Nさんの感電事故を考える
VCT調査中にボルコンに触れる
Nさんの
先日Nさんが仕事中に電気室でボルコンにふれて感電負傷した。
この事故の経過はおよそ次の通りである。
電気室上方に釣ってある関電VCTの銘板を確認しようと、左腕をフェンスのアームに巻き付け、
右手に懐中電灯を持って銘板を照らそうと腕をのばした。
そのときその手の甲がボルコンの穴の開いているところに接触し感電した。
ボルコンは陶器で出来ている。充電部から接触点までは少なくとも直線で数センチはあると思われる。
但し碍子のように沿面距離を伸ばす細工はなく、見た目の距離しかなくその意味で沿面距離は短い。
さらに運悪くボルコンの穴近くに充電部が来ていたようで、他の相のボルコンでは見えない充電部が穴よりはっきり確認できる状態にあったとのことである。
幸いなことに直接充電部に接触しなかったことで感電負傷事故で済んだ。
電気は右手甲から左腕の巻き付けていた関節部に抜け、腕の関節には三カ所ほどのやけどの跡が残った。
幸いにも感電は死亡事故とはならず、翌日より仕事が出来る軽傷?ですんだ。
しかし、もちろん高圧感電事故なので、電流が通過した神経内部はジュール熱による細胞破壊が起きる。
完全回復には少々時間がかかるであろう。人づてで聞くところでは傷口から膿のようなものが数カ月は最低でも出続けるようである。
なぜNさんが事故を起こしたのか?
Nさんは64才後一年で定年である。無理をする必要などこれぽっちもない。事業所一の長老である。
この長老がなぜこのような事故を起こしたのか考えてみた。
そもそも今回の事故の発端は、関電VCTの銘板調査である。
もちろんというか、一応というのか指示事項として決して無理をしない。安全に確認できる範囲にとどめる。
VCTについては最終電流値が確認できればよい(ペンキ書きの電流値は必ず確認)となっていた。
つまり一応、その他の小さな数字は安全に確認できなければ確認しなくて良いとなっていた
。
但し調査目的からして、この「ペンキ書き電流値の確認」という最低のもので十分なのか、
言い換えるとそれで仕事になっているのかどうかという点が全く明確でなかった。
そもそも関西電力の下請けで、何を目的としている調査か明確ではない。
仕事をする立場に立てばよく判ることである。最初から安全には遂行不可能な業務を、危険であれば中止して良いと言われていても、指示を受けた側はそうおいそれと不能の報告ばかり挙げることは出来ない。
ある程度安全を犠牲にして業務を遂行することとなる。
日常点検業務では、これとこれは必要と言うことが明確にされている。
さらには高圧活線近接作業にならないよう、常日頃から検証し検討しながら安全確保を考え仕事をしている。
しかし今回の調査は一回切りの調査であり、もし仕事になっていなかったらもう一度足を運ぶことになる。
作業員の意識は、必然的に出来るだけ完全に読みとりたいというようになる。
事故検討会で事故原因に指示の曖昧さが上がったのは当然と言える。
ところが、会社から言わせば事故を起こした本人が悪いと言うことになる。
なぜそんな無理をしたのか、しなくて良い無理をして確認しょうとしたNさんが悪いと言うことになる訳である。
事故検討会が指摘した二大要因の内容
感電負傷事故があった直後職場で開かれた事故検討会の結論は2点であった。
その一つは危険な高圧近接作業を、防保護具の使用なしにおこなったことである。
もう一点は上司より出された指示が曖昧であったことである。
しかし現場を知る者なら、第一番目の点は結果論でしかないことは明白である。
高圧近接作業を防保護具なしにやるのは日常茶飯事のことである。高圧絶縁手袋を持ち歩いての月次点検は現実的ではない。
しかも高圧近接作業となるような低圧の漏洩電流や負荷電流の測定は必要悪であり、機器の点検に顔を近づける事も良くあることである。
近視であるとか老眼であるとのことで双眼鏡を持ち歩いて点検はしていない。
高圧絶縁手袋を使用して低圧漏電測定もしない。もちろん強制されてやっているのではない。
事故の最大の要因はやはり指示の曖昧さにあったといいきれる。
本質的に、言い切ってしまえば、り無理をして安全を犠牲にして調査せよという指示があったということである。
そもそもVCTの銘板を顔から60センチ以上離して確認できる人が幾人いるかということである。
