夢の始まり 花嵐 (後編)



 夕日が落ちる。
 炎が消えた都は営みの灯りさえ消え、中心にある内裏も今宵は一層闇が深い。
 戻らなければならない。なのに、影霧の足はどうしても御所へ向かわない。
 恐ろしいのだ。怖いのだ。愛した人の亡骸を見るのが。
 陰陽師として今までたくさんの彷徨う御霊をあの世へ送ってきたというのに。

 もっと力があれば、今朝の別れ際、御所へ向かう鞠姫を止められただろうか。
 もっと力があれば、全てを壊されずに済んだのだろうか。
 もっと力があれば。

 都へ注ぐ最後の光を望んで、ふらふらと九条通を西へ歩き出す。



 幾らか進んだところで、ふと、影霧は歩みを緩めた。無音の空間に、何者かの結界の内に入り込んでしまったようだ。
 動くものは影霧のみで、風さえも吹かない。
 道の先に月光の如く、淡く輝く大きな桜があった。妖気は感じない。
 慎重に近づくと、天辺近くの枝から子供がこちらを見下ろしている。
 否、子供ではない、小鬼だ。青い小鬼。
 体の大きさに合わない衣を纏っているので、余計に小さく見える。
 影霧が桜の前まで来ると、小鬼はくるくると音もたてずに舞い降りてきて、にこりと笑う。

「Hey! 五十年ぶりだな」

 人の言葉を解する、ということは、小鬼の姿でありながら妖力が強い証。この結界もこの小鬼の仕業だろう。
 首から下がった翠と山吹の細い絹帯がゆらゆら揺れて、小鬼の周りにだけ生まれる風を表す。

「ん? お前、今何歳?」
「十五」 ※数え年
「…十四年ぶりだな!」

 最初に言った年数と全然違う。かなり長い間、この場所に繋がれているのだろうか。
 しかもこの言い草は、誰かの魂魄と影霧を間違えている。

「キミはいったい誰だ」
「…憶えてないのか。まあ、いいや」
「質問に答えろ」

 指先で輪を描き呪縛の印を飛ばす。が、小鬼は輪が閉じる前に飛んで逃げる。
 続けて数度同じことを繰り返したが、小鬼は愉しそうに輪の間をすり抜けて遊ぶ。

「ムリムリ!そんなんじゃオレは捕まらないね!」

 小鬼は軽く枝を蹴って上へ飛ぶ。
 時を止めたままの枝の桜は、一流の彫物師が薄造りの紅水晶で作り上げた細工のよう。

「どうした?腕が落ちたか、シャドウ」
「何故、キミがその名を!?」

 鞠姫しか呼ばないその名を小鬼が知っているのか。
 それを疑問に思うより、鞠姫以外にその名を呼ばれたことに腹を立てた。
 指先に気を集中させて刃を飛ばし、小鬼を足をつけようとした枝ごと吹き飛ばしてやった。それでもまだ傷をつけることができない。
 ひらりと宙返りをして、小鬼は折れた枝を掴んだ。

「OK! Good! 今のはいい攻撃だったな。でも、木が弱るからこれ以上は勘弁してくれ」
「ならば答えろ。何故、キミがボクの名を知っている?」
「お前が思い出せよ」

 花枝を抱いて、小鬼は影霧の前に降り立つ。
 緑色の瞳が影霧を捕えた途端、動きを縛られてしまう。小さな姿かたちに騙される。これは尋常な妖ではない。

「オレも聞きたいね。お前は何を望んでここへ来た?」

 しかし、影霧を圧倒しているのは妖気などではない、覇気だ。
 全てを掌握する力を持つ、王気。
 発せられる言葉に逆らえない。思考が引きずり出される。

「力が、欲しかった」

 影霧の脳裏に惨禍が蘇る。
 崩れ落ち、炎に呑まれる都。
 助けを求める悲鳴。
 天へ恨みの怒号。
 そして、涙。
 亡くしてしまった。
 守れなかった。

 怪異を仕掛けた者がいる。それが憎い。

 だから。だから?

