Ametyanのデジカメ……第3回 神籠石の旅 (ヤマちゃんと鬼ノ城、造山古墳を訪ねる)
 
            

第3回神籠石の旅 2024年春ヤマちゃんと鬼ノ城、造山古墳を訪ねる

 2024/04/23〜04/24     

 

鬼ノ城は神籠石系?山城か

 三ノ宮から新快速と普通電車を乗り継いで、岡山桃太郎線は服部駅を目指す 

  前日までの天気とは打って変わって、23日、24日は雨の予報であった。朝からどんより曇ってはいたが、朝からの大雨?の予想が少し変って、3時頃までは曇りとなっていた。 鬼ノ城は標高350mにある山城である。桃太郎伝説などでハイキングコースになっていて観て廻るのは比較的楽とのことではあるが、やはり雨の中での山城巡りは避けたいものである。 予定より1時間早く目覚めたので、7時前の阪急に乗って三ノ宮を目指した。三ノ宮でヤマちゃんと無事合流。いざ新快速へと向かったところ車両事故で遅れが 発生。乗車時点では15分遅れが姫路では25分の遅れとなり、姫路での乗り継ぎが出来なくなり結局もとの予定列車に乗ることになった。 12時40分服部駅に到着、頼んでいたタクシーで一路鬼ノ城に向かう。鬼ノ城ビジターセンターに13時過ぎ到着となった。未だ雨は降り出してはいなかったが、 今にも降り出しそうな天気である。とうとう雨具の用意などしている間にぽつりと来てしまった。

小雨の中神籠石を求めて鬼ノ城を探索する        

 鬼ノ城はいわゆる記紀に載っていない古代の山城の一つとして有名で、現地ビジターセンターでは神籠石系山城の瀬戸内型などと分類している。九州の神籠石については、 神籠石系山城の九州型と言うそうである。神籠石についてはすでに何度か触れてきたのであるが、九州は大宰府を中心にしてこれを取り囲むように造られた3世紀から6世紀ごろ造られた 山城である。阿蘇産の花崗岩を「煉瓦」のように長方形に割り削り、それを「下石」にした日本独特の「工法」による山城を言うのである。単に記紀に載っていない山城で、 朝鮮式でないものなら何でも神籠石という訳ではない。
今回の旅行の目的はこうした鬼ノ城をの新たな「神籠石」説を、この目で確かめその真偽を探ることであった。またこの地をめぐる桃太郎伝説にあるように、吉備の地は古代ヤマト 政権の確立に大きな役割を担っている。ヤマト政権成立以前から大きな勢力が存在し、いわゆる神武東征では大和出撃の兵站基地であり出撃拠点であった。その後ヤマト政権に 「鬼退治」された吉備の勢力が存在した地域である。この地に「記紀」に触れられていない古代山城があっても不思議はない。3世紀から6世紀はここ日本列島は邪馬台国の時代で、 国乱れる動乱の時代であった。山城が築かれて当然の時代である。但し、九州と同じ「神籠石」であるとは断定できない。九州王朝の影響力が本当にここまであったのかどうかをこの目で 対かめようと思い立ったのである。

        ついに「神籠石状列石」なるものに出会う

 先ずはパンフレットから鬼ノ城についての説明を参照する。
『 鬼ノ城は標高400〜600mの吉備高原の南麓に位置し、眼下には古代吉備の中枢地である総社平野を望むことができます。快晴時には、瀬戸内海から遠く四国の山並みも 見通せる眺望絶景の地です。古代山城の鬼ノ城は、規模や構造がもっともわかっている山城で、昔話『ももたろう』のもととなったといわれる 「温羅(うら)伝説」の舞台としても有名です。』
 
