「余部鉄橋」への個人的な想いを書く前に。


1986 昭和61年 12月28日(日)

列車(客車)転落事故により、

小さい頃から親しく、 『おばちゃん』 と呼んでいた方々含め、


6名もの方が犠牲となりました。  ・ ・ ・、 忘れません。











山陰本線  余部鉄橋 (写真)

 
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 1909(明治42)年 12月16日 着手

 1912(明治45)年  1月13日 竣工


 ●全長:309.4m
 ●橋脚高:41.5m
 ●橋脚:11基
 ●橋台:2





独り言

サルから人間へ 転機 TV番組・映画 お願い オリジナルグッズ

 
   小さい頃、私(私達)は「サル」でした。

 まず食べる物と言えば。

 おやつなど存在しない時代、近所で実っている柿・無花果・西瓜・胡瓜はもちろん、グミ・ナツメが食べ頃になると
 気付かれないように?その時食べたい分だけ採って食べ、物音や人の気配がすると別の場所へ全力疾走。
 山でアケビ・ザクロが実っていると聞けば山の中へ。食べて喉が渇けば、湧き水(清水)を飲む。                
 子供会(子供だけ)での ヨモギ採り・山椒摘みは、採取場所への道中にある野苺はもちろん、高さ50cm程の、
 自生している草?カッポン・ダンジーを折り、いい音がすれば食べられると子供なりのルールを作って食べ、
 シイの実の落ちる季節には、ポケット一杯拾い、炙って食べる。海に潜れば、生の海ソーメンやワカメのカブ。
 磯ではニシ(貝)を採り、湯がき、裁縫針で身を取り出して食べるなど、とりあえず何でも食べていました。

 そして遊びと言えば。

 春〜秋は、パッチン(メンコ)・ラムネ(ビー玉)・釘差し・かくれんぼ・けったん。 トンボ・セミ・クワガタ・ザリガニ捕り。
 夏休みは海水浴。監視の人が帰った後も、唇が紫色になるほど泳ぎ続け、川で潮流しして、少年野球の練習へ。
 稲刈りが終わった頃は、木や竹のバットを自作して持ち寄り、田んぼ野球。(夏に無くしたボールが見つかる事も)
 冬は、余部各所に名前を付けたスキー場巡り。(駅への坂道を滑っている場面が、一度テレビで放送されました)


 そんな「サル」時代の遊び場の一つとして, 【余部鉄橋】 が当然存在します。
 低学年の頃は、一番下の鉄骨を歩く程度。それが高学年になるにつれて徐々に行動がエスカレートし、    
 下からの梯子を登った所を第一休憩所、次の梯子を登った所を第二休憩所、最後の梯子を登れば頂上などと    
 勝手に呼び名を付け、第一休憩所から対角の第一休憩所へ歩いて渡ったり、支柱のすき間に身体を入れて
 第一休憩所まで上り、そこから筋交いを利用して斜めに下りたりと、縦横無尽に動き回っていました。      
 今思い起こせば、ゾッとするような馬鹿な遊びですが、その頃は凄く楽しかったのだと思います。            
 そんな遊びをしているある日、余部小学校の朝礼で校長先生が、『余部鉄橋にサルがいます』 と言われ、
 すぐに誰(私達)の事を言っているのか気付きました。運良く誰一人怪我などしていなかったのですが、
 『危ないので止めましょう』と言われ、その通りなので反省し、怒られないようにしなければと思ったのですが、
 何せ「サル」です。止められません。まぁ毎日ではなく、ごくたまに遊んでいただけです。(それがダメ) 
 そして中学生となり徐々に「人間」に近づいて来たのか、何かあって周りに迷惑を掛けてはいけないと気付いた?
 いや何より遊ばなくなった一番の理由は、高い所が怖くなってしまったからです。(今も高い所は苦手です)   

