春隠しの渓



 真っ白な雪に埋もれ、膨らみかけたつぼみがまたしぼんだ。
 ようやく春と暦は告げるが、今年は一向に寒さが去らない。
 幾重に几帳を重ねても、炭を熾しても、土の底から冷えるのはこの地ならでは。
 元気なのは、子供と犬くらいだ。

「花見へ行くぞ」

 影霧の言葉に小鬼がけらけらと笑う。

「なごり雪の間違いだろ」
「この寒さは怪異のせいだと知っているだろう?」
「まーな」

 軽い口調なのに、小鬼の表情は冴えない。いつもなら都の外へ出ると言えば、喜んでついてくるのだが、この日に限って座り込んだまま動こうとしない。何か不都合でもあるのだろうか。
 とにかく、都に春を待ちわびる人々の為に、影霧は怪異を止めなければならない。
 ソニックは影霧にとって必要な力だ。同行させないわけにいかない。ふてくされ顔の小鬼の首に下がった絹帯を、ぐいと掴んで引き寄せる。

「遊びではない。使令としてついてこい、ソニック」
「クッ…、妖は滅多に互いの領分を侵さない。それだけは絶対忘れるな、シャドウ!」

 名前を呼んで縛れば、命令から背くことはできないのに、此度は特に反抗的だ。
 強い力を持つこの小鬼が使令として光の領分で動けば、他の妖の闇を破ることなど容易い。
 都に災いをなす怪異ならばなおのこと、倒さなければならない。
 影霧の手の中で、抵抗する気がぷつりと消えて、ついでに絹帯も風にさらわれるよう小鬼の姿ごと消え失せた。

「ソニック?」
『気がすすまない。せめて隠遁させろよ』

 諦めたような声は、足元の影の中から聞こえた。
 影霧が歩き出すは、卜占にて陰気ありと示された北西の方角、保津の渓谷。
 普段であれば楽しげに隣を駆ける小鬼がおらず、奇妙な寂しさを憶えた。



 都を抜け、嵯峨の寺社、貴族の別邸、さびれた村を過ぎると、嵐山の麓より荒々しい保津川のほとりへ出た。
 凍るような川風にちらちらと混じる風花が流れてくる。
 いや、ぽつんと川面に落ちたそれは解けることなく吹かれて沈む、桜の花びらだ。
 この寒さで咲いている花があるとすれば、やはり妖が何かしら動いているは間違いがない。
 川の縁に続く小道を進み行けば、やがて岩だらけの渓谷へたどり着く。
 尖った石に白い花弁がしがみついている。それを拾い上げて足元に問うた。

「近いな」
『ああ、懐かしい』
「キミを連れてここまで来たことはないだろう」
『Sorry, 憶えてないんだったな』

 影の中でソニックが笑ったようだった。
 影霧にはこのやりとりがもっとも気にかかる。
 過去だか前世だか知らないが、この小鬼とどういう関係だったのか、一寸でも思い出せないものかと夢見の秘術まで使ったのに、何も覗くことはできなかった。
 小鬼が言うには、記憶を誰かに封じられたというよりも、影霧の元の魂自らが封じたのだという。転生を繰り返し過去を切り離し続けた、そのせいだと。
 僅かな焦燥を見てとった青い小鬼は、時間をかけて取り戻せばいい、といつものふざけた調子で言うのだが。

『妖気が強くなった。そこの岩棚を上がってみろ。夢みたいな景色が見えるぜ』

 小鬼が影で示す黒い岩を次々飛んで、渓谷の頂きまで駆け上がると、岩の上に浮く平らな丸い丘が現れた。
 一面、白い雪、否、ふわりと弾力のある桜の花びらで埋め尽くされ、丘の中央には真っ白な花を咲かせる大樹。
 そして、その根元に、ソニックよりはいくらか小さな小鬼が倒れていた。
 美しい、この世のものとは思えない程の景色。

