ヤマちゃんと北九州の縄文、弥生、古墳時代を訪ねる旅2015/5/23〜26
1日目 福岡市立博物館から板付遺跡 環濠集落、奴国の丘歴史資料館を廻る
福岡市立博物館
昼前に博多について、駅前にある日本レンタカーを借りる。先ずは福岡市立博物館へ向かった。ここには志賀島から出土した金印が展示されている。レプリカではあるが触ることも出来る。
ずっしりと重く確かに金印であると判る。
縄文時代1世紀中頃にこの地に大きな国があったことが判る。いわゆる奴国である。中国への朝貢貿易で栄え、金印を授受されるに
至ったようである。奴国を倭国最大政権として中国後漢光武帝が認めたその証が金印である。銀印や銅印ではない。
やがてこの地は卑弥呼のいわゆる邪馬台国へと発展し、巨大都市化していったのであろうか!
金印について……福岡市の文化財より引用する
「漢委奴国王」金印は、天明4年(1784)に志賀島(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見された。発見者は百姓甚兵衛である
(あるいは秀治と喜平ともいい、この2人は甚兵衛の傭人ともいう)。発見のもようを伝えるのは、当時の那珂郡役所奉行津田源次郎に宛てて甚兵衛がさし出した
「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出・付口上書」である。
金印を最初に鑑定したのは、当時の黒田藩西学問所、甘棠館の館長亀井南冥である。南冥は『金印弁』を著わして、『後漢書』東夷伝に、「建武中元二年(西暦57年)、東夷倭奴國、
奉貢朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭國の極南界なり、光武、賜うに印綬を以てす」とある漢印そのものであることを説き、金印の重要性を訴えた。南冥の努力により、金印は黒田藩庫
に納められ、永く保存されることになる。
その後、江戸時代から現在まで多くの学者が金印の考証、研究をすすめてきた。金印偽物説もとなえられたことがあるが、中国古印や金印の科学的測定によって否定されている。今日
ではこの金印が、光武帝より委奴国王に賜与された印であることは疑う余地がない。
岡崎敬氏が通産省計量研究所の協力で1966年に実施した金印の測定結果によれば、総高2.236cm、鈕高1.312cm、印面の長さ平均2.347cm、質量108.729g、体積6.062、比重17.94の鋳造品
である。印面の寸法は漢代官印の方一寸に合致するものである。印面には、漢隷で漢・委奴・國王の三行五文字が薬研彫りに陰刻され、鈕は蛇がとぐろを巻いて頭を右上方へ向ける姿を
表わし、綬を通す孔がある。
印文の読み方については、江戸時代には、「漢のイト(伊都)国王」説が主流を占めたが、1892年に三宅米吉博士が「漢のワ(倭)のナコク(奴国)王」と読み、今日ではこの読み方
が定説化している。偽物説の一つの根拠となった蛇鈕については、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、金印が真物であることを例示した。
今日、最も問題となっているのは、志賀島から出土した理由と出土遺跡の性格に関するものである。これらについての論争は、大正時代の初めから行われ、墳墓説、隠匿説、
志賀海神社磐座説、祭祀遺跡説などの諸説がある。現在も決着はついておらず、考古学上の重要な課題となっている。
金印は、わが国の古代史や対外交渉史を考える上で、きわめて重要な歴史資料であることから、昭和29(1954)年に国宝に指定された。永く東京国立博物館に寄託されていたが、
福岡市美術館の開館にともない、1978年に黒田家から福岡市に寄贈された。
板付遺跡 環濠集落へ移動
次に向かったのが板付遺跡である。弥生時代の環濠集落である。日本で初めて発見された遺跡として有名である。竪穴住宅なども復元されている。
弥生時代にはすでに大規模な環濠を張り巡らせ武装した生活が始まったのであろう。環濠と米作による巨大勢力の登場である。
C14測定によるとBC930年頃すでにこの地では水田があったと報告されている。なお唐津の菜畑遺跡はこれより更に古い。
板付遺跡について……福岡市の文化財より引用する
福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、
それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳〜中世の遺跡もある複合遺跡である。
台地上には幅2〜4m、深さ約2〜3m、断面X字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある。環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)
