――いつだってそう、大切なものに対して人は臆病になる。 (…来るんじゃなかった。) 報告書を片手に受付所を訪れたカカシは、受付所から聞こえてきた笑い声に形のよい眉を顰めた。 軽やかな女性の笑い声と共に聞こえてきたのは、よく知った穏やかな声で。カカシは思わず、入り口近く の壁に頭を預けて、二人のやり取りに耳を傾けた。 「……先生、絶対だからね!」 「ああ、わかってるよ。」 どんなことを話しているのだろう。イルカは女の言葉に優しい口調で返した。 あまりここにはいたくない、いや、いてはいけない気がして、カカシは意を決して部屋へ入ろうとした。早く 報告書を渡してしまいたい。――と、そのとき。 「…先生大好き!」 突如聞こえてきた言葉に思わずカカシは入り口で立ち止まる。すると、全身に衝撃が走った。 「ごめんなさいっ!」 部屋を出て行こうとした女と正面衝突したらしい。まじまじと女に視線をやる。年齢は二十歳に満たないくらいか。栗色のショートボブに大きな深緑の瞳、 快活な顔立ちをした美少女といって差し支えないだろう。 「アンズ、前をよく見ろよ。」 「はーい。それじゃ先生またね!」 アンズと呼ばれた少女は、イルカに対して笑顔で答え、カカシに向かってお辞儀をすると、急いで部屋を出て行った。カカシは知らず自分が息を詰めていたこと に気づき、ふぅ、とため息をついた。 「すみませんね、カカシ先生。アンズは少し周りが見えていないことがあるので。」 「いいえ、気にしないでください。それにしてもイルカ先生、モテモテですね〜」 冗談めかして笑いかけると、イルカは照れたように笑い、机に頬杖をついた。 「何言ってるんですか。お世辞ですよ、お世辞。あいつはオレはアカデミーで初めて受け持ったクラスの生徒でして。元気でやっているようですね。」 カカシは言おうとした言葉を呑み込む。何を話していたのか、尋ねてみたかったものの、おそらくイルカは教えてくれないだろう、そう思ったからだ。 カカシ自身訊ける立場にいないし、イルカの答えを訊くのが怖かった。 「あ、報告書ですか?お疲れ様です、お預かりします。」 イルカににっこりと笑われると、無条件に報告書を提出してしまう自分が悲しい。 「……イルカ先生、今夜飲みに行きませんか?」 「いいですね。」 後で上忍待機所に伺いますから、とにこやかに返されたカカシは、了承の旨を伝え、受付所を後にした。 こぢんまりとしてどこかレトロな雰囲気漂う居酒屋。カカシとイルカは焼酎の入った杯を手に談笑していた。 話の内容は、子供たちの話から同僚の話、任務に対する愚痴までさまざまだ。カカシにしてみれば、ありきたりな話や、既に耳にした話があっても、 イルカから聞けば、それはとても新鮮で意味のある話に思えるから不思議だ。 「…カカシ先生?」 「あ、何でもないです。少しぼんやりしてただけです。」 杯を口へ持っていく手つきや、酒をすする唇に見惚れていたと言えば、イルカはどんな顔をするだろうか。 「そうそう、カカシ先生は来週の花見会に行かれますか?」 「花見会?」 突然の話題についていけないカカシが目を丸くすると、イルカは、聞いてませんでしたか、と驚いた。 「ええっと…。内勤の忍びたちでやるんですけど。まあ、花見という名の飲み会です。」 「ああ、そういえば、紅が何かそんなことを言ってましたね〜。それならたぶん出席しますよ。」 というか、強制的に紅に出席させられるだろう。 「そうなんですか。カカシ先生はあんまり騒がしいのはお好きじゃないと思っていたので。」 「ははは…。」 「あー、でも、カカシ先生が出席されるんなら、俺も行こうかな。」 柔らかく笑うイルカの顔と、こぼされた言葉に、一瞬息が止まる。 (ねぇ、それはどういう意味?) イルカが好きだ。けれど、いたずらに想いを伝えて、この関係が壊れるのは嫌だと思う。それは、友人という適度な距離で。 相手は同性のお人好しで真面目な中忍。イルカが自分をどう思っているのかなど、考えたくもない。 (このオレが…馬鹿みたいだ。) 言い寄られたことは多々あるが、自分から人を好きになったことなどほんの僅か。そしてこんなに恋に臆病になるのは初めてだった。 ――つきり、と胸が焼けるように感じたのは、飲み干した酒のせいか、それとも恋情か。 |