「これが、怪異の元?」

 影霧が手刀を抜刀しその先で封じの印を描こうとしたその瞬間、ぴいんと張った糸に触れたような音。
 低い地鳴りが足元に響き、足場の岩棚が崩れた。急ぎ跳ね跳び近くの岩へ移ろうとすると、そこには鋭く尖った石が並び、影霧の足を切り裂こうと待ち構えている。呪術ではない、何者も寄せ付けないためのからくり仕掛けだ。
 舌打ちひとつ、式を飛ばし浮島を踏み、なんとか白い丘へ戻ろうとするが、冷たい雨が式神かささぎの翼を打ち、影霧の身が沈んでゆく。
 桜の根元にいる小鬼が、疲れた様子で起きあがる。大きな耳に賢そうな眼、そして、

「二尾狐か!」

 狐の小鬼が豊かに膨らんだ二本の尾を振り下ろすと、大粒の雹が波のように影霧めがけて押し迫った。
 式神は間に合わず、慌てて袂を上げて身を守ろうとするが雹は腕を砕かんばかりに降り注ぐ。

「Wait! wait! オレたちは敵じゃない」

 影の中からするりとソニックが飛び出した。影霧を庇って立つと、風の壁で氷の雨を弾き飛ばす。
 渓谷を下へ落ちかけた影霧を風の膜につつんで白い花弁の庭に降ろし、ソニックは驚きの表情を浮かべる二尾狐のもとへ駆ける。
 力の限界なのか、がたがたと足を震わせている二尾狐も、口元をほころばせソニックへ歩み寄ろうとする。

「…ソニック、本当にソニックなの?信じられない、また会えるなんて」
「Hey, Tails! 大きくなったな」
「アハハッ、ボクじゃなくて、コスモのことだよね?」
「いや、お前もだよ。それに強くなった」

 照れた様子で笑う二尾狐。見上げる大樹の桜に影霧が歩み寄ると、さらさらと薄く黄緑がかった花びらが落ちた。
 普賢象だったか、少しずつ花の色を変えてゆく、不思議な桜。
 永い時をかけて、この二尾狐が守ってきたのだろうか。再会を喜び瞳を潤ませる二尾狐とソニックはまるで兄弟のよう。ふたりの小鬼が旧知であり、説得のできる相手なのだというのは影霧にも理解できる。

「聞かせてもらおうか。都に春が来ないように術をかけていたのはお前だな?」
「…シャドウ?」
「あの頃のことは何も憶えてないぜ。この木の種のことも」

 青い小鬼がからかうように話の腰を折り、影霧の苛立ちを大きくする。また前世の話か、僕にも関係のある話なのか、しかし何も知らない。
 二尾狐は本当に聡いようで、苦笑ひとつで多くを理解したようだ。

「ソニックの吉祥院桜はメフィレスが燃やしてしまったんでしょう? ボクは、コスモを絶対に守るって決めたから、春なんて絶対に来させやしないんだ」
「…炎帝がまた現れるのか?そんな気配はどこにもない」
「そーだな、イブリースじゃない、別のヤツだ。それの正体は直接桜に聞いてみようぜ。いいだろ?」

 ソニックが問うたのは二尾狐。少し迷ってことりと頷いた。
 おそらくこの二尾狐も、ソニックに劣らぬ程の力を持っているのだろう。なのに、疲れ果てて今にも倒れてしまいそうなほど力を使いはたしている、その理由が何なのか。
 ソニックが桜に手をついて、その横に影霧も手を添える。

 ふうわり、足が浮き上がるような感じがして。

 ちいさな少女が、白い花びらの庭に立っていた。
 若木色の衣、赤い花を髪に差した童姫がぺこりと会釈する。

『お願いです、助けてください。このままでは私もテイルスさんも消えてしまいます』
「任せとけって!すぐに蹴飛ばしてきてやるさ」
「安請け合いをするつもりはないが、もとより見逃せない怪異だからな」
『変わらない、のですね。おふたりとも』

