久しぶりのロンドンで、こんな騒ぎに巻き込まれるとは思ってもみなかった。
 赤らめた頬で寝たふりをしている人物は、行きの馬車にはいなかった。本当に疲れて眠ってしまったご子息様も、隣のシャドウに寄りかかるなんて数時間前には考えられなかった。
 運命なんて信じない。
 けれど。



ひつじさんとひろいもの



「ここは嫌いだ。空気が汚れてる」

 馬車を降りたご子息様がぽつりと言う。彼にとってロンドンは2度目。
 郊外の屋敷ばかりでは気が滅入るだろうと連れ出したのだが、実際外出を決めた時には嬉しそうな顔を見せたのに、今ではこうだ。
 元々口数の少ないシャドウと一緒では会話も成立しない。人ごみを縫って歩き出す先には紳士用の仕立屋がある。目的地は確かにそこなのだが。

「シルバー様、馬車の時間が長くてお疲れでは?」
「カフェなら、紅茶が美味しい店じゃないとダメだからな」

 足を止め、シャドウに案内させるように後ろに着くご子息様。シャドウが珈琲ならともかく紅茶には詳しくないというのを知っていて言う。嫌みではないのがまだ救いだろう。
 記憶にある紅茶専門店の場所を思い出そうとした時、周囲の人ごみがぱっと割れてゆく。「どけ」「道を開けろ!」低くドスのきいた声が近付いてくる。シャドウがご子息様を背後に庇って下がると、男の声が情けない悲鳴に変わった。

「Hey! オレの縄張りで怪しい商売されちゃあ困るんだ」

 ドカドカと激しい暴力の音。
 だが、2対1なのに後から追ってきた少年の方がはるかに強い。
 すぐにその場を立ち去るべきだと思っているのに、鮮やかな戦い方に周囲を取り囲む人たちと同じように目を奪われていた。シャドウの後ろにいるご子息様も。
 警笛の音。誰かが警官を呼んだらしい。動けなくなった男たちを置いて、少年が風のように逃げる。
 それを、まさかご子息様が追うなんて。



「紅茶だったら、ハミルトンの店が一番さ。茶葉にハズレがないし、希望を言えばブレンドも作ってくれる」

 店の奥、手入れの行きとどいた小庭で、先ほどの少年が茶器を小さくゆする。シャドウの知識の中で、彼の淹れ方は完璧だった。カップから立つ湯気を頬に当てるご子息様も満足そうだ。
 何故ついてくると問われ、咄嗟に紅茶の店を訪ねた不自然さにも、少年は屈託なく応じてくれた。

「アンタ、さっき、すごく強かった」
「ああ。アレは人売りだ。子供を捕まえて売る。最近多くてさ」

 言いながら、もうひとつのカップをシャドウの前へ置く。
 強すぎず品の良い紅茶の香りはシャドウを不思議な気分にさせた。この店の主人に習ったとも考えられるが、それにしてもこんな紅茶を飲み、香りの話までできるような身分の者とも思えない。
 みすぼらしい襤褸をまとった浮浪児。なのに、伸びた背筋や躍動的な瞳は絶望感など匂わせない。

「オレはあーゆーのが嫌いでさ。ついケンカを売ってしまう。もう潮時だけどな」
「どうして?」
「オレが悪い奴らを狩りすぎて、ケーサツが暇になっちまったからだよ」

 ご子息様が笑う。
 一緒に彼も笑っている。が、冗談めかして話したことは、かなり切羽詰まった状況なのではないだろうか。胸騒ぎのようなものをシャドウは感じていた。

「ところで、お坊ちゃん? 英語苦手なんだな」

 ご子息様が硬直し、シャドウも顔色を変えた。反応に少年がいたずらっぽく笑う。

「フランス圏から来たんだろ? こんな下町じゃ誰も気にしない程度の訛りだが、上流階級じゃ辛いな」
「随分、直したんだけどな」
「そこの執事さん。ちゃんとお喋りしてやれよ。会話からじゃないと言葉は上達しないモンだぜ」

 余計な世話だと思いつつ、この少年の能力的なものを計る。
 語気は荒いがきれいな英語を話すし、紅茶の茶葉を買う時の様子では金銭の計算はとても速かった。正義感も強そうだし、身体を動かす勘もいい。そして、この紅茶…。

「キミこそ何者だ」
「ただの浮浪児さ。そろそろまともな仕事に就きたいとは思ってるけど、日銭を稼ぐくらいしかないだろうな」

 見た目、ご子息様と年齢が変わらない感じなのに、随分逞しい。そしてやっぱり不思議なほど絶望感は無い。
 そんな少年の耳が小さく動いた。シャドウも街の喧騒に耳を澄ます。

