Ametyanのデジカメ……マサカとなった京丹後古墳の旅
 
遊歩道で転倒・転落して長期入院となったマサカの旅
はしうど荘に泊って京丹後の古墳を巡る2泊3日2023/10/18〜20
 

18日 銚子山古墳、丹後古代の里資料館、神明山古墳、大成古墳群などを巡る

 二条駅8時43分発はしだて1号で京丹後網野へ向かう       

 2023年秋の古墳巡りの一環で、京都府内の古墳を訪ねようと思いたった。京丹後半島の間人にはしうど荘という一人でも気楽に泊まれる宿を発見して、丹後王国とも称された 京丹後市の古墳を観て廻ることにした。はしうど荘に2泊して、京丹後半島の主な古墳を観て廻るよう計画した。計画してみると意外と交通の便が悪く、いや京丹後が広くて、 2泊ではあまり観て廻る事ができないと感じながらも、とにかく初めての丹後半島の古墳を巡る旅をすることにした。  はしだて1号に乗って、網野に着くのがお昼である。とっても遠く感じた。

京丹後最大の古墳 銚子山古墳をまず訪ねる        

 網野駅に降り立って、先ずは歩いて20分の処にある京丹後最大の前方後円墳である銚子山古墳を目指した。結構判りやすいところにあって、比較的簡単にたどり着くことが出来た。 資料によると網野銚子山古墳は全長198m古墳時代前期末から中期初頭(4世紀末〜5世紀初頭)に築造された「丹後王国」を象徴する巨大前方後円墳である。
 古墳は現在何らの制限もなく墳円の頂上に立ち入ることが出来る。眺望は素晴らしく良く、日本海と丹後半島の海岸を見渡すことが出来る。古墳時代の幕開けは大陸からの鉄の伝来と云われているが、 銚子山古墳の主(首長)は大陸(朝鮮半島)からの鉄鉱石と鉄刀加工技術独占で財を蓄え丹後地方一の豪族となったのであろう。大江の鬼と呼ばれたのかもしれない。
 ただ残念なことに府内は大和政権の古墳から平安京などの歴史遺産が溢れ、また近畿も奈良、大阪などに巨大な古墳群を抱えていて、この「丹後王国」の歴史的検証や保存は今ひとつという状況にある。 この銚子山古墳も古い看板はあっても、今風なものはなく大正13年9月建立の石塔があるのみであった。九州装飾古墳群や出雲伝説に並ぶ「丹後王国と大江鬼退治」は古代大和政権成立にかかわる 古代史の謎を解き明かす重要な歴史的資料である。古墳のふもとは潟湖になっていた。船に乗って潟に入港した人々は、葺石を葺き、2000本もの埴輪が樹立した古墳 の姿を目の前にしたのである。古代丹後の王の巨大な権力を実感したであろう。このように丹後王国が推定されているにもかかわらず、再現どころか資料の展示さえ疎かにされている。

 丹後古代の里資料館を訪ねる       

 網野からバスに乗り古代資料館前で降り京丹後市立丹後古代資料館を訪れた。
パンフレットには次のように書かれています
  =丹後古代の里資料館は、縄文時代・弥生時代を中心とする石器・土器・玉類や鏡類を常設展示しています。また丹後の鬼退治伝説も紹介し、一巡すれば京丹後市全体の古代の ようすを詳しく知ることが出来るよう構成されています。周囲には竪穴式住居や高床式倉庫などが復元され、まるで古代にタイムスリップしたようです。=
 特に珍しいものは展示されてはないが、比較的判りやすく展示されていた。石棺のレプリカや竪穴住居などは子供たちが学習するには手頃であろう。またここを起点にした 史跡巡りのモデルコースが示されているが、ひとつ一つ丁寧に訪ねると思いの外充実したものであった。
 ちなみにモデルコースは1、丹後古代の里 2、竹野神社 3、神明山古墳 4、片山古墳 5、産土山古墳 6、大成古墳群 7、立岩 8、道の駅を順に訪ねるものでした。所要時間60分とあったが、実際には3時間ほどかかった。

