farewell -01
「ごめん、守ってあげられなくて」
弱りきって握り返す力も無い細い指を壊さないようにつつむ。
「あなたに会えて嬉しかった、でも会わない方がよかったね」
こんなことになるのなら。
彼女はもう逃げられない。最後に残ったささやかな笑顔さえも、闇が喰らい尽くそうとしている。
「さいごまで、一緒にいるから」
ありがとう、と、唇が動いて、眠った。
透明な面差しは、他の誰より自分と似ていて、自分の死に様を見ているようで。
理不尽だ。
小夜子は、帰ってしまった。魔物に魅入られて、地獄だと解かっていても戻らずにはいられなかった。
やっと解放されたのは、存在価値が無くなったから。
何の為に生まれてきたのか、幸せなんてあったんだろうか。
まだ二十歳だろ。
こんな、ボロボロなんてありえないじゃないか。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
亘が、宮原の変化に気付いたのは、彼が消える一週間ほど前のこと。
昼休みに次の授業の予習でもしておこうと物理教室へ入ると、宮原が携帯電話で話をしていた。
校内でのメールや通話は禁止されてるので作業机の影でこそこそとやってる。
「もうすぐ授業が始まるから切るね。また電話する」
慌てた様子もなく通話を終えた。
小学生の頃からの付き合いだが、亘が知る中で宮原に「彼女」がいたことは無かった。昔から美鶴と同じくらい(愛想の良さからそれ以上かもしれない)女の子に人気があったのに、知人・友人以上になった女子はいなかった。
ひょっとして、初めての彼女、かも。
携帯電話を耳から離して手の中のそれを見つめる宮原は、彼を見ている亘の心をも締め付けられそうなほど優しかった。
「ケータイ、買ったの?」
「貰ったの。イイでしょ?」
ちらりと見せびらかす、男子高校生が持つにしてはあまりにも可愛らしいピンク色のそれ。
「女の子に?」
「年上だよ」
意味ありげに長い指が携帯電話をつつむ。
携帯電話を高校生のカレシに持たせるほどの、経済力があるっていうことか。社会人?宮原ならそれもアリかもと納得しかける。
「宮原の交友関係、全然わかんないよ。付き合ってるの?その人と」
「付き合ってるよ」
「アヤちゃんは?」
「芦川の妹だろ」
淀みなく言い放つのは、答えを準備していたとしか思えない。
「うそだろ。アヤちゃんはそう思ってないよ」
「兄に抜けてる部分を俺で補充してるだけだよ」
事実、それに近いけれど、それだけじゃない。
芦川アヤはこころを見抜く。宮原を頼りにするのは宮原の中に何かを見出してるからだ。
「美鶴にはその人の話、してるの?」
「してないけど、俺が携帯持ってるのは知ってるよ。相手が女だってのもね」
その美鶴が干渉していないのだから、亘も口を挟むなということか。
それにしたって、いきなり開いたこの距離感はなんだろう。
恋愛に夢中になって他のものを見失うような、宮原はそんな余裕の無い付き合いはしない。
いつもの宮原じゃない。
「わざと誤解させるような言い方してるでしょ」
「何で」
「宮原に悪役は似合わないもん」
「芦川が三谷にお人好しって言い続ける理由がよくわかるよ」
予鈴が鳴る。宮原は立ち上がり携帯電話をポケットにしまった。
他の生徒がぞろぞろと物理教室に入ってくる。
亘だけに向けられた苦笑は、よくわからないまま酷く不安な気持ちにさせられた。
通学圏の広いこの学校で、携帯電話を持つ生徒は多い。
家や友人、恋人に電話をかけたり、授業中にメールをしているヤツもいる。
けれど、宮原の電話の頻度はかなり酷い。
休み時間にはどこかへ行って隠れて話をしていたり(教師に見つかれば厳罰の上没収されるのに、その危険を掻い潜ってまで)、放課後は部活にも行かず寮の自室で延々と電話をするようになっていた。
宮原のあまりの変化に、級友たちも揃って驚き呆れた。
亘も普段の表情に戸惑いを乗せてしまう。
「アレが恋は盲目ってヤツなのかな。自分じゃ気付かないけど、他の人がやってると驚くよね」
「いくらなんでも、あれは異常だろ」
次いで美鶴が不快げに愚痴をこぼす。
寮で同室となれば、どんなに小声でも、聞こえてしまう話し声に始終悩まされるのだから。
四六時中、電話で優しく甘ったるい言葉を吐き続ける宮原を、新種の珍獣を観察するように眺めていた。
「話す事が無いなら電話を切ればいいのに、黙っていてもずっと繋いたままだ」
会話が途切れたので終わったのかと見れば、宮原は電話を肩と耳で挟んだまま机の上の宿題をやっているのだ。宿題に集中すれば会話はおろそかになるのが当たり前だ。その態度があまりにも不誠実に見えた。
「そんなヤツだとは思わなかった」と言ってやる。なのに宮原はけろりとしていた。
「繋がってたいんだよ。僕が勉強してても、小夜子が眠ってるときでも」
それで、相手が電話をしたまま眠ってしまったのがわかった。宮原も宮原だが、相手も相手だ。眠いのなら切ればいいのに。
けれど、繋がった回路を切れないという宮原の心に触れて、美鶴は戸惑う。
他人の愛の形なんて、美鶴には良し悪しを決められない。相手の女がどういう人間でも、宮原は慈しんでいる。
せめてもの抵抗と「通話料金がかかりすぎるんじゃないか」と言ってみれば、「かけっぱなし定額コースなんだ」とにっこり笑う。美鶴の関心を得たのが最大の収穫と言わんばかりの笑みだった。
アヤの気を引いたままというのが少々腹立たしかったが、宮原に恋人ができたというのは、友人として喜んでやるべきなのだろう。
なのに、何故か引っかかる。
明るすぎて、光源がわからないような。宮原の輪郭がぼやけるような錯覚。
亘と美鶴、だけじゃなく、学校や生活の総てを疎むほどに距離を置いていた。
後から思えば、それすらも突飛な行動を納得させるための準備だった。
金曜の午後、授業中にもかかわらず教師の制止を振り切って宮原は教室を飛び出した。携帯電話を握り締め、血相を変えて。そのまま授業に戻ってこなかった。
寮には脱ぎ捨てられた制服が残ってた。私物も、携帯電話以外はほとんど置き去りだ。サイフも、中身だけを抜いて置いていった。
それからノートの切れっ端。
『遠いところへ行ってくる。努力するけど、戻れないかもしれない。ごめん。さよなら』
走り書きの宮原の字が並ぶ。
覚えのある文面に、美鶴と亘は顔を見合わせた。
つづく
2006.09.10
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