2003年3月27日 
アフガニスタン人バセルさんの難民不認定異議申し立て裁判
判決の報告

                           文:米辻妙子   April 13. 2003    
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判決の報告

3月27日に大阪地裁806号で1時15分に判決の言い渡しがあり、その後大阪地裁の地下1Fにある記者会見室で記者会見が行われました。

主文
1.被告(国側)が原告(バセルさん)に対し平成11年6月10日付通知書で通知した難民認定をしない旨の処分を取り消す。
2.原告のその余の請求を棄却する。
3.訴訟費用は被告の負担とする。

以下にアフガニスタンの簡単な歴史の動向、バセルさんの難民不認定異議申し立てまでの経緯、日本の難民認定における責務、裁判の争点を項目ごとに載せていきますので初めて見て頂く方にも裁判の流れを理解していただけるかと思います。

アフガニスタンの歴史背景
アフガニスタンは、パシューツン人、(パキスタンの民族を構成する民族と同じ)、タジク人、モンゴロイド系のウズベク人、ハザラ人の民族が混在する他民族国家で1979年(昭和54)12月ソ連軍の軍事介入のもとカルマル社会主義政権が誕生し、1986年(昭和61)5月ナジブラが書記長に就任し政権の座に就くがイスラム教徒民兵組織ムジャヒディ―ンがゲリラ戦を展開しソ連軍は、1989(平成元年)年2月ジュネーブ合意に基づきアフガニスタンから完全撤退し1992(平成4)4月ムジャヒディーンの軍事攻勢によりナジブラ政権は崩壊した。ムジャヒディーンには、タジク人中心のイスラム教会(ラバ二派)、パシュツーン人中心のイスラム党(へクマティヤル派)、イスラム教シイア派のハザラ人中心のイスラム統一党(ヘズビ ワハダット、ハリリ派)、ウズベク人中心のイスラム国民運動党(ドスタム派)が属し1993年(平成5)1月にイスラム教会の最高指導者ラバ二が大統領に就任したが、各派間の主導権争いが激化し全土が内戦となった。1994年(平成6)末、イスラム教スンニ派のパシュツ―ン人を中心としたタリバンと呼ばれるイスラム原理主義勢力が台頭し、その政権の樹立を目指し勢力を拡大、1996年(平成8)9月末にはラバニ派を中心とする政権が支配する首都カブールを制圧し暫定政権の樹立お宣言した。これに対しラバニ派、ハリリ派、ドスタム派等の各派は、北部マザリシャリフを中心とした反タリバン同盟を結成し抵抗を続けたが、1998年(平成10)夏にはマザリシャリフ及びイスラム統一党の拠点バーミヤンが陥落しハザラ人2000人以上が大虐殺され、弾圧を受けた。

アブドル バセルさんの難民不認定異議申し立てまでの経緯
アフガニスタン人で民族的にはハザラ人である彼は、従兄弟のアハマドさんと1991年17歳頃よりイスラム統一党マザリ派ゲリラ兵士として内戦に参加、1993年ラバニ派マス―ド派ゲリラとの戦闘に敗北し1994年フフシャル ホシャハルハンでエテハテサヤフとの戦闘で敗走し非戦闘員が虐殺され彼の叔父が連行され連絡がとれなくなり戦闘が厭になってラバニ派に旅券を発行して貰い、パキスタンのペシャワールに脱出し、父カユムの会社中古自動車、部品の輸出入の仕事の手伝い、日本へ買い付けに来るなどした。タリバンの支配が確立するにつれパキスタンが危険になった為アラブ首長国連邦のドバイにいるおじの経営する自動車の輸出入の仕事を手伝いUAEの居住権を得た。
1998年おじの仕事のために日本に入国したが同年7月よりタリバンの大攻勢が始まりパキスタンの知人からバセルさん、従兄弟のアハマドさんの軍部身分証明書関係書類がタリバンに渡りドバイでも危険で旅券の更新が出来ないときいた。同年8月マザリシャリフが陥落しドバイでの居住権を放棄し同月24日にアハマドさんと共に難民認定申請を求めたが、1999年6月1日難民不認定となり異議申出について1999年12月6日理由なしと却下され、即日大阪入国管理局に収監、身柄拘束される。既に退去強制命令書が発布され予断を許せない状況のもとで行政訴訟を行う。