 少女が笑って、そして北西の方角へ向き直る。

『妖気混じりの春風に乗り、蟲の群れが来ます。彼らは、最初に私を枯らそうとしたのです』
「…それで、あの二尾狐がお前を守っていたということか」
「理由はどうあれ、結果的にテイルスは都も護ってたってワケさ」
『ソニックさん、おわかりでしょう? 強い悲しみの意図を感じます。あの子はあなたのことが大好きだから戦いたくなんてないんです』
「Thanks, Cosmo. 俺も、アイツを傷つけたくない。大丈夫さ、わかってる」

 ソニックが桜から手を離すと、やっと緊張から解放された二尾狐が、うつらうつら居眠りをはじめてる。
 その肩をソニックが優しく抱いてやると、二尾狐は本格的に眠りに落ちた。

「その二尾狐も使役に使うぞ」
「No! No!! テイルスはこの桜の守りだぜ?使令にしなくても桜の為に協力してくれるさ。それより少し休ませてやってくれないか。お前の準備が終わるくらいまでの間でいいから」
「フッ、準備か。二刻後、日暮れに仕掛けよう。だが、お前は構わないのか?敵は知人か?」

 影霧の問いに、心の揺れを隠しきれなかったソニックは俯いて答えた。

「その気になれば、シャドウの束縛なんて簡単に引きちぎれるさ。それでも、オレはお前と一緒に戦うって決めたから」

 妖の世界の理を破る。相手が旧知の友であったとしても。
 いつもの快活な小鬼の心が、今は戸惑うほど掴めない。
 緑色の瞳は、影霧にはやけに儚く見えた。



 山深い渓谷に、早い夜が訪れる。ここより上流では蟲が湧くことを想定して、強い呪を多めに用意した。

「それじゃ、パーティを始めるか!」

 保津渓谷を風の弾丸になったソニックが先に駆け上ってゆく。つとめて明るく、迷いをふっ切ろうとするように。
 ひと時の眠りから目覚めた二尾狐が作り上げた結界のからくりは、おそらく今宵一晩程度しかもたない。
 何としてでも今夜中に決着を、ということだ。
 ソニックを追って出ようとした影霧の袂を、二尾狐が遠慮がちに引きとめた。

「あ、あの、影霧、さん。ソニックを信じてください。ソニックの真実の敵を知っても、あなただけは味方でいてください」
「真実の…? 彼は何者なんだ」
「これ以上は申せません。…あ、コスモが、これを」

 二尾狐が小さな手にひとすくいの白い花びらを、捕まえている影霧の袂の中に忍ばせた。
 先ほど感じた浮き上がるような感覚が僅かに甦る。先よりも強い夜の妖気を秘めている。
 ぺこり、普賢象桜と同じように、二尾狐も会釈をする。賢い眼が影霧の身を案じて瞬いた。
 それが合図、影霧は生臭い風を吹かせる渓谷の奥へ、高く飛翔した。

 先を行くソニックに、影霧が追いつくのにそう時間はかからなった。ソニックが待っていたわけでも、足が遅くなったのでもない。

「火神!」

 印を結び、手刀を放つ。ソニックが撃ち漏らした毒蟲を潰す。もう何体倒したか解らぬほど多い。
 影霧の負担を減らすよう、全力で戦っているのは解る。が、これほどの数とは予想していなかった。

「きりがない。ソニック、この蟲どもの親は?」
「蠱主(こしゅ)は兵(つわもの)の鎧師。都の富を欲するあまり死しても戦を仕掛けることを忘れられない、ある意味初志貫徹なヤツさ」

 厄介過ぎる相手だ。
 元々強い鎧を持つ虫に呪いをかけ手下にし、春の陽気が近づけば勝手に蟲は増えてゆく。
 それらを倒しに来た陰陽師を先に喰らうべく、諸蠱が黒い群れになって影霧に迫らんとする。

