、そういうところを割り引いても、
まさしく癖になりそうな魔力を持っています。(あるいは徹頭徹尾嫌いになるか、何れかでしょう。)今回我々が訪れたのはそのうちのごく一部にしか過ぎませんでしたが、この地域の文化、風土が一部でも理解しえた気分にさせてくれた旅でした。


さて山に戻ります。チョーオユー遠征に負けず劣らず(?)メラピーク山行の参加者も当初3名の予定が1名減り、最終的には隊長を含めて3名となりました。H隊長は昨年のモンブラン山行でも御一緒しましたが、8000m峰三座登頂の経験も持つ海外高所登山のベテラン。もう一人のM隊員は、ヨーロッパのマッターホルンやモンブランへも登ったことのある、隊長と同い年の女性です。昨年のネパール、アイランドピークで6000m峰に初めて登頂しましたが、この時に高所に極めて強い体質であることが分かった由。小柄ながらパワーがあり、性格も明るいおばさんです。彼女はネパール経験者らしく、日本やヨーロッパと余りに違いすぎる体験に戸惑う私に、色々とこと細かくアドバイスしてくれ、大いに力づけて頂きました。
 
今回の目的地はネパール東部のクーンブ・ヒマール山群地区の東、マカルー、バルン国立公園内にあるメラピーク(中央峰:6461m)でした。(中央峰以外に北峰(6476m)、南峰(6065m)の2峰もありますが、登頂対象は通常、中央峰です。)
その南面は急峻な壁ですが、その北面はなだらかな斜面をなし、山頂直下からスキー滑降している記録もあります。

トレッキングのルートは、「エベレスト街道」の南の基点であるルクラ(2840m)から東に向かい、ザトワール峠(4600m)を越えイングゥ・コーラを遡ります。源頭部を南に回りこむとベースキャンプ(BC)のカーレ(5045m)がありメラ・ピークのアタック基地として位置付けられています。

メラピークのアタックだけなら、基本的にはルクラよりの往復行です。漸次高度を上げてゆきますので、5日ほどかけて「高所順応」を果たして行きます。

しかし「エベレスト街道」のトレッキングが、その基点のルクラ(2800m)より毎日徐々に約500〜1000mづつ高度を上げるのに反して、このルートは2日目の峠越え(高度差1600m、峠越えの宿泊地4300m)がなかなか厳しく、多くの登山者がここで体調を崩すなど、比較的困難なトレッキングコースに位置付けられています。


実際に、昨年にクスムカングル峰(6367m)の高度順応目的でメラピークを目指した友人の3人パーティのうち1名は、風邪による体調不良もあり、(本命の山のみならずメラピークの登頂も適わず)この峠越えで帰国せざるを得なくなりました。


昨年のアイランドピーク遠征と同様に、BCまではコック帯同・テント泊のキャラバンです。メンバーは、ガイドのシェルパ1名、コック1名、雑役を担当するキッチンボーイ2名、外にポーターが10名、我々を入れて総勢17名の大部隊でした。昨年はヤクを5頭雇い荷物を運ばせましたが、今回は峠越えの難路のため利用不能で、ポーターに頼る外はありません。全員、ルクラで雇いました。空港近くで待機していると、向こうから売り込みに来ます。買い手市場の取引です。彼ら(2名の女性もいた)現地雇用のポーターは、言葉数こそ少ないが真面目で気持ちの良い若者達でした。基本的に、ポーターは片言の英語、日本語は喋れますが、日常会話はネパール語です。英語(その他の外国語)が喋れないとガイド(シェルパ)にはなれません。コックも同じです。


BC以降のハイキャンプ(HC)への荷揚げには、一部のキッチンボーイ、ポーターが協力してくれました。HCからさらに頂上まで、5時間ばかりの行程でした。


彼らスタッフの業務は見事なまでの分業で、基本的にポーターは荷物を運び終えるとその日の業務は終了です。

ポーターは主に「ドッコ」という竹で編んだオムスビ形(逆三角形)の籠に荷物を入れて運ぶもの、あるいは簡単な背負子にダッフルバッグやテント袋を結わえ付けて運ぶもの、それから主にテーブルや椅子などの大きなものを運ぶものなどがいましたが、何れも荷物に掛けた紐を前額部に渡して此処で支えるという、我々、肩紐で荷物を持つものからすればとんでもない首の力で支えて運んでいるのに、何時も感心させられました。

ポーターも最初から最後まで雇用が保証されている訳では有りません。旅を重ねるに従い荷物も減って来ますので、5名のポーターはBCの1つ手前で解雇されました。彼らは主に女の子や体力の落ちる人たちでしたが、ガイドより解雇を告げられた時には(薄々分かっていたでしょうが)、悲しそうに去って行きました。我々も辛い別れを悲しみました。


キッチンボーイはテントの設営や食器、調理具の整備運搬も仕事ですし、食事の後片付けと次の食事の用意があるので、常に我々より遅くに出発し、(追い越して)早く目的地に到着しないといけません。コックは勿論、調理(およびキッチンボーイの指導)です。
ガイド(シェルパ)は登山隊の安全確保、全てのスタッフに対する指揮命令と、顧客の食事の際のサービスなどを一手に引き受け、ディレクターとして遠征の成功を目指します。高所でのルート工作なども行ないます。

私はガイドのラクパ・シェルパは初対面でしたが、37歳の日本語ができる温厚で信頼できる人物でした。昨年のアイランドピークでH隊長やM隊員と一緒に行動したのみならず、この前までチョーオユー(8201m)登山で隊長と一緒であった親密さでした。

トレッキング中、我々の歩行時は、防寒具、雨具、カメラ、行動食、水筒を入れたザックを担ぐのみで、まさしく大名山行(これに慣れたら日本の山は登れない心配があります)でした。

食事は、基本的にはネパール料理(カレー味がベースとなった具を御飯にかけたもの:「ダル・バート」という)というよりは、1.米かパスタ2.野菜と肉、ソーセージなどの煮物3.スープ(主に味噌味やチーズ味)の取り合わせでした。

我々は主として高山病のリスクから3500m以上の
高地での飲酒は止めていましたが、シェルパ(ポーターは?)はバッティ(山小屋のようなもの)での夕食後、地酒(どぶろく)を楽しんでいたようでした。

登山終了後、出発点のルクラまで戻った時点で、メンバー全員で登頂の成功を祝して打ち上げパーティを行いました。

この際には(食事、酒代は我々持ちということもあり)コック、キッチンボーイにポーターも交えて、全員で楽しく飲食し過ごしました。(通常、客とスタッフ、ことにポーター、キッチンボーイ、は一緒に食事をすることは有り得ない。ポーターのキャラバン中の食事代は、ガイドから支払われる賃金より自分でバッティなどに支払う由。)


この際彼らにとって重要なことは、サーダー(シェルパの親方。我々のパーティーではラクパ.シェルパである。)から支払われる所定の賃金に上乗せして、我々お客から各スタッフにボーナスが提供されることです。今までの苦労が報われるので、みんな大喜びで、つい遅くまで過ごしてしまいました。

 




ネパール語のあいさつで基本の一語は「ナマステ」です。「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」、「さよなら」と何時でも使える便利な言葉で、トレッキング中も子供達が小さな手を胸の前で合わせて「ナマステ」と挨拶を返してくれると、ほっとします。もともと、仏への感謝の気持ちを表す言葉だそうです。

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