 神明山古墳、大成古墳群などを巡る       

 丹後資料館のすぐ近くに銚子山古墳に並ぶ巨大古墳神明山古墳がある。頂部への道は整備されており、資料館から歩いて十数分で登ることが出来る。 ここからも日本海や丹後半島の海岸が見渡すことが出来た。ここも大正12年史跡指定の石塔がぽつんと立っているだけであった。
 その後近くの片山古墳、産土山古墳を観て廻る。案内板が整備されておらず、近くにあるのになかなかたどり着けない。海が見えたり、石棺がむき出しになっていたりで結構みどこらがあったが、 案内標識が疎かにされ、見に来る人が少なくなり、廃れていくように感じた。産土山古墳(径50mの円墳で長持形石棺が出土している)からは間近に海を望むことができた。 片山古墳は石棺がむき出しになっているのを見ることが出来る。京都太秦の蛇塚の丹後版である。ただここは案内板すらなく私有地らしく放置されているように見えた。
 ここから海岸に向かうと大成古墳群がある。ここは立ち入りは規制されていて、そとから辛うじて石棺らしきものをみることが出来た。海岸段丘に沿って石棺があちこちにみられ、 古代には有力豪族が巨大古墳と壕村を守っていた墓地群をであるように感じた。

19日午前 黒部銚子山古墳高山12号古墳を巡る

 2日目は黒部銚子山古墳と高山古墳をみて、時間があれば息抜きに経ヶ岬灯台を訪れることにした。バスの便が悪く、一ヶ所いくと次に行くのがなかなか上手く行かない。 結局一番のバスで黒部銚子山古墳を訪れた後、1時間ほど歩いて高山12号古墳を訪れた。そしてここからまた1時間歩いて成願寺というバス停にたどり着いた。
 黒部銚子山古墳は全長105m、葺石、埴輪を持つ2段筑成の前方後円墳である。5世紀前半の築造と推定され、発掘調査はされていない。京都府指定史跡となっている。 丹後三大古墳(網野銚子山、神明山、蛭子山)に次ぐ大きさの前方後円墳とされている。なおここでの埴輪と畿内での埴輪が酷似しており、丹後と畿内の結びつきを考える上で 貴重な古墳であるとされている。頂部に登ることは出来るが、看板や石塔などはない。また眺望は木々によって遮られている。むしろ里からみるといかにも前方後円墳であると わかる。
 

次に公開されている古墳、高山古墳群・高山12号墳を目指す

高山古墳群の近くにはバスは走っていない。黒部銚子山古墳から ただひたすら1時間ほど山中の車道を歩いて目指す。スマホのナビで漸くたどり山中にぽつんとある高山古墳12号墳に着くことが出来た。

 高山古墳群・高山12号墳は

 高山古墳群は、竹野川の支流である徳良側左岸の丘陵上に立地しており、9基の古墳が確認されている。これらは横穴式石室を内部主体とし、 6世紀後半〜7世紀初頭に築造されたものである。
 高山12号墳は、直径18mの円墳で石室は西側に袖部を設ける片袖式横穴式石室で、全長12m、玄室長5.9mと高山古墳群中最大規模を誇り丹後半島でも 最大級クラスの石室を持つ古墳である。副葬品として、金銅製双龍環頭大刀柄頭2点、金環、勾玉、切子玉等の装身具、刀、鉄鏃等の武器、鉄地金銅張辻金具等の 馬具、全国で7例目になった須恵器の特殊遍壺等、非常に多くの遺物が出土した。これらの出土遺物、石室規模からすると当古墳は7世紀初頭に築造され、被葬者は 竹野川流域を中心に広範囲に支配していた豪族と考えられる。
 双龍環頭大刀とは「竜頭大刀とは柄頭に飾りをつけた大刀をいう。環頭大刀の中で環の内側に対をなす龍、または鳳凰を表現するものを双龍、双鳳凰大刀という。 口先が上下に曲がって広がるものを龍とし、鳥のように合わさって尖るものを鳳凰と区別する。いずれも一対の龍、鳳凰が玉を噛んだ文様を表している。双龍、 双鳳環頭大刀は日本国内で約60例出土している。内高山12号墳で2点出土している。全国的に見てもまれな例である。
以上は京丹後市教育委員会から引用した。
 
 この高山12号墳をあとにして、バス停の成願寺に向けて歩きました。成願寺バス停までは約1時間である。バス停には12時頃着いたのだが、バスは12時 58分発経ヶ岬行である。成願寺の庭で休憩し、持っていたあんパンで腹を満たした。
 13時40分に時刻表どおりに経ヶ岬のバス停に着いた。驚いたことは京丹後市を走る丹海バスは何処まで走っても200円が上限であることでした。 バスで旅行するものにとっては驚きのプレゼントでした。もっとも路線バスで旅行する旅人は皆無のようで、丹後庁舎前以降経ヶ岬までに乗った人は数人で、旅人は 私のみで、終点経ヶ岬バス停で降りたのはもちろん私だけでした。

