2024年骨折から初の野洲銅鐸古墳日帰りの旅
日帰りではあるが、骨折を乗り越えて古墳に立つ2024/03/19
JR野洲駅に11時前着き、歩いて野洲市立銅鐸博物館を目指す
京都市営地下鉄で山科に、山科からJRで野洲は30分

今日はそこそこの天気であった。予報では比較的寒い日であったが、前日までの寒さは少し収まっていた。暑さ寒さも彼岸までというのに、彼岸に入っているにもかかわらず、
この春は寒い日が続いていた。骨折の痛みも漸くあまり感じなくなり、何とか普通?に歩けるようになってきた3月1日2日と寒い日になったのに、ちょっと無理して汗を掻きながら歩いていたら、
今度は寒気が襲ってきた。3日の朝にはちょっと熱があり、喉の痛みを感じた。4日朝には熱がないものの喉と鼻が出て夕方には7度5分と熱が出る。カロナールを飲んだり風邪薬を飲んだり
早寝、昼寝、休養に努めるも、朝平熱、夕方発熱、喉、鼻、だるさが続き途中墓参りや食事会で外出するも、二週間ほどぐずぐず引きずってしまった。
元気にもなり啓子さんも外出とのこと、19日彼岸入りを迎え寒い日ではあったが、歯医者での治療を終えてそのまま地下鉄に乗って出かけた。
厚着で手袋帽子を被りマスクもし、鞄にお茶とカメラを入れた気軽?な旅姿である。JR野洲へは山科乗換が便利である。京都駅乗換よりよほど便利と感じた。
JR野洲駅南口から銅鐸博物館目指す
JR野洲駅に降り立って、南口から銅鐸博物館を目指す。案内書では南口からが近く歩いて約30分となっていた。もっとも何処にも銅鐸博物館についての案内はない。
地図だけでは心許ないので、スマホのナビを動かしてこれに従って博物館を目指すことにする。とんでもないコースの時もあるが、今回は比較的良いコースのようで、
途中日吉神社や銅鐸出土の碑のある場所を経て博物館に到着することが出来た。
歩いて訪ねてこそみて歩ける絶好の歴史散歩道であった。湖畔の比較的開けた水田地帯と豊富な銅鐸の出土した大岩山(古墳)、
立ち並ぶ円墳や前方後円墳などの古墳群、ここが古墳時代確かに輝いていたことを伺わせた。銅鐸博物館は国指定の宮内2号墳と大岩山銅鐸出土記念碑が
そっと寄り添っていた。また野洲弥生の森歴史公園が整備され、竪穴住居・高床倉庫・水田が復元され、弥生時代から古墳時代に大いに栄えたことを示していた。
銅鐸博物館には野洲から出た多数の銅鐸が展示されている
JR野洲駅を南口から国道8号方向に向かい手前の旧中山道を東に、国道8号の下を潜って南の大岩山丘陵いていけば約30分で銅鐸博物館に着いた。
残念ながら館内はほとんど写真禁止になっている。国宝級の銅鐸が常時展示されており、この湿度や温度管理が厳しいのであろう。しかし来館者からすると少し寂しい気がする。
これはだめこれはOKとしていただくと、展示内容によって写真に記録してそのご勉強も出来ると感じた。
博物館には常設展示室1 テーマ【銅鐸の謎】
ここでは銅鐸の発見の顛末や、銅鐸の作り方などが丁寧に解説されている。また銅鐸の謎解きなどもされていた。
常設展示室2 【大岩山銅鐸】
ここでは実際に出土した銅鐸か多数展示されていた。たぶん20個近かったと思います。土中より出土して、磨かれてもいないいわば青銅色光りの本物である。
ガラス越しながら目を近づけてみるこ興味のある人にとっては大変貴重だと感じた。
博物館を入ったすぐに国内最大の銅鐸の再生品(レプリカ)が黄金色(本当は銅色)に輝いていた。高さは145センチあると云う。これを鳴らして祭事をもようしたとしたら、
野洲平に響き渡ったかもしれない。その隣には実際鳴らすことも出来る銅鐸がつるされていた。もっとも銅鐸が音を出すものだということは今では認められているようだが、