が多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしている。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には
水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに日本で最も早く稲作農耕が開始された。
弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展している。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土している。
これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示している。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、
貯蔵穴群や墓地が発見されている。
このように、板付遺跡は日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、集落、墓地、生産地(水田)が一体と
なって把握できる数少ない遺跡である。
出土遺物は莫大な量にのぼり、土器、石器、本器をはじめとして、当時の自然環境を知ることのできる自然遺物が検出されている重要な遺跡である。
奴国の丘歴史資料館を廻る
国指定史跡となっている須玖岡本遺跡に弥生時代の甕棺墓などが発掘調査時の状態で展示されている。パンフには「遠い昔、春日市がかって奴国(なこく)
と呼ばれていた時代があった。」と書かれている。古田武彦は「この地がもっとも卑弥呼の邪馬台国に近いと思う」と述べていた。彼は小説家ではないから断定などしないが……。
埋葬者は2世紀頃、金印授受者の数代あとの奴国王の墓とされている。出土品も弥生時代のテクノポリスと呼ぶにふさわしいとある。
2日目 竹原古墳、王塚古墳(王塚装飾古墳館)、若宮古墳群(日岡、月岡、塚堂古墳)
岩戸山歴史資料館、石人山・弘化谷古墳・こふんピア広川
竹原古墳
福岡県宮若市竹原の諏訪神社の境内にある。直径約18m、高さ約5mの円墳。石室は複式横穴式石室で死者を安置する玄室と前室、通路の義道で構成されている。
翳(さしば)、波形文、船、龍、馬を牽いた人物、三角連続文、玄武、朱雀などが描かれている。
玄室と奥壁と前室の両袖石、3ヶ所に赤と黒の2色で描かれている。顔料は赤は酸化鉄(ベンガラ)、黒は炭素と分析されている。
解説書から
竹原古墳は装飾古墳である。絵の内容は円文・三角形・直孤文などの幾何学的な文様から絵画としての写実的な文様に分けられます。絵画的なものは、人物・動物(龍、馬、鳥、魚、鹿
、蛙)・武器や武具(刀、盾、弓矢、靫、鞆、短甲)・器物(家、船)・特殊な文様(蕨手文、双脚輪状文、四神)などあります。
このような装飾古墳は全国に約400基程ありますが、その内妬8割が福岡・佐賀・熊本・大分県の北部九州に分布している。特に多いのが熊本県で、菊池川流域(山鹿・玉名)などにあります。
福岡県で多いのが筑後川流域(久留米・うきは・八女)と遠賀川流域では、王塚古墳、川島古墳、古月横穴墓、瀬戸横穴墓などあります。
北部九州の装飾古墳は5・6世紀を中心に発達しますが、6世紀終わりごろに造られた竹原古墳で装飾古墳は終わりとなります。
王塚古墳(王塚装飾古墳館)
『王塚古墳』は六世紀前半に造られたと考えられる、前方後円墳です。
昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中、偶然発見され、多数の馬具、武器、銅鏡、装飾品、土器類を出土しています。
最大の特徴は装飾壁画の壁面に赤・黄・緑・黒・白・灰で描かれた靫(矢筒)・盾・騎馬・珠文・双脚輪状文・わらび手文・三角文などの文様がところ狭しと配列されています。
その豪華絢爛さはわが国における装飾古墳の頂点として昭和27年に国の特別史跡に指定されています。
詳しく知りたい人は王塚古墳ホームページへ
http://www.town.keisen.fukuoka.jp/ouzuka/contents/ozuka/ozuka1.html
若宮古墳群(日岡、月岡、塚堂古墳)
うきは市内にある若宮古墳群には昼頃着きました。三ヶ所を急ぎ見て回りました。
解説書から
現在の筑後川より1キロメートルほど入った平野部に位置する古墳群です。3基とも前方後円墳で、古墳時代中期から後期にかけてこの辺りを統治した首長の墓と考えられています。
月岡・塚堂古墳の出土品はうきは市立吉井歴史民俗資料館に展示しています。
日岡古墳は若宮八幡宮境内の東にある、古墳時代後期に造られた全長約74メートルの前方後円墳で、一重の周濠が巡っています。後円部にある横穴式石室の壁全体に様々な文様が描か
