夢の始まり 花嵐 (前編)
京の九条の西の端、吉祥院あたりにひとつの年老いた桜があった。
ある春の夜。鬼の調伏を終えた陰陽師が、孫娘への手土産にその一枝を折って帰ろうと桜のもとへ訪れると、生まれたばかりの男児が花に抱かれるように眠っていた。
不可思議な麗しさを湛えたその赤子を抱き上げたとき、心の奥底に意味不明の真言が刻まれる。
「Sadness, anger, and hatred. They awakes me. Adios! Shadow」
その途端、青い突風が駆けぬけ、枝に残っていた薄桃色の花弁をすべて散らしていった。
まるで冬枯れの姿に変わった古木は、そののちも時を止めたように花も葉もつけることが無くなり、次第に人々の記憶からも薄れ。
…十四年の歳月が流れた。
御所に程近い三条烏丸に先帝、故き冷泉院が幼い頃を過ごした屋敷があった。
主を失くしてしまったが、趣味よく過ごしやすいその場所は縁のものの手入れが行き届き、今も時折皇族方がお忍びで訪れる。宮中の喧噪を忘れるのには丁度良い具合なのだろう。今宵もいきなりのことだったというのに、屋敷の者はたいしてあわててもいない様子だ。
当主と挨拶を交わして通された小部屋からは、新緑鮮やかな庭園が眺めれる。
「しゃどう、よかった、会いたかったの!」
御簾越しにいる鞠姫は、わずかに幼さが残る声で影霧を迎えた。
彼女だけは影霧を幼少の頃から「しゃどう」と呼ばわる。それが本当の名だから、と他のものには理解しがたい理由だが、鞠姫だけが呼ぶその名を影霧は快く思っていた。
「急な方違えと今宵の宿直役をボクに命じたのは、師匠ではなく鞠姫ですか」
「そうよ。今日会えなかったらしばらく都には戻ってこられないんだもの。だからどうしてもしゃどうに会いたいって御爺様にお願いしたの」
鞠姫は皇族につながっており、新斎宮に選ばれ長く潔斎に入っていた。近日中に伊勢へ下ることになっている。
陰陽師の師匠の孫娘、鞠姫は幼いころは病弱で、共に叡山の別邸で暮らしていた時期がある。
影霧とは筒井筒。昔は身分の隔たりなど知らず睦まじく遊んでいたのだが、今は、御簾の内と外。
「こんな…潔斎中に密通などと噂されたらどうなさいます」
「人払いはしてあるもの。それに、あなたは信頼されてるみたいね」
衣擦れの音がして、御簾が揺れる。上げることはできないけれども、扇を差し入れて開いた隙間からは、昔のままのいたずら好きな鞠姫が覗く。
ほのかに燈る恋心をくすぐられ嬉しい反面、状況の拙さに声を低くする。
「このようなことをせずとも、斎宮の退出まで、ボクはまりあを」
「待ってくれるの?」
当たり前だ、と続けようとして、言葉がでなくなってしまった。
たとえ何年経とうとも、どれほど身分に差があろうとも、こんな風に語らうことができるのであれば、そう、言葉にしたいのに。
言霊の制約だと気付く。
鞠姫の身に何かが起こるのが本能的にわかるのに、それを一切口にすることができない。それに係わる約定ができないのだ。
「しゃどうは、うそがつけないものね」
ふうわりと鞠姫が笑う。
巫女としてより、預言、未来視の力が強かった彼女は、この潔斎の時期に何を見たのだろう。
「よく聞いてね、しゃどう。…災厄がくるわ。昏くて大きな闇と炎。都中を覆い尽くして、この世は混沌に堕ちるでしょう」
瞼の裏に映る光景を、鞠姫は語り紡ぐ。
「青き風と銀の光、あなたはそのふたつと共に戦うわ」
「その時、まりあはどこにいる?」
「私はずっとあなたのそばにいる」
ずるい。そんな風に返されたら何も言えないではないか。鞠姫が視る未来に彼女は存在しているのか。それでは何も答えになってない。
影霧がおも伏せてしまうと、気を取り直すように鞠姫の声は明るさを増す。
「私が伊勢へ下るのは、都の、いいえ、この世界に生きる人々、みんなの笑顔を見たいから。あなたほどの力はないけど、私も、守りたいの」
伊勢へ、ということは、それまでは無事ということか。
伊勢へ入れば神の力に護られるはずだ。そして斎宮となり神に仕え、この世界に幸あれと願う。優しさを具現したような鞠姫にとっても、それはこの上なく幸せな任なのだ。