  でも中学生時代 【余部鉄橋】 を通学(帰り)に歩いて渡っていました。
 通学はもちろん餘部駅から乗って香住に行くのですが、帰りに学校行事等で普段とは違う時間の列車に乗ると、
 隣の鎧駅には停車して、餘部駅は通過する列車に乗る事になり、 全員が鎧駅で下車し線路を歩いて帰ります。
 トンネルは早歩きをすると大丈夫なのですが、怠けていると次の列車が来て、トンネル内の待避所に身を隠すと、
 蒸気機関車の名残、煤(すす)で手や顔が真っ黒。そうなる事は分かってはいるのですが、何度も真っ黒。  
 トンネルを出ると 【余部鉄橋】。その頃の通路は木の板で作られ、その中には踏んではいけないような板もあり、
 怖いのでゆっくり歩いているとまた列車。手摺りが、半分は金網で、もう半分が鉄パイプ上下2本だけだったので、 
 列車通過時は迫力満点。学生帽を飛ばされないように押さえながら、手摺りにしがみついていました。      
 その頃カメラを持っていれば、面白く貴重な写真が撮れたのでしょうが、誰も持っていなかったので、一枚も無し。

 すっかり「人間」としての自覚が出た高校生では、それまでと違った問題が発生。
 朝早く起きるのが苦手になり、いくら 【余部鉄橋】 の真下に住んでいるとはいえ、朝御飯も食べず家から出ると、
 最悪で列車発車時刻の3分前。いつもの5分前なら途中から小走りでも何とか大丈夫なのですが、        
 確実に遅れるなと考えながらも淡い期待を抱き、駅までの急坂を一目散に全力疾走。                                
 次から次に現れる数名の同士。途中見上げると坂道まではみ出した機関車から下を見る運転手。                  
 『待ってくれ』と言うと、『早よ上がって来い』と返答。本当に待っていてくれ無事乗車成功。                
 ごくごく希な出来事なのですが、こんな事って古き良き時代の想い出になりますかね?                                

 社会人になってからは、通勤以外で直接関わる事は無くなったのですが、
 たまに個人や団体の観光客の方が 、【余部鉄橋】 を歩いていて、その中にはカップルもいたのですが、 
 女性の方の服装が明らかにスカートとヒール。誰も下に覗きに行く趣味がないので堤防から見ていると、      
 歩く姿はもちろん怖々。それは当たり前、この頃の通路は、太い金網の板や穴の開いた鉄板で出来ていて、
 下の家・人などが丸見え。下から見る高さと上から見る高さの違いに驚いて、途中で止まってしまいます。  
 汽車が来そうな音がすると大騒ぎ。一目散に駅へ。間に合わなかった人達は怖かったでしょうね。
  (注:今は立ち入り禁止なので絶対に歩かないで下さい。 話のネタにもなりませんよ)                           
 そんな姿を面白がって見ていたのですが、今となっては観光客が写したであろう写真を見てみたいですね。
 写真。【余部鉄橋】の写真と言えば、千ア密夫さんですね
 余部在住で、何十年に渡り鉄橋を撮り続け、テレビ・新聞等に何度も取り上げられています。           
 色んな所に写真を貸し出されてているので、何らかのパンフレット等でその一部を見た方もいると思います。    
 よく分かりませんが、余部に住んでいて写真が趣味。それで余部鉄橋を撮ろうと思われたのかも知れませんが、
 何十年も継続して撮り続けている事が凄い。撮られた蒸気機関車の一枚が、余部郵便局に展示されています。




   そんなこんなで共に生きてきた【余部鉄橋】に転機が訪れました。

  撤去・架け替えです。

 何かのきっかけがないと改めて 【余部鉄橋】 の写真やビデオを撮影しようとは思いません。                    
 何故なら、数名に聞いて私も同意見だったのが、【余部鉄橋】は 《庭の置物》 だとの認識だからです。
 毎日わざわざ見る事もなく、毎日世話をする事もなく、、そして目立つ事もなく、そこにいて当たり前の存在。   
 昔の写真を借りようと問いましたが、カメラを持っていなかったのは勿論ですが、ほとんど誰も写していません。
 それはそうです。自宅の《庭の置物》を、何か事ある毎に撮影などしませんし、ましてや将来無くなるなんて・・・。
 その《庭の置物》は、一日に何度も、テレビの音や話し声が聞こえない位、大きな音(列車走行)を立て、  
 お色直し(錆止め工事)の時は、洗濯物はもちろん、車も近くに置いておけない程、鉄粉を飛ばしていたのですが、
 そんな事があっても我慢できるのは、やはり、《庭の置物》である意識と、半ばあきらめの仕方がない気持ち?。
 いやいや、個人的に余部のシンボルを文字や言葉で安易に表現出来ません。                                
 列車が通過する事で時刻を知り、通過音を聞いて積雪状況が分かる。完全に生活の一部なのですから。    

