創業20周年記念誌「すまいる」

 1.住まいを考える
 「日本建築史」の始まり戻る


 
 江戸時代から建築に対する有職故実的な研究は行われていたが学問として成立するのは明治時代以降である(建築という用語自体、明治時代に作られたもの)。最初期の日本人建築家辰野金吾はロンドン留学の際に「日本建築にはどの様な歴史があるか」と聞かれて、何も答えられず、自国の建築史研究の必要を感じたという。辰野の教え子、伊藤忠太は法隆寺が日本最古の建築である事を学問的に論じ、ここに日本建築史が第一歩を記した。1900年(明治33年)、パリ万博に際して岡倉天心を中心に『稿本日本帝国美術略史』が刊行されたが、建築部門を任された伊藤忠太は天心の美術史区分に大きな影響を受け、建築史の大枠を築いた。当時、廃仏毀釈で大きな打撃を受けた寺院建築の保護が課題となっており、関野貞は奈良・京都の主な建築を調査し、それらの建築年代をまとめていった。又、建築史学者と歴史家の間に法隆寺の建築年代に関する論争(法隆寺再建・非再建論争)が起こったが、現存する建物の様式論や、六国史等の文献研究はもとより、遺構調査などの考古学の発掘成果も取り入れられるようになって、学問の深化が見られた。

「日本建築史」の扱う範囲

 第2次世界大戦までは古代・中世の社寺建築が研究の中心であったが、第二次世界大戦後は民家、江戸時代の社寺、明治以降の近代建築と次第に対象が広がっている(明治以降、旧植民地に日本人建築家の残した作品も対象になっている)。身近な街の古い建物にも関心が高まっており、例えば道端の祠のようなものでも、地域の歴史を物語るものとして評価されることがある。

 日本建築の位置付けと特色

 日本建築は朝鮮半島・中国からの影響を受けて発展してきた。また近代以降は西欧の影響を強く受けているが、日本の風土・文化に合わせた独自な展開も見られる。
 柱・梁を基本構造とする日本建築と、煉瓦や石で壁を築いてゆく西洋建築は対照的な存在であり、20世紀のモダニズムの時代になると、近代建築の理念を先取りした点があるとして注目されるようになった。

 <原始時代>
  ・三内丸山遺跡
  ・登呂遺跡
  ・吉野ヶ里遺跡

 発掘成果に基づき、復元されるものも多くなっている。縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡からは予想以上に高度な建築技術を持っていたことがうかがえる。

 <古代建築>
  飛鳥様式
  ・四天王寺、法隆寺、法起寺、法輪寺
  白鳳様式
  ・薬師寺東塔
  奈良時代
  ・東大寺(法華堂、転害門など)、正倉院正倉、唐招提寺(金堂、講堂など)、法隆寺(夢殿など)
  平安時代前期
  ・室生寺金堂、醍醐寺五重塔など
  平安時代後期
  ・阿弥陀堂 - 平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂
  ・寝殿造

 飛鳥・奈良時代は、朝鮮半島や中国から建築技術を取り入れた時期である。仏教公伝(538年)以降、日本でも寺院建築が建てられるようになった。記録では577年に仏工・造寺工が百済から招かれた。588年から609年にかけて蘇我氏が築いた飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村。法興寺、元興寺とも)や593年聖徳太子創建とされる摂津国の四天王寺 (大阪府大阪市天王寺区。天王寺)が、日本最古の伽藍とされる(いずれも当初の建物は現存しない)。現存するものとしては法隆寺の西院伽藍、法起寺三重塔(ともに奈良県生駒郡斑鳩町)が最古のものである。法隆寺西院伽藍は、かつては聖徳太子の時代の建築と信じられていたが、近代における研究進展の結果、670年の火災以後、7世紀末から8世紀初めの再建と考えられている。法起寺三重塔は8世紀初めの建築である。当時の伽藍配置や技法には、百済の寺院との共通性が指摘されている。遣隋使・遣唐使の時代になると、中国の建築様式の影響が強くなった。
 平安時代、国風文化の時代になると建築様式も日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降には日本独自の形態として発展し、この建築様式を和様と呼ぶ。
 10世紀中期以降、朝廷や寺社の行事や儀式は次第に夜を中心にして行われるようになっていった。それは同時に夜間における灯火の利用を増大させて度重なる火災の原因となり、結果的には大規模な造営が行われる一因となった。このことは租庸調による税収の衰退とともに中央・地方の財政の悪化をもたらし、国宛や成功などの新たな財政制度を生み出すとともに、建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし、また地方の国司たちも中央に送る瓦などの生産能力を高めていくなど、中世以後の建築の発展につながることになった。だが、一方でこうした相次ぐ建築は木材の伐採に伴う山林(杣)の荒廃などの環境破壊を招き、次の鎌倉時代前半期に新たな自然災害や飢饉や治安悪化などの社会問題を生み起こす要因になったとする指摘もある。

