River
三谷っていつまで三谷なの?
親リコンしたんでしょ?お母さんの方にいるんでしょ?
じゃあ名前変わるんじゃないの、フツー?
担任に呼び出されて職員室から戻ってきたら、亘は女子に囲まれていた。
いや、ひとりの女子が亘に食って掛かっている。
「おばあちゃんのところの跡取りが僕しかいなくて、僕は三谷のおばあちゃんの養子に入ったんだ」
背筋を伸ばして、けれど構えることも無く、亘は女子を見返している。
「三谷、帰るぞ」
「じゃあお母さんと名前が違うの?」
「うん」
「そんなの、お母さんがかわいそうじゃない」
「三谷」
繰り返して呼ぶ。
亘を突き刺す、言葉の矢が酷く痛い。
「ずるいよ、三谷!あんただけ、元のままなんて!」
カバンを机に叩き付けた。
「お前、三谷が、…何でも子供の思惑通りになると思ってるのか。大人の勝手に決まってるだろ」
「芦川、違うよ。僕が決めたんだ。名前は、運がよかっただけなんだ」
亘は、静かに告げると、カバンを肩に引っ掛けて、全部の視線をすり抜けて教室を出て行った。
止まらず、ひとりで帰っていく亘を捕まえようとすると、廊下で、亘を取り巻いていた女子が追いすがってくる。
「芦川くん!ユッコのこと悪く思わないで!」
「ユッコも親が離婚して、名前が変わったのよ」
「だから、三谷にヤツ当たり?」
皮肉な笑みも出てこない。あの女子も、同情するこいつらも許せない。
教室の扉がガラリと開いた。亘の前で怒りをぶちまけていた女子は、泡みたいにボロボロに泣いていた。
「芦川くんの言う通りよ!子供の思い通りになんかならない。なのに、三谷は、自分で決めたなんて大嘘つき…!腹が立つのよ、あのバカ!」
別の怒りをぶちまけて、泣く。
ああ、こいつ、亘の前で、こんな風に泣けばいいのに。
そうすれば、考えてること全部わかるのに。
「俺も、あいつはバカだと思う」
「…ごめん。明日、三谷に謝る」
さわさわと、女子は教室へ戻っていく。
扉ががたん、と閉まると、怒りはすっと収まった。
傷つけるつもりじゃなくても、傷つけてしまうこと、それは誰にでもある。
そう、教えてくれたのは亘だから。
亘はひとりで行ってしまった。
無意識に、あの女子を傷つけていたことを、きっと悔やんでいる。
走って亘を追いかける。通学路をどこまで行っても、亘はいない。
ふと、後ろを振り返ると、運河沿いの歩道を、家とは別の方向へ歩いていくのが見えた。
どこへ行くのか。
ゆっくりと、よりみちを楽しんでいるみたいな亘を追いかける。
小さな橋を渡り、下町を抜け、押しボタンの信号を渡って、最後に坂道、階段じゃなくて土手をじりじり上がる。
豊かな水を海へ押し流してゆく、大きな川。
堤防を降りて、低いフェンスも越えて、雑草を掻き分けて川辺まで進む。
傾いた太陽が水面に無数のオレンジの輝きを落としている。
「わたる」
呼びかけても振り返らない。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「小さな頃、父さんと一緒に散歩したんだ。帰り道で寝ちゃって、すごく重かったって」
思い出の川。
泣いているのかと、隣に並んで亘の顔を覗きこむ。
亘は、口元に笑みを浮かべて、瞳に川面の色を映している。
いきなりおとなみたいな顔をする。
ずるいよ、腹が立つんだよ、お前。
ばか。
声になる前に、涙が落ちた。
ぱたぱたと、金色の雨が降る。
「みつる」
顔を上げることができなかった。
唇を噛んで、瞳に川面の色だけを映した。
手が触れた。
指が触れた。
手のひらを合わせた。
指を堅く組み合わせた。
指の隙間にあるものを、絶対離したくなかった。
傷ついても、傷つけても、この手があれば、歩いていける。
冷たい川風が髪を散らかす。
「あの女子、明日お前に謝るって」
「気にしてないからいいのに」
「三谷は嘘つきで大バカだってさ」
「きっと美鶴のことが好きなんだよ。僕が独占してるからやきもち焼いたんじゃない?」
「…お前、ほんと、バカ」
あまりの気の利かなさに苦笑を漏らすと、意味がわからず曖昧が嫌いな亘はぷぅっと頬を膨らませた。
空の色が変わる。
桃色、白、水色、青、蒼、群青、闇色。
川の色を朱色に染めた陽が落ちると、薄雲の間に一番星がチラチラとまたたく。
「わたる、一緒に帰ろう」
答えの代わりに、繋いだ手が強く握り返された。
おわり。