日本の難民認定における責務
日本は、1951年の条約難民条約の締約国でありUNHCRの執行委員会の構成メンバー国であり、難民の受け入れ、認定制度及び処遇についての政策指針を規定した国際的保護に関する結論に賛成してきた。そして更に、日本は市民的及び政治的権利に関する国際規約の加盟国でもる。

裁判の争点
(ア)難民該当性 1.立証責任 2.難民事由
(イ)手続違法性

(ア)の難民該当性とは
1.の立証責任とは、難民が難民となる為に庇護を求めた当該国(この場合は日本)に対して難民は、自らが自分が難民である事を立証しなくてはなりません。そのためバセルさんは、タリバン政権から迫害されあるいはその恐れがあるイスラム教シイア派、ハザラ人そして統一党のゲリラ兵士であったことの証明する証拠品を提出しましたが、被告は、信用できないものとして否定、イスラム教シイア派ハザラ人であることをもってしてタリバン政権がバセルさんを迫害対象とする根拠はないと主張しました。2001年7月国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、バセルさんをUNHCR難民に認定しましたので、訴訟代理人は、「立証責任の転換」がされているとみるべきと主張しました。「立証責任の転換は、簡単にいえばUNHCRが慎重な調査と国際機関内部の協議の結果、相当の証拠と根拠の合理性に基づいて認定しているのだから「立証はされている」とみるべきということでしょうか。バセルさんが「バセル」であることが否定され、実兄ギアスさんの証言も信用できないといって被告は主張しました。

それに対して判決は、原告バセルさんがイスラム教シイア派、ハザラ人でイスラム統一党ゲリラ兵士であった事実は、原告バセルを前提とするものではなくバセルさんが提出した「証拠品」に照らし原告がイスラム教シイア派ハザラ人でイスラムと憂統一党ゲリラ兵士であった原告の供述は、十分信用できるものであり、原告がイスラム教シイア派ハザラ人でイスラム統一党ゲリラ兵士であった事実の認定を覆すものではなく「バセル」の同一性に疑義が残るとしても別人と断定する証拠もなく、難民認定は、迫害の恐れのある難民としての立場上、事情に照らし適法な入国を要件とするものではない上、内戦にあった1994年当時のアフガニスタン情勢に照らせばバセルさんが、正規の手続きにより旅券等を取得することが困難であったという事情は、容易に予想でき「バセル」名義の旅券を取得して以降「バセル」として生活していた経緯から「バセル」として難民認定申請を行うことも理解でき、難民認定申請を虚偽の内容による違法なものとして排斥すべきではない、としました。

2.の難民事由
タリバンがイスラム教スンニ派パシュツ―ン人を中心としイスラム原理主義政権の樹立を目指して勢力の拡大したものでタリバンとの対立が民族的宗教的対立を背景にもつもので現実にイスラム教ハリリ派が反タリバン同盟に参加して抵抗していることかに照らせば「原告」が迫害を受ける恐れがある客観的事実を否定することができない。旅券の期限延長は、当時ラバニ派が支配していたカブールで発行され延長手続も当時反タリバン同盟が支配していたマザリシャリフでなされている。さらに、「原告」がパキスタン及びアラブ首長国連邦滞在中に庇護を求めていないことから迫害を受ける恐れを抱いていたとは、みとめられないと被告は主張するがマザリシャリフが陥落しタリバンがアフガニスタンの大部分を支配下におきその支配が確立されたことによりもはやアフガニスタンに帰る場所がなくパキスタンやUAEでも危険があると考え難民認定申請以前に庇護を求めた事実がないことで原告の難民該当性を否定することは出来ないし認定を覆すに足りる証拠はない。以上によれば、本件処分時、原告が難民であることが認められ、処分は違法である。

(イ)手続違法性については
それに対して判決は、バセルさんの母国語がハザラ語であるが入管で作成された調書はペルシャ語によって行われ十分な意思疎通ができず行われたものであるという弁護団の主張は、これを認めるに足りる証拠はなく、尋問の結果通訳(ペルシャ語)により理解していることが、認められ違法な点はない。


____________________________ 以上です。

裁判が終わって

三年の長い裁判の上、ようやく判決が下されました。9.11以降のアフガニスタン難民としてやってきた人々の先行きは、見えない中での思いがけない喜びの判決でした。しかしながらこの「少なすぎる保護」、「遅すぎる保護」もアフガニスタン難民申請者の自殺や自殺未遂事件の多発として表面化しました。しかるべき期間内に結論をだすことが今後の課題だいわれるのも当然と思います。(最後のバセルさんの弁護団の準備書面より)