Side E





精霊たちが騒いでいる。
なんとなく気が昂ぶって、毛布を被っていても眠れずにいた。
鬱々としていると、気のせいか、扉の開く音がして。


ああもう!落ち着かねぇ!


とうとう起き上がり、ベッドを抜け出す。
窓の外は薄明かり。
今日は満月のはずなのに、空が曇ってるんだろうか?
外に出ようと宿舎の扉を開けた瞬間、暗い外の風景が赤く染まる。


「…どうりで精霊たちが騒ぐわけだ」


月蝕。
赤銅色に輝く月は、白い月よりもずっと大きく感じられる。
精霊たちが強い陰の気に怯えている。
不気味な色のだと思うのに、わずかの間、魅入ってしまう。


そういえば、さっき誰かが外に出て行ったんじゃぁ?


気のせいかもしれない。
でも、何かひっかかるような気がして。
赤い月明かりの中、赤く照らされた道を村はずれへとたどる。


広場まで来て。

ぱしゃり

魚が跳ねた音かと思った。

ばしゃん

少し大きな水音。
泉の方へ視線を投げる。
月の光で水面が赤く輝いている。
その真ん中に。

泣き妖精?
…違う!?


「…ルティナ?」


顔を上げた彼女はひどく怯えた表情で。
本物の妖精のように、消えてしまいそうだった。


「寄るな…近寄らないで」


細い声で言いながら、泉の奥へ、沈んでゆく。
拒絶の言葉は、この世の全てを拒んでるように聴こえて。
つかまえなきゃ死んでしまうと思った。


「待て!いったいどうして…」


逃げようとするルティナの腕を掴むと、一瞬ぬるりと滑る。
手首を捉えて引き寄せると、腕には傷がいっぱいで血が滲んでいる。


どうして、こんなことをする?


言いかけて、言葉を飲み込む。
絶望の淵から、助けを求めて、すがりつく、瞳。


「のどが…渇くの……どんなに飲んでも…乾いて乾いて…水は私に…届かない」


ひび割れた声。
ひび割れた心。


狂おしいほどに愛しくなり、抱き寄せて口付ける。
唇を割って舌をに触れると、その冷たさに驚く。
少しでも温めてやりたくて、舌を絡めて。
唾液がこぼれてルティナの中に落ちてゆく。
少しずつ、体の震えが治まって、瞳の中の怯えが消えて、ゆっくりと唇を離す。


「いま、渇きが癒えても、またのどが渇いたら、どうすればいい?」
「また口付けてやる」


乾いているのは心だ。
傷ついているのも心だ。
泣いているのも…触れるだけで壊れてしまいそうな、脆い心。


「この手はどうすればいい?返り血に染まった赤い色はどうすればいい?」
「そんなもの…見なくていい。おれのことだけ、見ればいい」


見えなくしてやる、他に、何も!
強引に抱きしめて、口付けて。
水面に崩れ落ちてゆく体を支えようとは思わなかった。


おちるのなら、どこまでもいっしょにおちてゆこう。


赤い光の舞う、暗い水の中。
力を失って沈むルティナを強く、強く抱きしめて。








激しい水音を立てて、泉から上がる。
冷えた体を抱いて。
なのに、溢れ続ける涙と、腕の傷から流れる血だけが、いつまでも熱い。


知りたい。
知らなくちゃならない。
ルティナの負っているもの、傷のすべて。


過去を消せるものならば、全てを消して。
過去を変えられるものならば、全てを変えて。
何も消せず、何も変えられないのならば、せめて…。


2002.10.31





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