さらに今回の感電事故を受けた後での安全教育では、VCTから躯体距離を60センチ確保するだけでなく、懐中電灯も60センチ離れたところから照らすというのである。
小生の場合、正直言ってこれではほぼ100%銘板を読むことは出来ない。
Nさんの場合も同じと思われる。40代半ば以上の年輩者はほぼ不可能と思われる。若年者とて読める人の方が少数と思われる。
最初から不可能なことを可能ならしてこいと指示されたわけである。悲しいかな歳を取ると安全に出来ないからまあいいやと行かないのである。むしろ若い者に負けるものかなどと、無理に無理を重ねることになる。
この程度のことならなんとか出来る、否なんとかしなくては、となるのである。
一人作業が査定?の対象になるだけに、技術者であればあるだけこうした点に固執してしまうのである。
ところが身体は思うように動かず、この程度なら安全だという思いが重大事故を引き起こすことになる。年輩者だからとは言い切れないかもしれない。どちらかと言えば性格によるものかもしれない。がこの曖昧な指示が今回の感電負傷事故の誘発要因(真因)であるように思うのは小生だけではないと確信している。
この点について経営側は、全くと言っていいほど問題にしないのである。
安全月間の始まりに当たって支社長からは安全管理についての反省という言葉が出されたが、当の営業所の中ではこうした言葉すら全くない。
そればかりか被災者に「迷惑をおかけしました」とみんなの前でさらし者にするだけで、経営体質に迫るような議論や問題提起は全くない。
営業所の所長は再発防止施策の安全教育で、個人における安全意識の低下を指摘するばかりである。仕事中作業手袋がされていないとか、銘板を読むのにわざわざ左腕を鉄のアームに巻き付け電流流出点を作ったとかを指摘するだけで、何故無理して感電してしまったかというメンタルな点を解明しょうとしないのである。
これでは明るい職場にはならない
我らの仕事は毎日が危険との隣り合わせである。安全意識の欠如は死と直結する。
高圧感電死亡率は30%を越えるという。一旦感電すると3人に一人は死亡する訳だ。極端に言えば仕事中ふらついてさわりどころが悪いと即死亡に至る。
ところガである。空気の絶縁たるや結構ある。わずか数センチ離れているだけで、接触さえしなければ感電することはない。
このことが、仕事では油断を生じさせる。つまりある程度無理を利かしてしまう側面が生じてしまう。
効率が優先されるとどうしても安全が無視される。わが社も自由化のあおりを受け効率が優先されるようになってきている。
職員と特別職員の区別がなくなってきている。給与での話なら歓迎であるが、賃金は25%ダウンさせながら仕事では同じ効率を求めている。
若くて元気に働くことを毎日いわば強制されているのである。その結果今回の感電事故のように、必要のない無理なことをやって労災に会い、最終的には職場から追放されることになる。
こうした構図を経営側は生き残りをかけた改革で当然と考えている。一方労働側も、高齢者問題については、今までどちらかといいえば経営上雇用が必要であったことから無関心で来た。発生した問題に対しては何も言わない、否何もできないのが実状である。
働く中で声を挙げる必要性
このごろ歳を取るにつれて思うのは、年相応の働きしか出来ないし、それでよいのではと思う。
いかに頑張っても出来ることと出来ないことがあるわけで、その点を現場の中でしっかり主張していく必要性を感じます。黙っていても判ると思うのは大きな間違いである。
さらにわが社的に考えると、年輩者の主張という点は、今までされてこなかった事をはっきりさせる必要があるように思う。
右肩上がり時代(人手不足)の特別職員は文字通り特別職員であった。生え抜きの管理職にとっても、現在の年輩者現場は全く未知のものといって良いと考えます。ここらに現場とのずれがあるように思う。
そんなこんなでメンタルな面での改善を含んでやっていかないと、やがて労災があふれる職場になりかねない、と思うのは杞憂であろうか。
皆さんのおかれている現状はどの様なものでしょうか?
今回の感電事故で小生が感じたことは特異なものでしょうか?
状況を報告し合うようなことを含め皆さんの置かれた状況を知らしてもらいたい。
記 2004年8 月吉日