「悪い。ちょっと用事ができたみたいだ。茶器は置いておけば、店の婆ちゃんが片づけてくれるから」

 少年はふわりと身をひるがえして、裏路地よりも細い家々の隙間へ飛び込んで行った。
 その暗い影をじっとシャドウが見つめていると、珍しくご子息様が笑って立ち上がる。

「ついて行こう」
「しかし、危険な感じがします」
「だから、気になるんだろう? シャドウ」

 ご子息様が少年の消えた影の中に飛び込んで行く。遅れを取らずにシャドウも付きそうが、嫌な予感も付きまとって離れない。
 やがて、薄暗い路地の奥で、数人に囲まれる小柄な少年を見つけた。
 近寄ろうとした二人の耳に、反響する破裂音が届き、足を止める。

「何? 銃声?」
「…のようですね。加勢してきますので、シルバー様はあの少年を保護してください」
「アンタひとりで大丈夫かよ」
「無論。怪我はしないでください」

 そう言ってシャドウが路地の隙間から飛び出した。
 まっすぐ拳銃を持ってる男へ飛びかかり、相手が反応する前に胸倉を掴んで壁へ投げつけた。
 少年はひどく殴られていたが、この隙を見逃すわけがない。低い位置から近い男に蹴りを放ち、逃走経路を確保する。
 シャドウがふたり目を殴り倒すと、少年を抱えて元の路地へ駆けだす。
 パン! パン! とまた銃声。
 数発がシャドウのコートをかすめた。

「お帰り、シャドウ! おい、大丈夫か? 走って逃げられるか?」

 ご子息様が少年を護るように抱えた。
 路地の通り側に、バチバチと銃弾が当たり石畳が小石の道に変わっていく。相手方は見えていた人数だけではなかったようだ。
 逃げ切るにはもう少し追手を減らしたい。が、

「ムカつく! 撃ち返すからちょっと待て!」

 少年が奪ってきたらしい拳銃を手にし…、トリガーを引こうとしてできなかった。

「あれ? 壊れてるのかよ」
「馬鹿! 扱えないような武器を手に持つな!」

 シャドウが少年から銃を取り上げ、手早く弾を確認しセイフティを解除する。
 隠れた3人が出てこないので、相手方の足音が近づいてくる。その反響する音で、シャドウは相手の位置を正確に判断した。
 路地を飛び出す、続けざまに6発を撃って、悲鳴やうめき声、シャドウが身を退くと、また銃弾がこちらへ飛んできた。

「逃げます! 走ってください!」
「追手は?」
「足を撃ちました。 しばらくは大丈夫」

 少年の両脇をふたりが抱えて表通り目指して走り出した。
 その途中、少年がまじまじとシャドウを見ているのに気付く。

「何か?」
「あ、いや…えーと、お前が強くて驚いてる」

 ご子息様もその隣で笑いだした。

「オレも驚いた! さすがロボトニック家の執事ってトコかな!」

 そのまま全速で裏道を駆け、最初の目的地だった仕立屋へ飛び込む。
 貴族御用達の店なので、客が少ないのを良いことに、少年をそこにしばし匿うことにした。
 ご子息様が新しい服の採寸をしている間、分厚いカーテンの隙間に座り込んでいる少年にシャドウが話しかけた。

「このままこの街に留まると、先ほどのようなことが度々起こるのは確実だ。人売りって言ってたが、マフィアだろう? 殺されるぞ」
「だよなあ。対抗するとすれば…シャドウ、だっけ? 銃の使い方教えて」
「馬鹿。うちへ来い。雇ってやる」

 少年の口がぽかんと開いた。
 シャドウにも少年にも打算というものはあったが、シャドウの方が若干早く答えを出したのだ。このまま放置しておくのは惜しい。

「ちょっと待て。ロボトニック家って言っただろ? こんな素性の怪しい子供を雇えるわけが」
「黙れ。お前はボクが拾った。それでお前がよしと頷けば、このまま屋敷へ連れ帰る。それともここで死んでもいいか」
「…死ぬのは、困る」
「名前は?」
「ソニック」

 少年もしばらく考えて「まあいいか」と言う。それが答えになった。
 シャドウが頷いて隣室へゆき、今度は嬉しそうなご子息様を伴い戻ってきた。

「やったあ! ソニック、アンタはオレ専属だ! いっぱい喋って英語直してくれよ」
「ボクの下でしっかり働いて貰う」
「え? 執事じゃなくてメイドだろ?」
「は?」

 噛みあわない会話のふたりを眺めて、ソニックが楽しそうな笑い声を上げた。














はいはい。
小学生・中学生・高校生はここまで。



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