「危ないシャドウ!」
「護炎球!」
「Now, Elemental Wind! Lightning Sonic!!」

 渓谷の岩を大きく焼きつくした影霧の炎と、空を飛んで襲いかかろうとしていた蟲を雷を纏ったソニックが撃ち落とす。蟲の群れが途切れた。
 ざわり。
 一瞬の熱と強風に、空に掛った厚い雲が切れ、真白な月が澄んだ水を流す渓流を照らす。
 強い力を使ってしまった影霧が疲労と眩暈に膝をついた。

「影霧は、ちょっとここで休んでろよ。オレがちょちょいと行って親玉をやっつけてくるからさ」

 青い小鬼が影霧を守るように立ち、へらりと笑う。
 しかし、あの数の蟲だ、彼とてひとりではどうにもならない相手だと解っている。
 荒れる呼吸のまま、小鬼の首に下がる絹糸を掴むと影霧のそばに引き寄せた。

「キミが恐れている、キミの中に眠る力を解放する」
「んなっ!? やめろ、そんな力は無くても」
「強い妖に、光ではなく妖のキミを当てるのは、闇の掟に背くことだ。だが、僕はキミに命じる」

 何者かが結ぶ絹帯の呪縛を掴まれれば逃げることもできず、ソニックは影霧の描いた呪印をその胸に吸い取る。
 途端、変化は始まった。
 小さな身体があふれる力に膨れる、腕は太い筋肉に包まれ、薄く張りつく程度だった針毛も流れるほどに伸びる。
 土を掻く指先の爪は鋭く尖り、口元から抑えきれない呻りと、こちらも鋭い牙。
 小鬼の時には大きすぎた衣が、丁度収まる程の大きな身体に変化した。

 化物だ、知らぬ者ならそう言うだろう。
 だが、影霧は、野獣と化したソニックに、さらなる闇の真言を与えた。禁呪を重ね、解放された力をさらに増す。

「汝、ソニックに命じる。都に仇なす妖の蠱主を討ちとって参れ」

 再び、生温い風が川面を撫で始めた。
 雲が動き、月を赤い色に変えてゆく。
 満ち始める妖気。
 だが、ソニックが放つのは、それを上回る覇気。影霧の足もとに伏してその命を受ける。

「Yes,sir Master!」

 ソニックが赤い月に向かって吠えた。
 みなぎらせる力を妖気の源へぶつけるために、岩から岩へ飛び移りさらに上流へと駆けてゆく。
 その変貌したソニックを、影霧は小さな砂州の上で見送った。
 足を一歩前に出した途端に、ふらりと崩れて膝をつく。このまま倒れてしまわないように、身を支えるだけで精一杯だ。
 必要に刈られたとはいえ、ソニックの闇の器に力を注いでしまった、そのことがこれほどまでに影響している。
 空恐ろしい程、大きな器、だった。

 ソニックは、…獣王と化したソニックは、命令に従い必ず妖の正体を打ち破って影霧の元へ戻ってくる。
 それだけは、確信できる。
 蟲どもを刃のような爪にかけ、引き裂いて殺す。そのかりそめの命を奪って力にし、蓄え、さらなる力を爆発させるのだ。最後の敵に。

 信じているならばここで待てばいい。必ず戻ってくるのだから。

 せり出た岩山の裾、川べりの浅瀬で影霧は保津の水に触れた。
 二尾狐の呪で冬氷が張るほど冷たかった水は、ようやく春の温かみを取り戻しつつある。
 ソニックが、諸蠱を潰しているから、二尾狐が護る桜とその先にある都を護るために戦っているから。
 彼なら大丈夫だ、そう言い聞かせても奇妙な不安が付きまとって離れない。

