気づいていた。
 遠くから風に乗って、吐き気のするような腐った血のにおいに混じり、甘く爽やかな芳香があることを。
 熟成された澱の上澄みよりも、稀につい近年摘み取った果実が奇跡を起こす。
 予感さえも、シャドウの喉を潤おし、酔わせる。

 彼女と出会ったときに似ていた。あの時も、永い眠りから目覚めたのだが、決して不快な予感では無かった。

「マリア、キミに似た子供だろうか?」

 尋ねる虚空から甘い匂いが漂う。姿は無くとも、確かに香る。
 砂糖菓子でできた夢の時間。永い時を一人きりで生きていたシャドウを精一杯愛してくれた、優しい少女。

 喪失は癒されてはいない。

 蓋が開かれたままのオルガンは、長い年月に晒されセピア色を濃くしているのに、二度と讃美歌を奏でることはない鍵盤は、いつもシャドウが触れているので、埃の一つも積もっていない。

 流れる時と止まった時と、その隙間でシャドウの物語は紡がれている。

「飢えていない、と言えば嘘になる。でも…マリア」

 もう、誰も自らの運命に巻き込みたくない。
 世界にとって異端なシャドウはいつも「死」の機会を待っている。しかし、「死」を得ることは難しい。
 見送ってばかりなのだ。

 悲しき吸血鬼。



 近づいてくる血の臭気。濃霧のように押し寄せてくる。
 そんな中、不思議とその身に纏う風に守られる者の気配もはっきりと感じ取れる。


 昼下がり。明るい風が訪れる。


 本来ならばただ通り過ぎるだけの、それ、は、まるでシャドウが引き寄せたかのように、ここへ来た。

 そっと、歩み寄って、秘密を盗み見ようとしている。
 なら、遊んでゆくといい。
 本当に楽しくて、頬が緩む。シャドウはマントを深く合わせて、黒い霧に変じ祭壇の影に紛れた。
 さあ、その姿を見せてくれ。

 軋んだ音を立てて、教会の扉が開いた。

 シャドウは僅かに落胆した。
 魂は輝くほどの光を放っているのに、それを覆い隠すほど汚れた血を浴びている。
 誰がこんな罪をキミに着せたのだ。

 慎重にあたりを見回し剣をしっかり握っているのは、昼間を狙って吸血鬼を退治しようとやってきたのか。
 魔法にかからないよう、意識を集中させているのも、戦い慣れた印象だ。
 小物…屍人や蟲程度なら、退治も難しくはないだろう。
 しかし、シャドウは闇の頂点に近い存在だ。易々と狩られはしない。

 さて、そろそろキミの秘密を戴こう。
 過去を覗く夢を見せるのは造作もないこと。

 ステンドグラスの影から姿を現すと、光の源を凝視する後ろ姿に呼びかけた。

「久しぶりの客だと思ったら、キミからは随分酷い死臭がする」
「なっ!?」

 振り返る、その瞳は、鮮やかなグラスグリーン。
 じつと見つめて術をかけると、その者は指先を震わせて、剣を落とす。

 碧の瞳のまぶしさに目がくらむ。

 それ、が倒れそうになるのを、抱きかかえるように支えた。が、シャドウにも酔うような心地よいふらつきがある。
 面白い。こんなことは滅多にない。
 甘い芳香を漂わせる獲物に手を伸ばして、夢に落ちる魂を手につかんだ。











つづく






2009.06.22


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