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Bachimebaru

定着までの道程
 昭和46年3月に県立日野高等学校を卒業後,石川島播磨重工業に入社。
日野東中学校を卒業する前は学年2クラスの西大路小学校卒で、中学&高校は共学で普通科が中心で生徒数は900人程度だった。

女学校を起原に100年程度経ていると認識している。
居眠りはせずに、ノートを取り教師の話を聞くだけの生徒であったが,中学時代に高校は先輩に決められれていて,インターハイ常連校でリーダー的体力が買われた。

先輩と後輩,恩師と生徒の上下関係を会得して礼儀作法は母から生徒会とクラブ活動に変遷し会得したが,朴訥さはいつまでも残っている。

学業では秀でるところはなかったが,体力は人一倍の力量が備わり両親に感謝し,残りの人生を普通に過ごすことで完結させる。

インターハイ・近畿大会・国体等の出場が普通であったので,代表権の取得と生徒会での予算の獲得は有利であった。

学生生活を選択する力量は無く、幼少のころから可愛がっていただいた,紫香楽病院の看護婦長で,後妻に入った伯母に勧誘されて,郷里を後にした。

暫く、寮生活で洗濯と自己管理をするが25歳の後半に伴侶を設けすぐ26歳になる。
新婚アパートから借り上げ社宅に入居後,平成7年に住居を入手し,一姫二太郎の理想的家族を得て,独立した子供はそれぞれの家庭を築き,孫の顔を見せてくれている。

趣味は,体力中心スポーツとしたいが,年齢を重ねた結果ソフトバレーで汗を流すことと、昼休みのソフトボールと寒冷期に徒歩通勤することが近年の体力維持として継続させ帰宅後のビールで日々を送っている。

業務は年齢に準拠する企業のKnowledgeに係るDB化を促進している。

土地家屋も再雇用に移行した時期に完全取得した。

郷里への通信も,白紙委任で姓名の継続を条件に弟に母の世話をしてもらって,私は自由にしていることが少し気が引けてる。

健在中に顔を見せて母と会話することも重要である認識はしている。