岸やんの自殺を考える
去る11月28日に、となりの課の岸上榮次さんが仕事中ビルの屋上より飛び降り自殺した。翌12月には無事定年を迎え退職する予定になっていたのに、退職を拒否するかのように自殺した。 彼は50才を目前に、高圧ガスと危険物を扱う仕事やめ、新たに国家資格を取得しまったく畑違いの今の仕事に転職した。A事業所を皮切りに、B、Cセンターと転勤し、この10月には勤続10年の表彰を受けた。その彼が突然60才の定年と還暦を目前に自殺した。
岸やんははっきり言ってみんなから嫌われていた。協調性がなく、そのくせ他人が無視すると大変激怒し突っかかっていった。周囲の同僚が仕事が上手く行き、大きな声で話しでもしようものなら、間髪いれずに「うるさい!」大声をはりあげ目をむいて抑えにかかった。他人の幸福に対して嫉妬心のようなものも強かった。
仕事も自己流で、会社の方針(マニュアル)とはちょっと違っていた。
実のところ私はA事業所で3年間彼と席を隣にした。彼はその3年間毎日毎日、A事業所での処遇を怒っていた。新米扱いに抵抗があった。転職後の評価が低いことを怒っていた。車の運転が許されないことを怒っていた。仕事(能力)ではなく付き合いで評価が決まると怒っていた。
いろいろなことが出来るのに、点検以外の仕事が与えられないと愚痴を言っていた。
「自分は出来る」という思いこみが強かったのか、それとも実のところベテランになるころには体が動かないと忍びよる老いに恐怖を感じていたのか?車の運転が許されないと繰り返し怒っていたが、私はその姿に”焦りの様なもの”を漠然と感じたものであった。
今思えば後者の感が強かったのかもしれない。転職後思うほど体がいや頭も動かない、このことについての自覚と焦りが、毎日の仕事で増幅されていたのではと思う。ある時ぽつりと「昔はかみそりの榮次と呼ばれたのに今ではさび付いたかみそりだ」とつぶやいた。
自分で蒔いた種?
彼は時に暴力的であった。職場で同僚に手を挙げた。そのうえドスのある声で、「俺は独り者刑務所なんか怖くない。刺し違えたろか!」と脅した。
はっきり言ってこれで仲間のひんしゅくを買い、ますます職場で孤立する事になった。Bでも、Cでも同様なことがあったらしい。以上のような問題があって、定年後の再雇用を拒否されたのである(と私は思う)。
しかし彼の名誉のため付け加えて置くが、無断欠勤とか遅刻とかは一切なかった。むしろ書類の整理のために休日サービス出勤をしていたぐらいである。
「仕事にでれば、おらが社長」が口癖で、お客からクレームがでないように、これだけは注意すると言っていた。
転職前に離婚し一人住まいであった。時にはスーパーで買い物も、そこそこの自炊はしていたようである。だから借金はなかったようである。
自衛隊生活4年を皮切りに40年近く働き、61才から年金で生活できる目途もたっていた。この先一年も雇用保険、退職金等で働かなくても生活できる目途もあった。にもかかわらず、定年を前に飛び降り自殺をした。
会社宛の遺書があったらしい。再雇用拒否に対する恨みが書かれていたらしい。自殺する数週間前、私は彼から再雇用を拒否され、仕方なく仕事を辞めるとうち明けられた。「いまさら組合にも上司にも泣きつけない」「司直に訴える元気もない」と。またちからなく、「○○さんは怖い人、Ametyanも気をつけな!」と言ってくれました。
あまりの元気のなさにビックリした。「自殺」の言葉を聞いたとき、鮮やかにその姿が再現され焼き付き頭から離れなくなった。
なぜ自殺したか?
再雇用拒否への抗議自殺のようであるが、誰一人としてそのようには考えていないようである。誰からも会社や組合に抗議はない。問題にする人もいない。なぜなら「再雇用拒否は仕方ない」「身から出た錆」「定年までこれたことだけでも温情だ」と感じているからだろうか?
しかしこのような人物が、はたして自殺するのだろうか?自殺と言うからには生きていても仕方がないということが基礎にあるように思う。彼をして生きる執着を奪ったものは何であったのか?直接的にはやはり仕事がなくなると言うことではないか。彼にとっていや我々生きるものにとっても、仕事は生き甲斐そのものでないだろうか。経済行為の基礎であり、社会的存在としての人間の原点であると思う。
還暦を前にした岸やんには、仕事以外に生き甲斐がなくなっていたのではないだろうか。酒はますます飲めなくなり。ギャンブルにも勝てなくなり。遊びには体がついて行かなくなった。仕事では考えもしなかった失敗をしでかす、そんな還暦前の老いたる孤独な技術者がそこにあるように思う。
趣味はない。今更体力造り、人付き合いも面倒くさい。結局騒々しく自殺が一番性に合っている、と言うことになるのだろうか?
しかしそれでは自殺の重みに答えていない。本当のところ彼のブローは効いている。みんな黙っているけれど、ひとり一人の心の中にずっしり重たいブローとなって効いている。
なぜ靴を脱いで自殺する?
聞くところによると、岸やんも飛び降りるとき、靴を脱ぎ、入れ歯やメガネそれと腕時計をはずし、きちっと箱に片づけて飛び降りたという。
人によると古来飛び降りるときは靴を脱ぐ決まりだそうだ!?では腕時計は何、まさか時計で怪我をするなど考えないでしょう!
やはりあの世に行くときに、靴がないと三途の川も渡れない。時計がなければ時間が判らない。メガネがなければ先が見えない。歯がなければ食事が出来ないと考えたのだろう。人並みに、靴も入れ歯も、メガネも時計も棺桶の中に納めてもらおうとの意思表示と思われる。あわれなり。合掌。
会社人間の哀しい結末。
私には彼の自殺に、会社人間の哀れな末路をを見る。40数年働いて自分で蒔いた結果とはいえ、仕事以外の生き甲斐を見いだせず、老いとともに死を選ばざるを得ないところに押しやられた会社人間の末路が!
日々生きるその空間から老いたことを非難され、技術の陳腐化を非難され、働くことを拒否され、社会的存在=生きる誇りを傷つけられた会社人間の末路が見える。
戦後の復興と繁栄の中、家庭を顧みず、職場での競争に明け暮れ、自己の哲学を持たずに生きてきた、会社人間につけが回ってきたのでしょうか?
40年勤労者として無事全うした結果が、生きる価値の喪失ではあまりにも理不尽ではないだろうか?岸やんの自殺について一言の説明もされない平穏な職場とその日常の繰り返しは、岸やんの再生産と岸やんの道への強制の様におもう。
残りを充実した日々に!
今50にして、彼の深刻な悩みが見えてきます。
老いをいたわり、人生の終末を喜んで迎えられる日は来るのでしょうか?
今生きるを真剣に考えます。
どう終末を迎えるか、何をしながら老いていくかを考える必要がある。社会的存在(価値)であり続けることは大変なことである。仕事を続けることもその一つだが、自己の哲学を持ちかたくなに実践することが必要だ。
彼の道は明日の我が身である。彼の道とは違った充実した日々のために、彼の死を思い考えた。
2001年12月10日
ps
職場の先輩の○○さんが、忘年会の席で言いました。「今はまだ喪に服しています。みんなも思いは一緒でしょう」と。
この先輩もやはり50代前半です。みんな突きつけられた現実の残酷さに苦闘しているようです。
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