「習作 パステル3」.jpg    1995年
(51.0X37.5cm)
紙にパステル
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    当時は、まだ画材を使っているというより、画材に使われていると言った方が正しく、この絵も無理矢理、対象の固有色、肌色やら服の色をそのまま出そうと努力していたのだと思います。
(今も決して画材を使いこなしてませんが…。)

 おそらくその色に近い色を選んだり描くことに必死で、全体としてどこに一番、自分が心惹かれるか、とか一番明度の明るいところ、暗いところはどこかなんて全く感じずに描いています。
 そういう意味では純粋ともいえましょうが、むしろそれは自分の感覚を本当の意味で表現していない未熟さゆえの弱い純粋さと言うべきでなないでしょうか。
 「対象を見ること」の奥深さ、難しさを理解できない未熟さであって、「見ること」の本当の凄さが分からない「幸せさ」に思えます。

 「見ること」は本当に毎回、毎回、対象との真剣勝負ですよね。
 いつも自身に画面から目の前に表れてくるものを「発見」していかねばならない格闘があるように思います。
 (分かったような口を利くと恥ずかしいのですが、デッサンする度にそこにある対象の美しさを見つけること、それをいかに画面に定着させるかに腐心します。
 愉しいけれど、難しい世界。                             )

 きっとここまで言えてしまうのは、1分、2分という瞬間における人体クロッキーをやった経験が生きていると思います。
 クロッキーは、正に時間と感覚との真剣勝負、早撃ちの決闘ですから。
   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 この絵の作品としての完成度は今見ると、ただこすっているだけのように見えます。もっと色んな色があったはずなんですが。
 この絵を描いた絵画教室の先生はとにかく画面をこすってぼかした描き方が好きで生徒の作品をいきなり訂正する方でした。
 自分なりの表現や描き方をしていると、背後からいきなり手が伸びて「もっとこすりなさい。」と書き直してしまうので、受講生の描き方はその先生のエピゴーネンばかりという悲惨な状況でした。
 言葉は悪いのですが、率直に言えば、対象にひたすら迫りたいという求道者的描き方は許されない中で、何やら自己満足で終わっていると感じました。
 確か半年後ぐらいにはぐらい立つと、このパステル教室と平行する形で、もっと本格的に鉛筆や木炭でのデッサンを教えてくれる教室へも通い出したはずです。そして1年半後にはパステル教室はやめて週3日もひたすらデッサン教室へ通う日々が続きます。
 僕に「光」と「影」を感じることを、「消す」ことと「描く」ことのバランスという根元的なきっかけを与えてくれたので、文句は言えないのですが、少し残念でした。