19日午後 経ヶ岬灯台見学後の帰路 遊歩道にて転倒・転落 長期入院へ

 経ヶ岬燈台へはバス停から遊歩道で1.4Km先にある。バス停から一旦海岸まで下り、そこから登り道となる。ネットでは40分ぐらいの道のりとのことであった。 経ヶ岬燈台には2時過ぎに到着した。  燈台を約30分ほど休憩を兼ねて見学した。自家用車で灯台を見学に来た幾人かの人に出会った。しかし遊歩道では誰1人として出会うことはありませんでした。 すでに2万歩をこえる歩数であったので、車道をトボトボ歩いてバス停に向かうことも考えたのであるが、遊歩道より更に長時間要すると思い、時間の短い遊歩道を選んで帰路についた。
 これがマサカを生んでしまった。燈台から海岸線近くまで降りてきたとき、下りでスピードが出て、砂利ころに足を滑らせて転倒してしまった。更に運が悪いことに、 遊歩道の外側に転げ崖下に転落する羽目となった。数メーターの落差はあったのであろう。
 転落直後、気を失っていたわけではないが、こう表現するのが正しいかは良く判らないが「気がついたとき」見知らぬ山道に転げ落ち、痛さもあってそこに座り込んでいた。周囲を見渡すと、海岸と打ち寄せる波が見えた。 「ここは何処?なんでこんな状態に?何が起こったのか?」と自問自答した。瞬間的に気を失い、動転していたようである。 幸にも頭は打っていないようであった。手足はすりむけ血だらけで足や手首に打撲痛がある。さらには右胸をしこたま打ったようで恐ろしくいたい状態であった。座り込んで自問自答を繰り返していたとき、漸く旅行中の出来事であること、 経ヶ岬灯台の帰路であることが理解できた。転落して道の上に転がっているのだと自覚できた。 周りを見渡すもどこから転落してきたのか判らない、ごつごつとしたい岩石の崖があり、落ちてきたような形跡は残っていない。幸にも立ち上がること歩くことが出来たので、取り敢えず 海の方に向かって歩いていると、遊歩道の中間地点の標識のある分れ道に出た。分かれ道の一方からも一方の分かれ道に転落した事がわかりました。落差も相当あるように見えたが、 また着用していた帽子がなくなっていたが、あまりの痛さ激痛で 落ちた地点を探したり、確認する気力は無くただバス停に向かって歩くことにした。
  休み休み歩いて漸くバス停にたどり着いた。もちろんその間も誰1人に会うわけではなかった。最終のバスではしうど荘に帰り着いた。バスの運転手さんや宿の方に救急車の手配 などを勧められたが、 見知らぬ地での入院生活はなんのとしても避けたかった。

20日 はしだて2号で帰宅し 長期入院へ

バスの運転手さんや宿の方には救急車の手配などを進められましたが、自分では大丈夫帰れると思い。激痛に耐えて朝を迎え、 タクシーとはしだて2号に乗って自宅のある二条駅に帰り着いた。  迎えに出てきてくれた啓子さんに抱えられて自宅について、救急車を手配して貰い京都市立病院に搬送された。
 もっともこの時点でもそれほど重傷という気持ちはなく、手当てできるところは大きな病院しかなく、救急車で行く以外方法は無いと思っていた程度の認識でした。 病院について、血気胸、肋骨11本骨折と判明し即座にICUに入院。さらに左足腓骨骨折、足にプレートを入れる手術と京都武田病院への転院治療になるなど思いもしませんでした。 せいぜい数日の入院が必要かもとの気持ちでしたから、「治療がもう一日遅れていたら命がなかったかもしれません」と担当医に告げられたときは本当に驚きました。
 人生にマサカがあるというが、登山中でもなく遊歩道を歩いて転倒・転落事故を起こし2ヶ月以上の入院生活、全治3ヶ月以上の怪我を負うなど考えもしませんでした。 しかし歳をとり経年劣化した老体では、思わぬ落とし穴があることを気づかしてくれた。しかも完全治癒には時間がかかり、大変であることも身をもって感じている。骨折の完治には 一年必要とのことであるし、肋骨の骨折には何もせず自然治癒を待、胸の痛みもいつ治るか判らない。マサカの年を無事すぎたと言い聞かせ、新たな生を謳歌していくつもりである。

はしうど荘の方、京都市立病院、京都武田病院の医療スタッフの方、励ましを頂いた知人・友人、家族・親族、そして世話になったパートナーの啓子さんに あらためてお礼を申し上げます。

 お世話になった方々についてはあらためて書かねばならないことがあるように思っております。
 取り敢えず、整理するつもりでこの旅の報告を綴りました。      2024年1月吉日             
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