 余談ですが、この鉄橋を見て育ったので、人が造った建造物を見てもあまり感動しません。(木造は別です)
 東京タワーや瀬戸大橋・明石海峡大橋など、規模が全く違うのですが。
 しかし、黒部ダムだけは別格でした。凄い!声も出ない位の感動! ・・・・・余談でした。

 一緒に生活してきた 【余部鉄橋】ですが、小さい頃から気になっていた事があります。                    
 それは、触れてはいけない事なのではないかと考えながら、今まで過ごして来たのですが、                    
 架け替え。この思いも寄らなかった出来事をきっかけに、ほんの少し触れてきました。                      
 明治から大正へ年号が変わる年に完成した建造物です。重機など無かったでしょうし、安全面の配慮は?
 
  つまり、工事中に亡くなった方がおられるのでは、と言う事です。

 当時の様子を知っているであろう人達は既に亡くなられ、ならば何らかの文献が何処かにないか探しました。
 元校長先生などに聞いた所、浜坂の「以命亭」に行ってみれば、との事なので、とりあえず行く事に。  
 浜坂先人記念館「以命亭」。浜坂の旧家を再現、地元の先人達の紹介、浜坂や近隣の資料展示をされています。
 入館料(200円)を支払い入館。そして何の躊躇もなく【余部鉄橋】に関しての資料が無いですかと聞くと、
 館長(当時)を紹介して頂きました。後で聞いたのですが、この方かなり有名で各地で講演されているそうです。
 事情(余部の人が知らない余部鉄橋の事が知りたい)を説明すると、快く手持ちの資料を見せていただけ、
 そこに書かれていたのは、山陰本線工事の中で【余部鉄橋】と桃観トンネル工事が如何に難工事だったかです。

 【余部鉄橋】桃観トンネル(余部〜久谷間)。
 この22・23工区が完成しないと山陰本線が全線開通しない。
 香住駅と浜坂駅間の標高差・上り下り勾配を計算し、桃観峠をトンネルで抜く桃観隧道の標高・長さを決め、  
 それにより出された【余部鉄橋】の高さと長さ。
 建築関係は皆無ですが、明治時代の技術力の高さに敬服します。

 山陰本線最長の 桃観トンネル(1,841m)、東洋一の高さ【余部鉄橋】(41,5m)が完成し、山陰本線全線開通。
 しかし開通までには、やはり犠牲になられた方々がおられ、それが最大の難所、桃観トンネルの工事だけなのか
 【余部鉄橋】の工事も含まれるのか私には分かりませんが、この2工区で27人もの方々が亡くなられていました。
 この難工事で犠牲となり、亡くなられた27人を弔う 「招魂碑」 が、久谷の八幡神社境内に建てられています。
 その中には7人の朝鮮人の方々も含まれており、その内の1人、「曹鉄根さんの墓」が余部にあります。
                                                                       


 1959(昭和34)年4月に、餘部駅が完成し、16日からは気動車も停まり、便利になったのですが、
 それ以前の通勤・通学などは、鉄橋を歩き、トンネルを抜け、隣の鎧駅まで歩いて行ったと聞いています。
 雨が降っても、雪が降っても、あの鉄橋の上で風が吹いても、歩いて毎日通う姿を想像すると、頭が下がります。

 駅が完成した関係かも知れませんが、翌1960(昭和35)年に、余部小学校の校歌が作られる事に。  
 当時の校長先生、山田勢威一さんが作詞され、その2番には【余部鉄橋】が唄われています。

                 
 
                 (スマートフォンで再生)WMA

             緑の谷にそびえ立つ 鉄をくみたる橋の塔
             希望はもゆるあけくれを 誓いもうれし新らしき
             はばたく明日をのぞみつつ ああ余部のわれらいま