 いや、違う。
 この都を、鞠姫を守れなかった影霧自身が憎いのだ。
 この悲しみは、怒りは、憎しみは、すべて己を憐れむものだ。

「お前が望むものは力か。それを得てどうする」

 影霧にとって、世界と鞠姫は同じものだった。全てを失くしたと思っていた。
 それも違う。
 鞠姫が影霧に残したものがある。
 決して違えぬと誓ったものが。

「約束を守る。この世界と、そこに生きるすべてのものに、幸せになる切欠を、そこにある全てを守りたい」

 緑の瞳の呪縛が緩み、指先に、握った拳に感覚が戻る。
 額に力を集中させて小鬼からの覇気を押し返してやる。と、ふつりと互いの圧力が相殺される。
 小鬼が満足げに笑った。

「いい答えじゃないか。それならオレが力を貸してやるよ」

 ぴしり、ぴしり、薄氷に亀裂の入るような音がする。
 結界が剥がれ落ちはじめた。
 桜の花が散り始め、止まっていた時間が動きだす。
 生温い風に、血の臭いが混じる。
 裏鬼門の方角より迫る、深い闇。小鬼が楽しげに構える。

「It's show time!」

 凄まじい妖気が、背後にある都に染み入る。
 各地に配置されている結界陣が崩れているなら、容易に侵入されてしまう。

「これが、怪異の正体か!」

 急ぎ、影霧は式神を飛ばして闇を止めようと試みるけれど、迫るものが大きすぎて、陣の準備なくては太刀打ちできない。歯痒さに唇を噛む。
 その時だ。朗々と小鬼の声が響き渡った。

「Shining petals, become the fence of defense. Now, Element, Wind!!」

 ぐるぐる、小鬼が目にもとまらぬ速さで桜の周りを駆けると、ざざあ、と青い突風が巻き上がり、さらに竜巻を起こした。
 真白な花びらが空の上から雪のように舞い都を包む。迫る闇が燐光に消されてゆく。
 まるで陰陽道の結界術だ。
 それを小鬼が、闇の眷属が使った事に驚く。陰陽を知る妖がいるなど聞いたことがない。
 声を失くす影霧に、小鬼は空の一点を指して警告を発する。

「来るぞ!」

 息詰まる瘴気があたりに満ちる。
 しゅるる、と闇が渦巻いて、人の形を作り出した。よく見れば影霧の姿に似ている気がする。

「お前は何者だ」

 闇から生まれた人型は、片腕を胸に当てて、腰を引いて頭を下げる。波斯国の者がするようなお辞儀。
 丁寧な所作とは裏腹に、噴き出すような冷気が、その者の体に氷の結晶を纏いつかせた。

「ボクはメフィレス…闇のメフィレス…忘れたのかい?シャドウ」

 このやりとりは二度目だ。小鬼がけらけら笑う。

「忘れてるぜー? 最初から自己紹介してやれよ、メフィレス」
「…面倒だね」
「だろ?」
「知り合いなのか?」

 影霧が小鬼に向かって問うと、「No problem」と意味不明の返事。
 メフィレスが低い声で笑う。小鬼の口元にも笑みがあるが、どちらからも強い緊張の波動がある。

「あと一人はどうしたんだい?」
「さてね。お前、あと一人にやけにご執心だな」
「そうでもないけどね。いないなら好都合。この都、生まれ変わるイブリースの供犠にしてあげよう」

 メフィレスが両手を天に向けて伸ばすと、裏鬼門の方角より熱波が押し寄せる。
 昏い闇の中に浮き上がる、火の粉を纏った腕、立ちあがる影、破壊の巨神。

「あれは、炎帝!?…なんという!」

 大きさに圧倒され、たたらを踏んでなんとかとどまる。
 噴き出してくる闇の中心に、赤いひとつの眼が浮かぶ。
 少しずつ開いて、真円に見開かれた瞬間、炎の雨が降り始めた。
 剣印を結び抜刀して九字を切る。炎の雨は霧影の作った障壁に弾かれる。が、強い結界術なのに、押し留めるだけで精一杯。わずかでも気を緩めれば、影霧など簡単に消し飛んでしまう。
 どうすれば、と思考する影霧を、すう、と涼やかな風が包んだ。風に護られた小鬼が、霧影の隣に並ぶ。

「力を貸すと言ったぜ。アレはまだ完全体じゃない。上手くやれば地獄へ押し返せるさ」
「どうやって」
「走る。眼のところまで行ってぶん殴ってくる。シャドウはありったけの式をアイツに飛ばしてくれ。届かなければ終わりだからな」
「待て。キミが殴るだけでは心許無い」

 そう言って、影霧は未だ小鬼の手にある桜の小枝に術を掛ける。柔らかな花の芯が黒鉄の針に変換される。
 それで了承したのか、賢い小鬼はにやりと笑って、炎帝へ向き直った。

「All right! それじゃ、行ってくるぜ! Ready...GO!!」

 小鬼の合図で九字結界を破り、炎帝へ向け式神、かささぎを飛ばす。
 鳥の翼でできる真直ぐな道を、青い風になって小鬼が駆ける。
 降り注ぐ火弾に撃たれる寸前に小鬼が飛んで、その先に翼の浮島を、飛びあがる先にまた浮島を。
 影霧も持てる式神の全てを注ぎ、途切れさせないよう道を送り続けた。
 速度を増した小鬼は、風の槍になって最後に高くひとっ飛びし、炎帝の眼に飛び込んだ。
 断末魔の声が、びりびりと空気を震わせる。
 さらに小鬼が桜の枝を炎帝の眼に叩きつけた。花芯の針が閉じかけた眼に突き刺さる。