ほんの十数年前までは使い方は判らないというのが通説であった。アジアでの銅鼓の使用例などを基に、銅鐸は祭事に使うとき以外は土中に埋めていたのではと説明されていた。
発見の経緯は明治に入ってからの国道8号線建設の為に、大岩古墳丘陵の土砂採集したことによって出土したのである。これが1881年14個の銅鐸出土である。
発見当時これが銅鐸であるとは誰も判らなかった。1962年2回目の発見の経過もこれに似ている。この地大岩山丘陵が東海道新幹線建設のために、またまた土砂採取されることになった。
今度は10個の銅鐸が出土したとのことです。もっともあまり関心が無く、古物商に販売されたとき偶然通りがかった警察官の賢明な判断によって銅鐸発見になったとある。
推測ではあるが、これら発見以外のにも多く出土し、紛失・消滅していたのではないだろうか、戦前の考古学の貧困さによって、銅鐸のことなど誰も知らなかったのである。万系一世、ヤマト朝権唯一、
地方の王、大王らの存在は神話の世界すら研究されなかったのである。旧石器時代と縄文時代については今でこそ比較的自由に研究することができるようになったようである。弥生から
古墳時代についてはこのゆがんだ歴史観が今なお強く強く続いている。まだまだ未解明のことが一杯ありそうだ。
博物館の後 桜生史跡公園へ
円山古墳、天王山古墳、甲山古墳を巡る
博物館の前の道を下り、国道8号を潜って旧中山道を新幹線沿いに西に行くと桜生史跡公園がある。歩くこと約10数分である。ここには円墳で、石室内部を観ることの出来る円山古墳、
甲山古墳がある。更にこの二つの古墳に挟まれ守られたように前方後円墳の天王山古墳がある。ここには大きな岩があちこち剥き出しになってはいるが復元はされていない。
円山古墳と甲山古墳はそれぞれ6世紀初め、と6世紀前半のものとされている。
石室内部には熊本県阿蘇の凝灰石をくりぬいた家形石棺がある。更に奥には奈良県二上山産出の凝灰岩による組み合わせ式石棺もあるという。近くの二上山のものだけでなく、
遠く阿蘇の凝灰岩が使われている事など、九州王朝との関係性などまだまだ研究する価値はありそうだ。
これ以上内部は見ることが出来ないが、入口に近づくとセンサーが働き自動で内部の照明が灯き説明のナレーションが流れる。文字で説明されているだけでなくナレーションが流れ
解説を聞けるのは大変ありがたく感じた。
石棺内部の模様とか壁の具合などを写真等で展示することもやって欲しい。特に出土した剣や馬具など興味が尽きない。
また円墳の頂上部に立つことも許されているので是非登ってみると良い。
天王山古府の頂部に立つと前方後円墳と良く判る
天王山古墳は典型的な前方後円墳で木々も植わっていないので古墳の頂部に立つと前方後円墳であることが良く判った。
もっとも私には一目見ただけではどちらが前方(形)と後円墳が良く判らない。しかし今回この天王山古墳を観て、石室がある方
ここでは大岩がむき出しになっていて石室があった痕跡を思わせる側が、王の纏られている円墳、一方が祭事をする方形台であると理解できた。案内の地図によっても確かめられた。
JR 野洲から新快速に乗り夕方には帰宅する
相当今日は歩いたので、3時過ぎには野洲駅に向かう。のどかな農道と新幹線が音を立てて走るなんともちぐはぐな光景であった。
帰りは元来た道ではなく、東海道線の湖北側を帰り道に選んだ。こちらは古くからの住宅もあって、駅に近くならばなるほど何処にでもある新興住宅街へと変化していった。
いくつかのマンションが建設中でもあった。
2024年3月吉日