   余部鉄橋の映像と言えば

 テレビ局は、架け替えが決まってから全局撮影に来て、放送してくれています。
 以前からも特集やニュースで取り上げてくれた番組は、ほとんど録画しているつもりです。(最近はしていません)
 私個人の一番のお気に入りは、サンテレビ 「こちら海です:汽車がゆく 雪の余部鉄橋」 です。(昭和60年)  
 オープニングの、トンネルを抜けて雪の余部鉄橋を通過するシーンから流れる、雪の余部の歌。                      
 冬の仕事風景や駅に上がるシーンでは、今となっては亡くなられた方々や、顔見知りの人達が何人も映ります。
 余部地区の紹介、そして【余部鉄橋】建設の経緯を、写真と元国鉄職員の方やナレーションで解説。
 一番心に残る場面は、建設当時の事を覚えている[谷口[[浜田]「たばた][せいざい]の、おばあさん達。
 [せいざい]のおばあさんは、基礎工事の時、〈もんぐりさん〉が来て、潜って工事に邪魔な石をどかしていたとか、
 すごい数の人夫さんがいて、村中の人は勿論、子供も学校帰りに全員作業を手伝っていたと話されています。
 [谷口]のおばあさんは、滑車とロープを使い、鉄(かね)の鎚を手で引き上げる時の掛け声を披露したり、
 【余部鉄橋】の鉄道唱歌 『世の道開き進みゆく・・・・・』を唄われています。(どなたか最後まで御存じないですか)
 駅建設の経緯、駅完成後の余部などもあり、昭和60年の風景として個人的には、ほぼ完璧だと思います。
 だからDVDにして保存しています。欲を言えば、編集していない映像を見たいのですが、無理ですね。  
 出来れば、地上デジタルで再放送してしてほしいのですが、これも無理ですね。

 そしてこれも有名な、テレビ朝日 「ニュースステーション:日本の駅 余部」 です。(昭和61年)              
 【余部鉄橋】を、西垣一郎さんと、鉄橋守として余部に来たその父親を中心に、エピソードなどを交えた生放送。
 西垣先生が、久米宏さんや余部駅に来ていたアナウンサーと会話する姿が、何か格好良かった。              
 それと今でも語り草なのは、【余部鉄橋】初の、ライトアップ。                                            
 私は仕事で直接見る事が出来なかったのですが、聞くところによると、電源車・放送車などが来て、
 朝から何台もの投光器を準備・設置して、 リハーサルや点灯テストを何度も繰り返していたそうです。                
 そのおかげで、録画した番組ですが、冬の真っ暗な夜に映し出された鉄橋を、初めて見る事が出来ましたし、 
 全体を照らしていたので事前に知っていた写真家には好条件。ライトアップの写真と言えば、この時の写真です。
 当然この番組も、DVDに保存しています。                                                                          

 知っている映像の中で一番古いのは、1964(昭和39)年封切りの日活映画 「執炎」です。              
 浅丘ルリ子・伊丹十三出演の映画なのですが、近所のおばちゃん方の出演シーンには、若かった頃の姿が映り、
 浅丘ルリ子・伊丹十三のお二人が鉄橋の上を走る場面には、白黒ですが当時の鉄橋の様子が良く分かります。  
 蒸気機関車が走る映像が数回あり、山の上から撮った映像には、当時の鉄橋周辺が映っていて、
 おばちゃん方にこの映画の話をすると、出演者が泊まった家の事や撮影の様子など、当時の話が聞けますし、
 私は小さかったのですが、ある家に置いていた発泡スチロールの雪を見て、「へ〜」と思った記憶があります。
 友人が何処からか「執炎」のVHSビデオを買って来たので、これももちろんDVD保存。 
 蒸気機関車の走る場面を数秒でも多くの人に見て欲しいのですが、今の世の中絶対に駄目ですね。




   少し、お願いがあります。

 【余部鉄橋】を、わざわざ見に来てくれる観光客の人達には、何故か分かりませんが、有り難く思います。
 『ありがとうございます』、『また見に来てやって下さい』と、今までに話をした数十名の方に言いました。
 夜行列車で就職地へ向かう時、『故郷を離れこれから行くんだな』、
 初めて帰郷する時には、『故郷に帰って来たんだな』、
 『この鉄橋を通る度にその頃の気持ちを想い出していました』と、涙ぐみながら話してくれた初老の方。
 四国から列車、関東からオートバイに乗り、鉄橋を見るだけの為に、一人でわざわざ来てくれた方々。
 毎週のように来てくれる青年。『東京から100回近く来ています』と話してくれた方。
 『明治に建てられた物なので、無くなるまで写真を撮りに来ます』と言ってくれた若者達。
 下から見上げて写真を撮る人。列車に乗り、高さを体感される人。鎧駅から往復する人。
 息を切らしながら駅までの急坂を上り下りしてくれる人。家族・団体・個人、沢山の人達が見に来てくれます
 ありがとうございます。そして、ありがとうございました。