れており、壁画系の装飾古墳の中で古いタイプのものです。石室の構造はやや内傾して側壁を積み、奥壁には幅2.2メートル以上、高さ1.9メートル以上の大石をほぼ垂直に立てて
鏡石としています。奥壁の頂部には2〜3段の割石を積み、石棚を設置しています。描かれた文様は、奥壁に赤・白・緑色を使い、6個の大型同心円文・蕨手文・連続三角文などが、
周壁には赤・白・青色を使い、同心円文や三角文といった幾何学的文様のほかに、盾や靫、大刀などの武具・魚・船・馬・獣などの文様が描かれており、場所によって色の使い分
けが
あるようです。天井石が石室の床面に崩落しており、上からのぞき込む形で見学することができます。
岩戸山歴史資料館
うきはからはひょんな事から(カーナビが渋滞情報を出した)山越えで岩戸山古墳館を目指した。夕方漸く着いた。たぶん時間は大幅に罹ったのではないか?急いで岩戸山古墳と
展示室を見学し、近くの石人山古墳へ行って、本物の石人を見る。なおここ岩戸山古墳は磐井の乱(研究に因れば乱そのものがなかった)で有名な筑紫の君「磐井」の王墓である。古墳として埋葬者が特定できている希有なものである。
残念ながら理由はわからないが王墓は発掘調査されていない。九州王朝を明らかにする王墓と考えているが、現状の学会や文科省にこれを明らかにすることは期待できない。
このあとホテルのある久留米に移動し長いなが〜い一日を終えた。
3日目 吉野ヶ里遺跡を堪能して唐津へ
一日吉野ヶ里遺跡を見学する。広い敷地を十分な時間をかけて見学した。その後唐津城を見学し唐津国民宿舎波戸岬に宿を取った。
4日目 唐津市菜畑遺跡(末盧館)、平原弥生古墳、伊都国歴史博物館、元寇防塁
唐津市菜畑遺跡(末盧館)
波戸岬を訪れ、次に呼子の朝市により、更に名護屋城を訪ねて唐津の菜畑遺跡・末盧館を訪れた。名護屋城は休日(閉館)で中には入れなかった。
菜畑では今から2500〜2600年前の縄文時代晩年に、大陸から伝えられた稲作を日本で初めて行なったとされている。
遺跡からは、これを証明する多数の炭化した米、稲穂を摘み取る石包丁・木のクワ・エブリなどとともに小区画(20〜30u)の水田跡も発見されている。末盧館はその見学施設である。
平原弥生古墳
唐津から糸島への移動しまず平原弥生遺跡を見学した。
説明によると
平原遺跡では、弥生時代後期から古墳時代前期に造られた5基の墓が発見されています。そのうち弥生終末期(西暦200年前後)に造られた1号墓は伊都国王の墓と考えられます。
東西18メートル、南北14メートルの長方形の墳丘墓で、40面におよぶ銅鏡が出土しました。これは弥生時代では、ひとつの墓から出土した銅鏡の数としては日本一で、そのうち5面の
「内行花文鏡」は直径46.5センチメートルもあり日本最大を誇ります。
伊都国歴史博物館
平原遺跡から少し離れた伊都国歴史博物館を次に訪れた。
博物館は市内の遺跡等で出土した、数多くの文化財を収蔵・展示している歴史博物館。中でも、平成18年6月に国宝に指定された国史跡平原遺跡出土品は必見です。
元寇防塁
糸島をあとに一路博多に向かったのであるが、途中に元寇防塁があるので寄ってみた。ちょっとした構造物ではあるが、実践を考えると案外役に立つもののように感じた。
元寇防塁について……福岡市の文化財より引用する
文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。"
長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁が縫うように走る。ここを生の松原地区元寇防塁と呼ぶ。昭和43年発掘調査が行われ、海への傾斜面に幅1〜1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。また積み上げられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていた。史料によればこの付近の防塁構築は、姪浜が肥前国、生の松原が肥後国とあり、この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性がある。
『蒙古襲来絵詞』に、肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬上で進む場面は、この生の松原の情景である。さらに防塁の前面に玄武岩で作られた一列の石積みがあり、修理のあとと考えられている。
防塁の一部は築造時の高さに復元され、見学できるようになっている。
以上4日間駆け足で多くの縄文遺跡、弥生遺跡、古墳群を見て回り、レンタカーを博多駅で返し新幹線で帰京した。なおこれは2023/5/7にメモを元に書留た。