 鬼ノ城一帯はハイキングコースとして整備され2から3時間あればゆっくりと散策することが出来る。山城を取り囲むような絶壁のような石垣や山麓を囲む列石、何カ所かの水門など 観て廻ることが出来る。再現された角楼では石垣と城壁を見ることが出来る。鬼ノ城はいわゆる「版築土塁」で2.8Kmにわたってはちまきを締めたように城壁を築き、要所の 六カ所を高い石垣で守りを固めている。古代の山城を示す版築土塁・高石垣・水門によって構成されている。もちろん何カ所か列石状のものが築かれているが、どちらかというと自然の石が 列石状になっているのである。
 角楼の近く数十メータの神籠石状の列石はあったものの、いわゆる神籠石の規模には及びも付かないもので、人的・技術的に神籠石と何らかの関係があったとしても、 素人目には神籠石系山城などと分類できる要素は無いように思えた。ヤマトでは無いから神籠石というのはやはり一種のイデオロギーなのであろう。
 神籠石状列石とはよく言ったものである。確かに花崗岩を煉瓦状に割り削って列石としていたが長さが僅か数十メートルでしかなく、周辺の列石はもっと小さな 自然石を並べたものにみえた。神籠石の数十キロに及ぶ巨石の列石とは比べようにもなかった。時代を特定したり細かな技術的検討も出来ないので、素人の私にはかすかな技術的・ 人的つながりを感じたり九州王朝の影響力をある程度感じることが出来たが、神籠石としての人的・文化的なものまでは感じなかった。
 なお後日判明したことであるが、鬼ノ城が建設されたとする6〜7世紀ごろ、海岸線がこの総社平野まで深く入り込んでいて造山古墳や加茂遺跡、備中高松城などの高台を残して 『穴の海』と呼ばれた海原であったとのことです。 (穴の海については古代史テクノロジー 長野正孝著による) 瀬戸内からの攻撃を警戒する山城にしては海が遠いのではと云った疑問が出ていたのであるが、 実は鬼ノ城は海を前にした山城であることがわかった。鬼ノ城は総社平野と日本海貿易で栄えた古代吉備国の存亡を決めるような重要な都城形態の山城であった。古代山城とは言え 立派な水門や列石で囲まれた山城の訳を理解することが出来る。記紀に記述がない山城として知られているのであるが、桃太郎伝説の温羅一族より造られたものであろうと思われる。 建設時期も神籠石などと同じ6世紀以前であると確信できる。
 15時を過ぎ、いよいよ雨がきつくなってきたので鬼ノ城ビジターセンターに戻り、タクシーを頼んでこの日の探索を終了とした。
 この日はJR総社駅前のホテル池田屋に宿を取った。4階のJR総社駅とももたろう線の列車が見えるトレインビュールームでゆっくりと休むことが出来た。

雨の中 作山(つくりやま)古墳から造山(つくりやま)古墳 JR吉備津まで散策 “2日目“

      

 雨中 作の作山(つくりやま)古墳を目指す 

 2日目も雨模様である。午後からは大雨になりそうとのことで小雨の内にと食事もそこそこに、タクシーを頼んで作の作山古墳に向かう。
 作山古墳は全長286m三段築城の前方後円墳で 全国第10位の前方後円墳である。
  *前方部の長さ112m、巾174m、高さ24m、前方部と後円部の高さの差は1m。
  *前方部の前端に突出部をつくり、後円部も楕円にしているのが特徴である。墳丘を少しでも大きく見せようとした努力の跡と考えられている。
  *築造は5世紀中頃とされている。吉備の大首長の墓と考えられている。
   雨の中での散策で丁寧に見て回れないのであるが古墳の頂上に立つと、木々が比較的少なく確かに前方後円墳の頂上立っていると目でも実感できた。これほど大きな古墳で前方後円墳の形を 実感できることは少ない。残念ながら三段築城や円筒埴輪の密接して立ち並ぶさまや斜面の角礫が葺かれたさまは感じ取ることが出来なかった。  

 備中国分寺跡を経由して造山古墳に向かう

     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     作山古墳をあとにサイクリングロード沿いに備中国分寺跡を通って造山古墳に向かった。歩くこと2時間ほどで造山古墳に着く。
 造山古墳は墳丘長350m高さ29mで前方後円墳中全国第4位の大きさである。堺にある上石津ミサンガイ古墳(履中天皇陵)の相似形で96%の縮小版である。
  *くびれ部の両側に台形の造り出しが敷設されている。
  *三段築城、格段の縁には円筒埴輪列があり、葺石には20p前後の割石が使用されている。周濠はない。
  *古墳時代前期V前半(5世紀初め)。吉備地方最初の前方後円墳である。
  *陪塚と考えられる小古墳6基点在する。中には九州の影響を受けた千足装飾古墳がある。
  *前方部墳頂には石棺が置かれいる。石棺の石材は阿蘇ピンク石、あるいは馬門石と呼ばれ熊本県宇土市周辺で産出する。
  *長野正孝氏に因れば、この大きさ全国第4位の前方後円墳造るには船(九州阿蘇から瀬戸内海を航行できた大きな船?)による石材(石棺のみではなく大量の葺石) の運搬を抜きには考えられないとのことです。『穴の海』があって造山古墳があったとのこと。
 この造山古墳はよく整備されていて、頂上部へは階段があって比較的簡単に登頂できる。頂上部に立てる前方後円墳としては日本最大の古墳と云われている。 但し全体は埋め戻されていて大きな前方後円墳であることは確認できても、 それ以上の往時を偲ぶことは出来ない。石室も特定されてはいるが未公開で近づくことも出来ない。そばに岡山市造山古墳ビジターセンターがあり資料等が展示されていた。
 

 JR 吉備津を目指して歩く

 ビジターセンターをあとに、雨の中ではあるがJR吉備津駅を目指してひたすら歩いた。約1時間余歩いて12時前に吉備津彦神社が有名な吉備津駅の到着した。岡山で 立ち食いそばを食べ腹を紛らわせ一路山陽本線で帰路についた。  
 
 
 
     2024年4月吉日             
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