海越ゆる歌舞〜雅楽海外公演回想録エッセー〜

ヨーロッパの風 1990秋

5 オランダ〜旅の終わり(未完)

 

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アムステルダムの雨

これを日本の梅雨空の下で、思い出して書いている。日本には梅雨がある。僕の住んでいるのは瀬戸内に面したところだけれど、オランダは北の日本海の空を思い出す。どんよりと雲って いて、いつ晴れるとも知れない空だ。風車のそばまで傘をさしていったけれど、かなり降ってきたのですぐに戻った。長旅の終盤にさしかかったちょっとしたさびしさは、夏の終わりのさびしさに似ていた。しかし、日本の梅雨の向こうには夏があるので、その憂鬱もふっ飛ぶのだが、このオランダには次の明かりが見えない。はじめて体験する不思議な気持ちだ。他の楽人たちのこころにも、しっとりと雨が降りかかっている様子は同じだった。

少し、旅の終わりを感じさせる雨の中、最後の公演はトロッペンミュージアムの劇場で行われた。最初の気負いに満ちた楽とは違い、いつしか、南都の楽 の激しさや粗野な響きの中に落ち着きに似た音の調和が生まれ始めていた。あれから十年以上たった今だからこそ、そう、感じることができる。ひときわ大きな拍手と二回のアンコールをうけて、 「長慶子」の後に越殿楽を演奏した。


旅の終わり

日本は寒く、季節は冬になりつつあった。出立の前夜の時の友人らが出迎えに来てくれていた。あのあとたどり着いたかどうか心配してくれていたんだという。テレビで顔を見て安心したと 教えてくれた。

帰りの道中の記憶はもうない。ただ家に帰って、丸一日眠っていて、起きたときには薄暗く朝の薄明かりなのか夕方の薄明かりなのかが一瞬わからなかったことだけを覚えている。この旅で、今までの自分の考え方や行動 を振り返ることができた。見聞できたことだけでなく内面に働きかける出来事がたくさんあった。雅楽が一人では何もできない多くの人々と和することで奏でることできる芸能であると知った。これを忘れてしまうと雅楽でなくなる。あれから十年以上たったけれど生活の中でふと思い出す過去のすばらしい出来事としてよりも、未熟な自分がもがいている姿を恥ずかしさとともに思い出す。ずいぶん変わったと思うこともあるし、やっぱり何も変わっていないと思うこともある。
 

記録と記憶

今から10年も前のことを何の書いた記録もなしによみがえらせることが出来たのは、僕が記憶力がよかったせいではない。フイルム数本による当時の写真のおかげである。写真をとろうとするとき、その場面場面を切り取って、絵を作ろうとする。そうするとそれが記憶にも残りやすい。実際に旅が終わってから直後にそれを見て反芻もする。映像では、帰国後に一時間のテレビのドキュメント番組『春日舞楽海を渡る』としても放送された。また、イタリアのローマとバチカン公演の模様がニュースでかなり大きく取り上げられた。その、映像の記録もある。
あとは、はじめての異国での、カルチャーショックが大きいがために頭に焼きついた場面場面の風景と会話によって、強い記憶が残ったのだ。
そして、この雅楽公演が終わって、むしろ、日本という自分の住んでいる国のことが、気になり始めたのである。

(未完)