「今だ!」
「雷帝招来!」

 炎帝の眼に突き刺さった黒鉄の花芯めがけて、影霧の電雷が直撃した。
 衝撃は炎帝の巨大な体躯に広がり、青い火花をばちばち鳴らしながら元来た闇に堕ちてゆく。
 これで、一難は去ったとみていいだろう。

 一呼吸吐いて、消えゆく炎を見送り、中空から舞い降りてくる小鬼を待つ。
 が、小鬼は途中で突然均衡を崩して地面へ転がり落ちた。
 何事かと見れば、宙に黄金色の蛇が生え小鬼の首を絞めるように巻き付いている。
 うう、と呻いて抗おうと小鬼が首をかきむしると、蛇は緋色の絹帯に変わった。
 その一部始終を見守っていたメフィレスが、興味深げに倒れた小鬼の顎を持ち上げて哂う。

「賭けは分が悪そうじゃないか。神の贄には勿体無い。ボクが食べてあげるよ」
「煩い! イブリース消したんだから、お前もう帰れ」
「そうだね。では、今日の手土産をもうひとつ貰って帰るよ」

 メフィレスがぱちんと指を鳴らす。
 闇の中から赤い雷が生まれた。それは音もなく走り、桜の木を直撃する。桜はあっという間に揺らめいて炎上し、小さな炭の塊になった。
 …鞠姫と同じ姿に。
 それでは、これが、このメフィレスが、すべての元凶。

「では、また会おう」
「待て!」

 闇を解いてメフィレスが逃げる。呪縛の印は間一髪で間に合わなかった。
 唖然とする影霧に、小鬼がゆらりと立ち上がりながら声を絞り出す。

「また来るって言ってた。待ってりゃいいさ」

 小鬼は手に残っていた最後の小枝にふっと息を吹きかける。
 分け与えられた生気に、小さな淡い緑の葉が細枝の先に点った。
 死んでしまった桜の前に、ぽとりと落ちるように座り、穴を掘り枝根を埋める。その仕草が鬼、妖と呼ぶにはあまりに優しい。
 もしかしてここにあった桜は、都の結界などではなく。

「誰かの墓標だったのか」
「さあね。…家が小さくなっちまったなあ」

 力の源を失くして、うつらうつら眠りそうになっている小鬼をこの場所に置いておくのは躊躇われた。
 大切な桜なのだろうが、このままでは小鬼が生気を吸い取って枯らせてしまう。
 ならば、と影霧は呪縛の印を結び、弱った小鬼をとらえた。

「Ha!? Wait! Wait!!」
「ボクと共に来い。使役に使ってやる。
 鬼魅降伏 陰陽和合 急急如律令」

 真言を唱え眼を閉じると、小鬼の胸の混沌へ手を伸ばす。
 影霧が今まで捕えたどの妖よりも、捕え手は深く深く入ってゆく。
 この期に及んで抵抗する小鬼の意識が、霧影の腕に冷たい真綿のように纏いつく。この冷たさは、先ほどまみえたメフィレスに似ている。
 怖気が影霧の背に走る。何者だ、何者だ、この小鬼は!強く問う。

 オレは、オレだ!

 叫びとともに、硬く強い光が影霧の手に飛び込んできた。
 直感がその名を読み取る。
 五つの記号が表わすその名、世界のすべてが線になって流れゆくその速さ、意味するもの、青き風。

「使令に下れ!…ソニック!」

 唐突に抵抗が止まる。名前の呪縛に屈したのだ。
 影霧の霊力が小鬼、ソニックへ血液のように流れ、手足と同じモノに変わった。

「シャドウのバカやろ…」

 ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返してはいるが、減らず口を叩く位なら大丈夫だろう。
 余程力を失ったのか、ソニックは手足を縮めて、衣の中にうずくまるように丸くなった。
 見た目に騙されてはいけないとは思うのだけれど、そのいとけなさについ手が伸びてしまう。

「うちへ運んでやろう。少し眠れ」
「Yes, Master.」

 影霧が抱き上げてやると、とても小さく軽く感じた。
 そしていつの間にか、ソニックがシャドウと呼ばわることに慣れてしまった自分に気づく。


 明けの気配に、死気が転じて生気に変わる。
 悪夢はこれで終わりではない。けれど、人は生きてゆかねばならない。



 影霧は顔を上げ歩き出す。
 この都を、世界を、そこに生きる人々の幸せを守る。
 鞠姫との約束を想いながら。








おわり

おまけへつづく