ようやく安心して顔を上げると、鞠姫は間近まで寄り、幼いころに秘密の約束をしたのと同じように影霧の耳元に囁いた。
「だから約束しましょう、しゃどう。どんなに困難でもあなたならきっとできる。あなたの力でこの世界を守って。みんなの願いをかなえてあげて」
嬉しさと喜びと、わずかな切なさで霧影の胸が暖かく満たされ、こくりと頷く。
「わかった、鞠姫。この約束、決して違えることはしない」
「まりあでいいわよ。ふふ。あなたが小さな頃、どうしても私の名前がまりしめ、になっちゃって、だからまりあって呼ぶようになったのよね」
「昔のことです!忘れてください」
影霧が顔中を赤く染めて恥じ入るのを、ひとしきり楽しんだ後、鞠姫はとりとめもないおしゃべりを始める。
宮中のこと、親しい女房のこと、そして都の噂話。
「ねえ、知ってる?都のはずれに古い桜があるんですって」
かつては春になればたわわに花を咲かせていたその桜が、痩せた枝だけを晒すようになって、早十数年が経っていた。
年老いたのであろう。
しかし淋しい場所柄、枯れた木をそのままにしておけない。幾度も切り倒そうと斧を入れたのだが、木を打った途端、斧は壊れてしまう。
神木かと注連縄を掛ければ、翌日には縄を切られてしまう。
陰陽師や仏師も調べてみたけれど、ついに妖はみつけられなかった。
結局その木は枯れたまま置き捨てられ、人々も木のことは忘れてしまった。
ところが。
摩訶不思議なことに、この春になって、枝という枝から艶やかな花を咲かせた。
さらに、他の桜が花を散らしてしまった晩春となっても未だに花を咲かせ続けているという…。
翌朝、すべてが清浄だった。
空はまぶしく晴れ渡り、八掛、卜占、何もかもが吉相を示し、予定通り、鞠姫は御所へ参内のはこびとなる。慶びの気に充ち、新斎宮への祝福で光り輝くようだった。
凶事の欠片も見えぬ。
出立する鞠姫を見送りながら、影霧は不安に迷う心で揺れる。ただの姫なら式神を飛ばして守ってやりたいのだけれど、斎宮の御身ではそれも適わない。
だた、見送るしかできなかった。
陰陽寮に戻った影霧は本日の卜占を幾度となく改めた。一点の曇りも無いのがますます不安を煽る。
凶相の兆しを誰かが隠しているのではないか。
しかしこんな大掛りなことは陰陽を知る者でなければ難しい。この陰陽寮に師匠を除けば、影霧以上の術者はおらず…若さによる青さが抜ければ師匠をしのぐだろうと噂されてはいるけれどそれはまだ無理な話…、とにかく他の術者に心当たりはない。
それでも拭えない不安。
もし、影霧自身が乱を望むならば…崩しやすい北東、鬼門には罠が多い。わずかでも綻びを作るならば、南。
「取り越し苦労で終わればいいが」
手中に式を呼ぶ。
黒と白に朱色の尾羽を持つかささぎを、都の南へ向けて飛ばした。
空は強い陽光と春霞で真白に輝いている。穏やかな晩春。陰陽寮に午を告げる鐘が鳴る。
その時だ。
ぴしり。
寮の建物の柱木から軋む音がした。
何事かと言葉を発する間もなく、地鳴りとともに激しく床がうねる。
「地震だ!外へ」
同僚の声に表へ飛び出す。激震は十も数えないうちに唐突に鎮まる。が、悲鳴と怒号だけは止まらない。
これは地震などではない、怪異に違いない。
壊れた土塀越しにぐるりと見渡す。
都中に舞い上がる土煙りと黒い煙、そしてあまりにも早く火柱が天を突き始める。その数、五本。都の地図とその位置を合わせると、形は逆五芒星。
「しまった、今までの吉兆が全て裏返ってしまう!」
見上げていた空に閃光が走る。
太陽、だと思っていたものから、まっすぐ内裏へ向けて真っ赤なつぶて、赤雷が。着弾の瞬間の音は聞き取れなかった。
それでも、今日、あの場所には。
崩れた建物の間を急ぐ。
大内裏の門に詰めているはずの検非違使も壊れた建物から人を助け出したり、救護に走り回っていて、魔除けの弦打ちの音も止んでいる。
車宿りでは牛馬が暴れ酷い有様。
それらを横目で見やりつつ、内裏まで駆け抜けた。
崩れかけた門をくぐると、昭陽舎の軒下で見知りの女房を見つけた。
童女のように髪を振り乱して、怪我人を助けている。