 鉄橋以外、何も無い余部ですが、コンクリートの橋になっても列車に乗り、
 海側を見れば、日本海の直ぐ側に建ち、100年近く潮風に耐えてきた事や、
 山側を見れば、緑の小さな谷間に建てられていた事を実感出来ますし、して下さい。
 そして、高さも。
 餘部駅までは上り坂で、しんどいです。
 観光客の方にも、『しんどいので、ゆっくり上がって下さい』と言っています。
 余部橋梁を、列車は数十秒で渡ってしまいますが、
 明治時代にこの地と決め、船を使い、海から材料を運んでいた事など、少しだけ思ってやって下さい。
  ◎隣の、鎧駅から往復もして下さい。(往復所要時間、約23分)。列車時刻表(PDF)  (Adobe Reader 必要)


 旅の途中、駐車やトイレ休憩される時には、
 海岸を散歩しながら、磯の生き物観察・魚釣り・潮の香りの中での休憩等、
 僅かな時間でものんびり過ごして下さい。しかし、ここは日本海です。くれぐれも波には要注意!


 山歩き気分を味わいたい方には、
 余部湾東の山の上、《たかのす》という所に行け、
 《サワリ鼻展望所》や、隣の地区、鎧へと続く、遊歩道(旧生活道)があります。
 《たかのす》《サワリ鼻展望所》や道中からは、余部橋梁を別角度で見る事が出来ます。
 森の中の坂道ばかりの山道で、のんびり歩くと、片道約1時間かかりますが、森林浴にいかがですか。
  ※山歩きで危険なのは、熊との遭遇です
   ●用心のため、「熊よけ鈴」などの「熊よけグッズ」を身に付けて、歩いて下さい●
   ●入山届けを記入する施設は無く、現地で管理する人もいないので、くれぐれも自己責任で●
 鎧まで行かれた方は、列車に乗って余部まで帰って来て下さい。列車時刻表(PDF)  (Adobe Reader 必要)


 
山陰海岸や日本海の眺望を見たい方には、
 
御崎区に、余部埼灯台があります。日本一高い場所(海から約284m)にある灯台です。
 雲一つ無い快晴ならば、京都・丹後半島の、経ヶ岬まで望めます。
 そこから日本海を見ると、大袈裟に言えば、地球が丸いと実感します。
 駐車場・トイレもあります。(灯台に上がる事は出来ません)
  ※国道178号から約5kmの道のりは、道幅が少し狭いので、対向車に注意して運転して下さい。
   ●バスでは行けません●


 明治生まれの老橋ですが、残った雄姿を是非、何度でも、見に・感じに、来てやって下さい。


 そして出来ましたら、列車転落事故で犠牲になられた方々を悼む 『慰霊碑』 を、御参りして下さい。
 よろしくお願いします。





   オリジナルグッズ。

    終了。

 大勢の観光客が通っている時に、別に聞き耳を立てていた訳では無いのですが、
 大きな声で喋られていた、『土産物何か無いの』、『御土産作ればいいのに』、『何か売ればいいのに』。
 などの声を聞き、それならばと作って、ごくたまに売っていました。
  余部鉄橋 独り言 余部から余部鉄橋 独り言 余部から余部鉄橋 独り言 余部から

  ドライブイン余部 に、少しあります。 喫茶・食事も、どうぞ。






   オリジナルグッズ 販売します。


  ●Blu-ray Video

     DVDに使っている「本編」はそのままに、「おまけ」に数分の別映像を加えた、【余部鉄橋】の映像と、
     テレビ番組に出演された時、【余部鉄橋】に対する想いなどを述べられた、元校長先生お二人が、
     昔と今の【余部鉄橋】の事や、昭和10・20年代の生活風景などを語ってくれた数十分の映像を、
     一枚のBlu-rayに収録した、一応ハイビジョン映像です。
     説明は、こちら です。(Adobe Reader)


    余部に行く事も無いが、興味があるので購入してみようかなと思われる方がおられましたら、
    法律に基づく表示を確認後、注文して下さい。
  
   ★言い訳ですが、すごく古いパソコンを使っているので、時々動かなくなります。
     出来るだけ慎重に動作させますが、注文から2週間以上経っても商品が届かなければ、
     申し訳ございませんが、面倒でも、もう一度連絡して下さい。

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