 <中世建築>
  鎌倉時代
  ・東大寺の復興と浄土寺建立(大仏様あるいは天竺様、重源)
  ・禅宗様(唐様)(禅宗仏殿) - 功山寺仏殿、善福院釈迦堂など
  ・(俗に)武家造
  室町時代
  ・鹿苑寺金閣(寝殿造+禅宗)
  ・慈照寺銀閣(書院造+禅宗仏殿)
  ・主殿造

 鎌倉時代に入ると、中国との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式である(大仏様あるいは天竺様)。
 天平時代に建設された東大寺大仏殿は平安時代末期の源平の争乱の中、焼失した。重源は幾多の困難を克服して大仏を鋳、1185年、開眼供養。1195年、大仏殿を再建。1203年に総供養を行った(東大寺盧舎那仏像を参照)。
 重源が再建した大仏殿などの建築様式は非常に独特なもので、当時の中国(宋)の福建省周辺の建築様式に通じるといわれている。
 その建築様式は合理的な構造、豪放な意匠で大仏殿にはふさわしいものであったが、日本人の好む穏やかな空間とは相容れない面もあり、重源が死去すると大仏様も衰えた。大仏殿再建に関わった職人は各地へ移り、大仏様の影響を受けた和様も生まれ、これを折衷様と呼ぶ。
 その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられている(禅宗様あるいは唐様)。
 また、中世には出家した僧や隠遁者が人里離れて住む簡素な建物である草庵が出現し、鴨長明『方丈記』や絵巻物などに描かれている。平安後期・鎌倉期には明恵や一遍、西行、日蓮ら宗教者が草庵を拠点に活動を行った。

 <近世建築>
  ・姫路城天守群(安土桃山時代)
  ・東大寺二月堂(江戸時代初期)
  ・大正初期の今西家住宅妻面(江戸時代初期)

  安土桃山時代
  ・城郭、書院造の完成 - 姫路城、彦根城、松本城、犬山城など
  ・茶室

 文化史上、室町幕府が滅亡した1573年から、豊臣家が滅亡した1615年までを桃山時代とすることが多い。天下統一の時期にふさわしく、城郭建築が発達し、権力のシンボル的な天守閣が築かれ、御殿は華麗な障壁画で装飾された。また、室町時代に始まった茶の湯は千利休によって大成され、茶室というジャンルが生まれた。

  江戸時代
  ・数寄屋造り
  ・霊廟建築 - 日光東照宮など
  ・寺院建築 - 東大寺二月堂など
  ・陣屋 - 今西家住宅
  ・宿場町等にみられる町家建築
  ・民家

 江戸時代は全般に庶民文化の栄えた時代であるが、建築でも世俗化の傾向が顕著に見られる。茶室を住宅に取り入れた数寄屋造りや、都市の娯楽施設である劇場建築・遊廓の建築などがその例である。また、民家も一部は書院造の要素も取り入れ、次第に発展していった。寺院建築の中でも、庶民信仰を背景に、善光寺・浅草寺など大多数の信者を収容する大規模な本堂が造られるようになった。