「恵美姫!今日参内した新斎宮はどこにいる!」
「か、影丸…!遅いわよ、バカ!」
梨壷の尚侍、恵美姫は深窓の姫君とも思えぬほどの大声で影霧を罵ってから、張りつめた糸が切れたようにはらはらと涙を落とす。
「中務で帝や皇族方との対面中に事は起きたわ。地震で皆が浮ついた一瞬だったの…」
「そこに雷が…それで、姫は」
「桐壺へ行って。これ以上は…」
袖で顔を覆って涙する恵美姫を置いて、門外へ逃げようとする人波を掻い潜り、人気のない淑景舎へ上がる。
鼻につく臭気は肉の、人の、焼けたもの。
恐ろしい予感が強くなる方向へ歩みを進めると、養い親で陰陽頭である師匠が、格子の下ろされた小部屋の前で結界の呪を唱えている。
「師匠」
「…来たか、影霧。お主はただちにこの怪異の源を突き止めよ」
「鞠姫はこの中ですか?」
師匠の顔には疲労の色が濃い。けれど、篭められている部屋から妖気など感じない。生気も、無い。
すでにご遺体なのか、邪気の憑代になるを避けるための結界か、それにしては、師匠の消耗はどういうことか。
格子に手をかける。師匠の止める声など耳に入らない。
そして、目にしたものの衝撃は。
白絹の敷布の上に、黒焦げた塊が置いてある。常人ではこれが何かも解らないだろう。けれど、影霧にはわかってしまう。
「そんな、まりあ…」
これでは蘇生も叶わない。
それほどまでに壊された。
つい、今朝までは影霧と言葉を交わしていたのに、斎宮になって叶えたい願いを語っていたのに。
誰が、こんな惨いことを。
師匠の結界術が強くなる。
「わからぬか、影霧。相手は燃やし尽すこともできたのに、わざわざ遺体を残したのだ。我等の憎しみを煽るためぞ」
「…しかし、これが憎まずにいられましょうか!」
怒鳴り声を上げて淑景舎の小部屋を飛び出した。
影霧の体からは燃え上がるほどの力が溢れるのに、心は凍りついたように冷える。これがわが身を滅ぼすほどの怒りと憎しみというものか。それも良いかと思えるのは悲しみに囚われているからだ。慟哭さえ生むことができない。
いくらも歩かぬうちに、先程あった恵美姫が青ざめた顔で影霧を待っていた。
「あのね影丸…、あの雷が狙ったのは鞠姫さまではなく、東宮だったのよ」
辛そうに言葉を選びながら、伝えられる事象。
「雷が落ちる寸前、呪詛の声が聞こえたらしいの。その時、一番近くに控えていらした鞠姫さまがその身代わりとなって」
「それがどうした?代わりに東宮を恨めとでも?」
熱に狂った頭でそう零すと、恵美姫の平手が影霧の頬を打った。
「あんただけじゃないのよ!異母姉をあんな風に亡くしてしまった東宮や陰陽頭の悲しみを、あんたわかってんの?」
頬の痛みと、突き刺さる恵美姫の叫びに、わずかに冷静さを取り戻すことができた。それを見失う前に呼吸を整え真言を唱えると、影霧の視界から曇りが取れる。
なおよく視えてしまう惨状を落ち着いて胸に刻む。
「…すまなかった」
「謝らないわよ、あたしは。…あ」
はらりと影霧の肩口に呪符が舞い落ちた。昼前に飛ばした式神が打ち返されたのだ。
かなり手強い術者がいる。
恵美姫に短く護りのまじないを与え、大内裏の南、朱雀門から都大路へ飛び出した。
火事の炎を鬼、妖どもが撒き散らしている。
両手を合わせ印をを結ぶ。陰陽調和の真言を唱え、力を解放すると大路にあふれる妖どもを一気に粉砕しつつさらに南へ駆ける。
やがて、最初に見えた火柱の一本までたどり着いた。
炎の中で巨大な百足が何かを守るようにとぐろを巻いている。
ざっと呪符を配し、指を弾いて火柱の結界を撃ち破ると、紅い百足が牙を向いて影霧に迫る。
「消えろ、醜い化け物!お前など、ボクの敵ではない!」
指先から真言の力を撃ち出す。赤く輝く矢が百足の体を次々砕き、最期に、怨、と啼いて消えた。
後に残ったのは、謎の呪符が貼られた一枚の鏡。符を引き剥がすと都を覆っていた黒煙がさっと消え、火災の勢いも一気に萎えた。
手の中に残った鏡に映る影霧は、今し方倒した妖に見えた。
悲しみと怒りと憎しみに支配された、妖。
地に叩き付けると、鏡は意外なほど高い音を立てて二つに割れた。
後編へつづく