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繁みにて


 暑い暑い日の続く、夏のコロナに、朝が来ました。今日も雲ひとつない上天気です。
 空気は、日の出と共に、ぐんぐん暑くなりました。ただ、森の大きな樹々の下は、 まだ少しさわやかな風が渡っていました。

 その森陰の小道を、ドーソン・トードは歩いていました。
 独特の響く声で、鼻歌を歌いながら、ぶらぶらと…。そして、ときに立ち止まって、 枝の小鳥を見上げたり、落ち葉の陰のきのこを覗き込んだりしています。
 そうしながら、少しずつ、ラドゥの神殿の方へ向かっていましたが… 分かれ道でふと立ち止まると、まったく別の方へと曲がりました。
 近くに住むハーフエルフのレンジャー、ラケルのことを思い出したのです。 しばらくぶりに、ちょっと顔を見てこようと思い立ったのでした。

 自分自身の気まぐれを楽しむように、のんびりと歩いていたドーソンでしたが、 ラケルの住む小屋が見えるところまで来たとき、その表情が変わりました。
 妙に張りつめた空気を感じたのです…そして、緊迫した様子で何かをしゃべっている、 ラケルの声がかすかに聞こえてきたのでした。

 ドーソンは、大またに小屋に歩み寄るや、ガツガツと戸を叩きました。
「おーい、ドーソン・トードだ。何かあったのか」
 すると、小屋の向こう側から、青い顔をしたラケルが顔を出しました。
「ドーソン、こっち! 大変なんだ」
 言いながら、せわしなく、小屋の裏手の茂みへドーソンを引き込みました。

 ドーソンが小屋を回り込んで茂みに近づくと、かすかな血の臭いがして、鹿が一頭、 びくりと頭をもたげました。まだ白い斑点の残る、この春生まれの子鹿です。
 うずくまったまま震えている子鹿の後ろ足の付け根に、矢が一本、深々と刺さっていました。

「今、ここに倒れているのを見つけたんだ! 手伝ってよ。早く、助けてやらなくちゃ!」
 早口にまくし立てるラケルに、ドーソンは、ことさらゆっくりと深くうなづいて見せました。
「うむ…だが、その前に」
 と、言葉を切って、森の大地のような深い色の瞳で、ラケルの目を見つめました。
「まず、お前が落ち着かなくてはな。
この鹿は、『ラケルのところへ来れば助かる』と信じて、この足でここまで来たのだろう。
 そのラケルがそんな風にあわてていたら、不安になるぞ… この鹿も、近くにいるはずの、この子の母親も」
 そう言って、ドーソンは、その辺の茂みに向けて手を振りました。
「う…うん」
 気おされたようにうなずいたラケルは、小さく深呼吸を繰り返しました。

 多少、その顔に血の気が戻ったのを見て、ドーソンは腕をまくりながら、
「で、まずはどうしたらいい。小屋に入れてやるのか?」
 と、尋ねました。
「いや…でも、開けたところまで運んでやらないと…それから、お湯を沸かさなくちゃ」
 ラケルが答えました。ドーソンは無言でうなずき、 ゆっくりしゃがみこむと、そっと子鹿を抱き上げました。

 ラケルが小屋の中から薬箱を持ってきて、傷口の周りを手早く器用に消毒する間、 ドーソンは無言のままラケルの指示に従って、そっと子鹿の体を押さえていました。
 が、いよいよ矢を抜く段になって、突然口を開きました。
「すこぶる痛そうだな」
「うん。でも、仕方が無いよ。…ちょっとの間、我慢していてね」
 ラケルはそう言って、子鹿の首筋を優しくなで、それから、難しい顔になって、 鍋で煮立てて消毒したナイフを取り出しました。
 と、ドーソンは、
「ああ、ラケル、ちょっと待ってくれ」
 言うなり、素早く呪文を唱えました。

来たれ、闇のたてがみ、音無き夜のひずめ
来たれ、夜風に乗りて馳せる、夢と眠りの運び手よ
…夢魔よ、夢馬よ、ナイトメアよ!
この小さきものに、深く安らかなる眠りをもたらせ!

 精霊使いの魔法、「眠りの風」の呪文です。
「麻酔と違って、本当に痛いと目がさめるからな。気休めにしかならないかも知れんが… 無いよりはましだろう」
 子鹿が、ぐったりと体の力を抜いて、深い眠りに陥ったのを確かめると、 ドーソンは言いました。
「大丈夫だと思う…痛みを抑える薬草も使っているから」
 ラケルはちょっと表情を緩めてそう答えると、再び顔を引き締めてナイフを握りました。



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