 近世建築関連人物一覧
  
 長船綱直、小瀬甫庵、織田信長、加藤清正、黒田如水、小堀政一、角倉了以、高山右近、藤堂高虎、徳川家康、丹羽長秀、松倉重政、安井道頓、山本勘助、淀屋常安

 <近代建築>
 幕末に居留地が開かれると、外国人の住居、商館、教会などが建てられるようになった。グラバー邸は長崎の高台に築かれ、グラバーの指示に従って日本人が建設したものだが、来日した外国人技師によるものも見られるようになった。これら居留地の建築に刺激を受けた棟梁たちが明治初期にかけて各地に見よう見まねの洋館を建てた(擬洋風建築)。
 明治初頭、日本政府は近代化に必要な都市を築くため、西洋建築の技術を得ようと躍起になっていた。お雇い外国人として、ウォートルスやコンドルが招かれた。コンドルは工部大学校で日本人建築家の育成に努め、「日本建築界の父」ともいわれる。教え子の第1期生が辰野金吾である。
 政府による官庁集中計画が立てられると、専門家育成が必要になり、ヨーロッパの中でも日本がめざすべき先進国と考えられたドイツ政府に指導的人物を打診した。ヘルマン・エンデ(Hermann Ende)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Boeckmann)の共同設計事務所(エンデ・ベックマン事務所)が担当することになり、エンデとベックマンらが来日した。彼らは近代国家建設に要する技術習得のために日本人のドイツ留学を時の日本政府に進言し、政府は建築技師として妻木頼黄・渡辺譲・河合浩蔵の3人、石工・大工・人造石左官・煉瓦職・ペンキ職・屋根職・石膏職の高等職人17人で構成された総勢20人の青年をドイツに留学・派遣した。3年の留学の後、知識と技術を得た彼らのうち数人は後に現東京工業大学の第1期卒業生となり、ある者は美術家となるが、彼らの多くは日本国内の建築分野で活躍した。ほか特記事項として、ロンドン大学に留学した桜井小太郎が1892年(明治25年)に日本人初の英国公認建築士の資格を得ている。
 日本において建築とは、まず近代化のために西洋から学ぶべき技術として捉えられ、芸術・美術と捉える意識は薄くなった。また濃尾地震や関東大震災で煉瓦造建築に大きな被害が生じたことから、日本独自の耐震構造技術への関心が高まった。こうして、建築はもっぱら工学的な学問と考えられる風潮が強まった。この意識は今日まで続いている。
 一方、大正中期の1920年に日本初の建築デザイン運動として、堀口捨己・山田守・石本喜久治・森田慶一・瀧澤眞弓等の東京帝国大学建築学科出身者が集まり分離派建築会の活動が始まった。

  ・西洋館・異人館 - 北野町山本通、銀座煉瓦街など
  ・擬洋風建築 - 旧開智学校、龍谷大学講堂、白雲館など
  ・建築家の誕生 - ジョサイア・コンドル、辰野金吾など

 <現代建築>
 戦争で大きな打撃を受けた建築界は、戦後復興、高度経済成長の中で活躍の場を見出した。鉄筋コンクリートの使用が一般的になり、各地にモダニズムの公共施設が建設された。地震の多いことが日本の課題の一つであったが、耐震構造技術が進み、かつては百尺(31m)に制限されていた規制も緩和され、超高層建築が建てられるようになった。丹下健三、槇文彦、安藤忠雄など世界的な評価を得る建築家も増え、日本の現代建築のレベルは上昇した。
 一方、都市の美観という発想は、大正・昭和初期の建築家の一部に見られたものの、戦時体制・戦後復興の中でほとんど影をひそめてしまった。伝統的な街並みや過去の優れた建造物の多くが戦災や経済発展の中で失われ、経済性・合理性優先の安上がりな建築が多くなり、スクラップアンドビルドが繰り返された。その結果生まれた日本の雑然とした町並みを肯定的に評価する意見もあるが、かつての日本にあった風土的な個性の多くが失われたことには反省の声も多く、重要伝統的建造物群保存地区の選定や景観法の制定など、美しい都市・国土への関心も高まりつつある。

<2014年4月作成、2014年11月現在確認済>
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