 ぽとり、抱えていた衣の袖が水面に落ちた。
 慌てて袖を引き上げると、袂から白い輝きがさらさらと影霧を包んだ。
 普賢象桜の、真白な花びら。

『あなたの不安は的中しています。早くソニックさんのところへ向かってください。彼にあの鎚を壊させてはいけません』

 白い庭で会った少女の声が影霧の足もとから響くと、白い光が薄く少女の頬の色に変わってゆく。
 薄桃色の花びらから陽の気が立ち上り、影霧に力を取り戻させてゆく。

「鎚、だと?鎧師には必要のないものを、蠱主は持っているのか」
『あの方は悪くないのです。私とテイルスさんでは、どうすることもできませんでした』
「桜、二尾狐は、こすも、と呼んでいたな。何故僕に知らせてくれた?」
『私を救ってくださいました。遠いとおい、時のかなたで』

 影霧の脳裏に、闇夜に浮かぶ白い桜が浮かびあがり、それは微塵に砕け散る。
 その中からたったひと粒だけ、僕は手のひらに包んだ。そしてそれを彼に託した…。

「…今のは」

 眼を開いた影霧は、驚愕するほど軽くなった身体で、川の水を蹴って走り出した。
 問いたいことは山のようにある。
 しかし、今は、ソニックの元へ行かなければ。彼が大切なものを自らの手で壊してしまわないように。



 山を響かせる地響きは、武者鎧を纏った蠱主。
 大きさは比叡の金剛力士ほどだが、ひとあしごとにその重みで岩山が崩れゆく。
 怨、怨、と啼けば、土の中からいくらでも諸蠱が湧いて出る。

「いーかげんにしろよ! お前の力で都を奪うことなんてできやしない!」
『何故お前が私を』

 真鉄の甲冑はとても固く、拳で叩こうが爪で掻こうがびくとも揺るがない。青白い焔に包まれた鎚を、重みを乗せた腕で振り下ろせば、焔の柱がソニックに向けて倒れてくる。飛んで避ければ、他の蠱たちは巻き込まれて潰れてゆく。

「誰にそそのかされた?」

 低く問うたソニックに、蠱主は怯んだ。
 その隙を見逃さず、すう、と呼吸を止めると、身の内に溜まった闇の力を解放した。
 ソニックの身体も蠱主と同じように青白く輝き、強大な力が焔の形をとってその身に纏いつく。

『誰にも渡さぬ!お前にも、イブリースにも』
「痴れ者が」

 振りまわされる鎚を潜り、蠱主の腕の冑を爪で掻けば易々と裂ける。
 同じ陰の力のはずなのに、表面だけに力を現した蠱主と、精神の底から闇を吸い上げるソニックとでは差がありすぎる。
 幾度も拳を撃ちこめば、ソニックの倍ほどもある巨体がぐらぐらと傾ぎ、ついに地に倒れた。
 苦しげな鳴き声に、地を這う蟲が湧いたが、ソニックの腕のひと振りだけで風に散って消える。
 勝敗は決した、が、それでも容赦などしない。
 鉄鋲を打ったような足の爪でさらに蹴りあげ、蠱主の恨みで燃える鎧を、ひとかけらも残さずに粉々に打ち砕いた。
 猛る怒りが燃え尽きる頃には、最後に残った鎚が淡い燐光を発するのみ。

「You're fool...」

 憐れみを帯びたソニックの言葉に、ようやく鎧師の呪いが解けた。
 ころん、と小さな地虫に変わり深い森の腐葉土の中に逃げてゆく。これから数百年をかけて妖の力を取り戻してゆくのだろう。
 後に残るは、蠱主の槌。ただの鉄の鎚に戻ったそれを壊せば、再び怪異が現れることはない。

「そう、ただの鎚、だな」

 ソニックが鎚を高く振り上げる。壊すために。
 頸を、千切れそうになる程絞められるのを覚悟して。
 一瞬の躊躇いに、痺れるような甘い薫りが、まさかと思う、一番ここにいて欲しくないひとの気配。

「駄目だ、ソニック! 裂破斬光!」

 強大な破壊呪が、ソニックの頭上にある鎚を壊す。
 弾ける。
 渓谷一面に、闇のものではない、けれど、全てを圧する静穏が満ちた。



 静かすぎる。
 風の揺らぎもない無音の空間、また誰かの結界に閉じ込められた。
 ソニックと出会った時と同じ現象のようだが、今、力の源は影霧が壊した鎚の中から感じる。

「これが、本当の、怪異の正体なのか?」
「そうさ。都に逆恨みしてた鎧師をいじって蠱主に変えて、テイルスが護る桜を枯らそうとしてた」
「それで、二尾狐が桜を守るために、春を遠ざけて」

 全ての元凶が鎚の中にいた「もの」だと解る。
 邪悪な呪いが詰まっていると思い込んでいた。それを壊したものに跳ね返るような。
 それなのに、僅かにも陰気を感じない。
 むしろ、もっと穏やかな。

『ソニックが何を考えているのかわからないよ』

 直接、頭の中に響いてくる、声なのか、言葉なのか。ソニックはただ苦笑する。
 何者なのかと問うことも躊躇ってしまう、小さな子どものようで、永遠を生きた老人のようで。
 獣の姿のソニックに、懐くようにふわりと舞う。
 否、泣いているのかもしれない。

「悪いな。お前と戦ってでも、守りたいヤツがいるんだ」
『嫌だ、嫌だよ』

 声の主は純粋だった。
 都を呪う者に力を貸したのも、真実はソニックの為を思ってのことなのかもしれない。
 小さな気配が光の帯を作りソニックの首にしゅるりと巻きつくと、葵紫色の絹帯に変わった。
 前の時のような苦しみはなかった。

『ありがとう、シャドウ。僕を壊してくれて。いつか、願いを…』  子どもの声がシャドウの頭の中に小さく響いて、消えた。
 ぷつり、糸が切れるように結界が解けた。
 動きだした風に鉛色の雲がみるみる吹き飛ばされ、東の空が明けに染まりだす。

「ソニック」
「シャドウ、俺は…」

 言葉をさえぎり影霧が獣の額に手を添えると、地中に陰気が落ちてゆき、いつもの青い小鬼の姿に戻った。
 その姿は、いつもの生意気な使役ではなく、使命を帯びた勅使のよう。
 膝を折り、新たに増えた絹帯に触れる。
 彼の真の敵、誰と賭けをしているというのか。
 葵紫の帯から伝わる悲しみを受ける。
 痛いほどの。
 ソニックが手に余る衣の袖を広げ、影霧を隠すように抱いた。



 高く上った春の太陽が、深い渓谷にもその光を届けると、川面を滑る風からもようやく冷たさが消えた。
 早く帰ろうと急かす小鬼が、岩の上を飛び跳ねて先を駆けてゆく。
 帰る路には、二尾狐と普賢象桜に会うことはないだろう。

「そうだ、あの二尾狐。ているす、と呼んでいたか」
「ああ、意味はふたつのシッポ!」
「本当の名では無いな。使役されることを恐れてわざと名を呼ばなかった、というわけでもないようだ」
「そのうち話してやるよ」

 からからと日差しのようにソニックが笑う。
 前世なのか、それとも遥かな未来のことなのか。
 僕の手の中にあった白い種をソニックに託した、その時の話を。
 期待せずに待つとしよう。

 保津の水面に流れる白い花びらを追って、ふたりは都へと足を進めた。











おしまい。




2010.04.25
一年ぶりに書いてしまいました。
アレだ、大阪造幣局の桜の通り抜けのニュースを見てて、なんか書きたくなっちゃったというw
popocoさん、すんません、いろいろすんません!

毎度のことながら、続きはありません。考えてませんwwww





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